恋の運命脳内暴走中
それでも宿舎は、香が牡丹を彫っている間は壊されない。師匠もいれば1ヶ月。1人だから2ヶ月ちょっとになる。
「まだ、1ヶ月以上安心ですよ」
香はおっさんに告げた。
「いえ。本当は香殿1人で宿泊していることになっています。嫁入り前の娘。万が一私が見つかったとき、香殿の評判に傷がつきます」
「「きず。」」
若い娘である香にも白露にも、まったくその発想はなかった。もとより、2人ともどこかに嫁ぐことなど、これっぽっちも考えていなかったのだ。
「嫁ねー」
白露は黒目だけで天井を見上げた。
「そーいえば。なんか、仕事のことしか考えてなかったよ」
適齢期という現実を突きつけられた香は、油灯の小さな炎に目をやった。
おっさんはくすくす笑いだす。
「お二人は、才があるから家に収まるのはもったいないですね。今が楽しそうだ」
その後、おっさんは宿舎の反対側の方へ「おやすみなさい」と消えた。
「嫁か」「嫁ねぇ」
香と白露の話題に、食べ物以外のことが加わった。恋バナである。
香はうっとりと憧れを語りだす。
「私ね、運命的な恋をするの。『牡丹亭』みたいな。でね、恋の病になる」
それを聞いて白露は尋ねる。
「『牡丹亭』読んでないんだよね。で、最後ってハピエン? 結婚すんの?」
「結婚するよ」
「ふーん」
「あんま、興味、なさそーだね」
「いーなーとは思うけど。仕事、出会いないじゃん。職場はほぼ宦官だからさ。まず恋愛諦めてる」
確かに。護衛をしている白露は、職場ではほぼ宦官としか出会えない。「牡丹亭」は夢の中で出会って恋に落ちるのだが、それはフィクション。夢見る乙女であっても、17歳の2人は現実的だった。
「休みの日に出歩くじゃん」
「みんなが仕事してるとき、ふらふらしてる男なら見かける。いかにもOUTな。他は飯屋の店員とか。香だって一緒でしょ?」
「そっか。マジで『牡丹亭』みたいに夢で会うしかないじゃん」
──墨竹と出会えたのって、奇跡かも。だったら、私って墨竹と結ばれるしかない!
香は墨竹との出会いに運命を感じた。実は、おっさんにも洛にもこれまでの兄弟子や仕事先の人々にも出会っているのだが、それらはまったく数に入っていない。結婚や恋愛という可能性であれば、万暦帝も宦官も入ることなど眼中にない。
──墨竹♡
運命と決まれば、結婚に繋げるべく調査開始である。
「白露ん家って武官なの?」
皇帝の周りに仕える錦衣衛などは由緒正しき武家のぼんぼん。墨竹の生まれが武家ならば、庶民の香は問題外。可能性は側室となる。香は貧乏には耐えられるが、男のシェアは生理的にキモい。
「ううん。軍戸」
軍戸とは、兵役を義務付けられた戸籍で、そこに登録された人々は基本的に農民である。代々、その家から兵士を出すことが定められていた。
軍戸に生まれた墨竹は次男だった。墨竹と白露は、小さなころから武術の養成所に通っていた。白露は周りから男と思われていたらしい。双子はその養成所で頭角を表し、宮廷の警護を担う一派にスカウトされた。
通常、軍戸に課せられている兵役は1戸に1人。このころの兵役は、罰ゲーム的な位置付けであり、金を払って免除してもらうなどが横行しているという有様だった。なのに1つの軍戸から2人。
「口減しだよ」
香は納得した。墨竹はそれほど感じないが、白露の大食いは並ではない。普通の家なら食費で詰む。
「スカウトされたときは、私の方が墨竹より、ぜんぜん速くて強かったしさ」
双子だけれど、2年ほど前までは墨竹の方が背が低く、ガリガリだった。
香は、墨竹を「やっぱ運命」と感じた。武家ならば身分違い。しかし軍戸。墨竹の両親が香が養女であることを理解してくれればOKである。
墨竹の勤務先は乾清宮。ほぼ宦官しかいない場所。しかも、影の護衛なので、人前に出ることは稀。つまり、出会いの場はない。
──私、1番近くにいる女の子かも。
香は、墨竹が1日おきに休みであることを、すっかり失念していた。
◇
乾清宮には光が溢れ、静かな時が流れる。
一歩。また一歩。天橋を上った回廊を進むと光の中に溶けそうになる。
巷とは隔絶された神聖なる世界。しかし、引き摺り込まれるような闇が潜んでいるのだった。
9室のベッドルーム、27床ものベッド。暖閣の簾は、9室同時に下ろされる。1日の終わりの儀式のように。
その話を聞いたとき、香は、27のベッドが暗殺対策であると確信した。
香は、闇の欠片を見つけた。
「何か落ちています。取っていいですか?」
作業している場所から30cmほど離れた、床と手すりの隙間。木と木が噛み合う切れ目に何か小さな金属のものが嵌っている。よく見れば、床と手すりの間は赤黒く変色している。血痕だろう。
香が指差すと、見張りの宦官は一瞬眉をひそめた。
「ゴミですか。お願いします」
錐と小さなノミで挟むようにし、ぴょんと飛び出させる。2cm足らずの小さな釘が、ころりと回廊の床に転がった。
「釘でした」
香は釘を宦官に渡そうと差し出すように掲げた。しかし、宦官は一瞥しただけだった。それ以上、自分からなにかを言うことも憚られ、香は小さな釘を紙で包み、道具の中に仕舞った。
乾清宮を立てる大工は、基本的に釘を使用しない。
金属を使用せず、榫卯という木と木を噛み合わせる伝統技法が用いられる。
木材の端に枘(突起)を彫り、もう一方の木材にぴったりの枘穴(穴)を彫って、パズルのように噛み合わせる。木材は、湿気や気温の変化によって膨張したり収縮したりするため、硬い金属で固定すると割れてしまう。地震や強風の揺れに対しても、木組みの「遊び」がエネルギーをいなす。
釘を使うとすれば、床板や、扉の取り付け、作り付けの家具の固定ぐらいだろう。
しかし、香がいる回廊の床には木釘が使われている。天橋(階段)や暖閣の床も同様である。仮に、ベッドのどこかを金属の釘で固定しているとしても、2cmより小さなものなど使わない。
この釘は、乾清宮の建築ではない職人が落とした可能性が高い。
そして、周辺に残る血痕。
香を見張る宦官は、榫卯のことなど知らない。釘はただの落とし物だと思ったのだろう。落とし物をした職人のミスを優しさから見逃してくれたのかもしれない。
──白露か墨竹に知らせよ。
墨竹は斬ったと言った。その人間が落とした物の可能性がある。
──集中!
求められているのは、手すりの刃物の跡とその奥にある血痕を隠すこと。なぜ花びらを舞わせるのか、蝶を遊ばせるのか。ランダムな刃物の跡は、牡丹だけでは隠しきれないからだった。
──皇帝陛下のお心が、少しでも穏やかに、軽やかになるために。
皇帝といえば五爪龍である。宮廷内は龍だらけ。しかし、万暦帝は、寝所からの眺めに牡丹を選んだ。だからこそ香は、柔らかな曲線を出そうと思った。




