香ロック・ホームズ
たかが釘、されど釘。
香は、宿舎にいた墨竹に報告した。
「使ってないはずのものが落ちてたよ。職人になりすまして潜り込んだのかも」
乾清宮は新築である。人が潜り込んだとして、いつのことだったのだろうか。建てている最中で、皇帝が住み始める前の可能性もある。
──墨竹は皇帝の護衛。護衛が斬ったってことは、側に皇帝がいたってこと。
「香、さすが! オレ、斬っちゃって、師匠に怒られてさ。死んじゃったら、情報を引き出せないじゃん」
その言葉に、香はゾッとする。拷問して情報を吐かせるということ。
──どっかの悪い人、さくっと斬られて正解。
「墨竹が斬った人って、何してたの?」
師匠から『何も訊くな、何も気づくな』と忠告されたというのに、香は好奇心塗れだった。
「上の暖閣の端から、布団を探ってきてた」
「え」
「黒ずくめで靴を履いてなくて。靴は別の日に宦官が掃除のときに見つけた。窃盗じゃない。窃盗だったら、寝所になんて行かないじゃん」
「だね」
「職人だったのか。どーやって潜り込んだんだろ」
香は、乾清宮などの建物の建築に、ほとんど鉄釘が使われないことを説明した。
「建具師かな」
と、香は自分の見解を述べる。
「は?」
「こんな小さな釘を使う人」
「職人になりすますために釘を持ってカモフラージュしてたんじゃね?」
「不自然だよ。宮廷に入るとき、どんな物持ってるかチェックされるんだよ。使わない物なんてわざわざ持ってこないよ。だいたい、釘って用途に合わせて大きさがある物だから、なおさら」
宮廷に入るときは入念なチェックを受ける。
身分証を提示し、持ち物検査。刃物や木槌の数をチェックされる。それが終わってようやく、門を潜り、香の場合は、いつもの宦官と合流する。
香は考える。もしも自分が夜の宮廷に用があったらどうするか。
昼間入ってどこかに隠れ潜み、夜を待つ。どう入るか。職人で宮廷から仕事を請け負っていれば、簡単に入れる。今の香のように。しかし、出る必要がある。ここをクリアできればいい。
乾清宮はできあがっているが、交泰殿、坤寧宮はまだ工事中である。それらを建てるために通う大工集団は、大勢でやってきて、警備をしている兵士が身分証を預かり、登録と付き合わせて照合する。そして、持ち物検査が行われ、門から入る。
「ってことは、釘を使う人ってこと?」
「可能性だけど」
「じゃ、釘持ってた職人の記録を見ればいいのか。あの日の職人は、事件の後、みんな調べたんだ。怪しい者はいなかったと報告を受けてる」
なんとマヌケなことか、と香は呆れた。怪しい人間は斬られて既にいない。残りを調べてもどうしようもない。しかし、確かにそれ以外に調べる方法などないかもしれない。
「そーなんだ」
香には疑問があった。武器である。宮廷に入る際、持ち物チェックがある。
「その不審者は、何か持ってたの? ほら、ノコギリ持ってたら、大工確定じゃん」
例が非常にダサい。手で引くノコギリで人を襲おうとする者はいないだろう。
「紐」
「ひも?」
「革の紐を持ってた」
考えられる使用方法は、絞殺。
墨竹は、お茶を飲みながら、うんうんと頷く。艶やかな黒髪が肩からさらりと零れ、心許ない油灯の光の中で香を誘惑する。
──きれー。髪1本1本の毛先まで素敵。
泣きぼくろ様の美しさに心のガードが緩み、つい、香はいらんことを尋ねてしまう。
「皇帝陛下って、誰から命、狙われてんの?」
すると、
「多すぎて分からん」
と返ってきた。
香は推理する。
「定番は、弟だよね。ほら、繰り上がりで自分が皇帝になれるじゃん」
「マジで低俗。黙れ」
しかし、墨竹に一蹴されてしまった。
「皇帝陛下は弟君と、それはそれは仲がいいんだ。母君が同じということもあって、常に文のやり取りをなさっている」
「ごめん。知らんし。そんなこと。あ、じゃ、官僚だ。ほら、バッチバチに揉めてるでしょ? 洛を皇太子にしろって言ってた官僚、罷免されちゃったって聞いたよ。万暦帝を怒らせたからって」
政治の詳細は庶民に伝わらずとも、スキャンダルな話は巷に流れる。
「あのさぁ。話したじゃん。皇帝陛下はそんな薄っぺらいお方じゃない。でもまあ、敵は敵だよな。1番目立つ」
「ふーん。妃も敵だったりするの? ほら、火事」
2年前、坤寧宮、交泰殿、乾清宮が焼けた。
今年6月、保和殿、中和殿、大和殿が焼けた。
これがどれほど異様なことなのか。
堀を入れると、宮廷の南北は961m、東西は753m。この広さの中央に南北に1列、6つの宮殿が並ぶ。堀を渡り、午門から宮廷にはいると大和門がある。大和門を潜ると大和殿。その北に中和殿、更に北へ進むと保和殿。そして乾清門があり、その先は乾清宮、交泰殿、坤寧宮。庭があり、神武門、堀に至る。メインの建物が焼けたのだ。
将棋にたとえるなら、王将、金銀飛車角を失うに等しい。
人体でたとえるなら、乾清宮、交泰殿、坤寧宮は頭、保和殿、中和殿、大和殿は胴体に当たるだろう。体の要を焼かれるようなもの。
万暦帝は、2年前の大火に関して罪己詔を発令した。自分の不得を天と民に詫びる詔勅である。
墨竹は、2年前の大火のとき、護衛としてその場にいた。
「すごい速さで火が広がった。回廊で繋がっててさ。そこから。あっという間だった」
「回廊、壊す間もなかったの?」
家屋が密集している場所では、燃え広がらないように周囲の家をあらかじめ取り壊すという防火の手段が使われることがある。
「皇帝陛下の建物を壊せる者なんていないって」
「じゃ、見てたの?」
「水かけてた。ぜんぜん効果なかった。オレは皇帝陛下についてただけで。とにかく怖かった。トラウマ」
「そっか」
2年前なら数えで15歳。そんな修羅場、トラウマになっても無理はない。
「そしたら、今年も6月に火事で。それは外朝だったから、少しは遠かったけど」
墨竹は天を恨んでいた。
「皇帝陛下に苦難をお与えになるなんて、いったい天は何を見てんだよ」
香は意外だった。
「墨竹って、天とか神とか信じてんの?」
香の言葉に、墨竹は眉根を寄せる。
「え?」
一般的に信じていない者などいないのである。天変地異や災害を神仏の意志と結びつけるのはごく当たり前のこと。
「火は、神様が点けるわけじゃないよ。消し忘れだったとしても、それは神様じゃない。皇帝陛下の命を狙って乾清宮に忍び込んだ人がいたのは、神様のせいじゃない。その人が亡くなったのは、神様の罰じゃなくて、墨竹が斬ったから」
墨竹は「ん、ん、ん?」と訳のわからないという顔。
「誰かが皇帝陛下に危害を加えたかった。理由は、恨みかもしんないし、それによって得をするとかかもしんない。職人に紛れて宮廷に入った。斬られた。宮廷に入ったとしても、出なきゃいけないはず。でも、出ないで済んだ。どこかがおかしい。火事だってそう。偶然や天の采配で、6つもの宮殿が焼けることなんてないよ」
───────神武門───────
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| 坤寧宮 |
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| 交泰殿 |
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| 乾清宮 |
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・・・・・・・・乾清門・・・・・・・・
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| 保和殿 |
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| 中和殿 |
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| 大和殿 |
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・・・・・・・・大和門・・・・・・・・
────────午門───────




