チンギスになりたい
天や神を信じないと言う香に、墨竹はきょとんとしていた。それについて、宮廷の大火にまで言及したのである。
「あのさ。その話、明日、洛に伝えていい?」
「あ、うん。いーけど」
「皇帝陛下に伝えるかどうかは洛の判断を仰ごう。釘、預かっていい?」
「お任せするよ。皇帝陛下に伝えないのは、お心に、よけいな負担をかけないため?」
香は、墨竹の忠心と、その優しさにじんわりする。
「香が危険に晒されるからだよ」
まさかの自分の名前。
「え?」
香の心臓の鼓動がどきどきとだんだん速くなる。
「洛には、こっそり話せる。でもさ、皇帝陛下に話すとなると、大勢が聞き耳を立ててる。もちろん、全員が信用できる人間。だけど、どこからどう漏れるか分かんねーじゃん。釘を拾ったのが香ってのは、宦官が見てたんだろ? だったら、香に攻撃が向くかもしんない」
──墨竹。そんなに私のことを……。
香は心を打たれ、両手の指を組んで墨竹を見つめる。
「それを見てた宦官、皇帝陛下の周りで話を聞いちゃった人も危ない。被害者になりそうな人が二桁になる。洛に話す場合は、誰も聞いてないから0」
──……。ちっ。
単に、被害予測人数としてカウントされていただけだった。
◇
数日後、宦官から「明日、雨だから休みにします」と告げられた。
雨天では、屋外作業の大工達が休みになる。それに合わせてくれたのだろう。しかし、本音を言えば、晴れた日を休みにして欲しい。洗濯の都合や遊びに行くことを配慮すれば、断然、そうすべきだと香は思う。
翌日が休みという少しは浮かれた夜、宿舎にいたのは墨竹だった。
──じゃ、明日は白露がお休み! 白露と一緒に甘味処へ行って、アクセサリーを見て。お芝居って、雨の日はやってるんだっけ?
彫刻の仕事をする香は、仕事を天候に左右されない。わざわざ雨の日に出かけたことがない。芝居の事情など知らない。とにかくちょっと贅沢することは決めている。今回請け負った仕事は高額。香の懐は暖かい。白露と一緒に遊ぶことにわくわく。
「チンギス、お留守番だね」
普段ほぼ宿舎を空けている香が、チンギスに話しかける。チンギスは香の方を向き、少し首を傾げる。犬は人間が話しかけると大抵こうする。狼も同じなのだろう。それが済むと、即、チンギスは墨竹の肩に顎を置いた。
チンギスは、今日も墨竹とらぶらぶしている。ベッドの段に腰掛けている墨竹の足の間にすっぽりとお尻を収め、体を彼の胸に預けている。彼は後ろ手に体を支え、チンギスと見つめ合う。
──きっと、墨竹のカノジョになったら、あーやって可愛がってくれるんだね♡
香は妄想が止まらない。また鼻血が出るといけないので、騒ぎ出しそうな心をぐっと理性で押し留める。
──大丈夫。
まだ外は明るい。傍には、テーブルで夕食を食べるおっさんがいる。理性を保てる。
「あ、香。洛から伝言。明日、釘がどこに使われてるか探してくれって。それで、どこで作業してた人が怪しいか分かるから」
「えーっ」
墨竹伝に依頼され、香は思い切り不服の声を出す。
「なんだよ。用でもあった?」
「白露と一緒に遊びに行こうと思ってた」
「白露と一緒に探してほしいってさ」
ならば仕方がない。しかし、高貴な人間というものは下々の休暇をなんと心得るのか、と香は、洛の傲慢さにむっとした。
「ふーん」
「ちょうど白露が休みの日でよかったし。オレ、さすがに男だからさ」
と墨竹は笑う。泣きぼくろが垂れ目と一緒に垂れる。
「男だとダメなの?」
「後宮じゃん」
「後宮?」
「ま、乾清宮も後宮だけど、官僚の出入りがあるじゃん。さすがに、坤寧宮ってなると、いくらまだ誰も住んでないっつっても、男は入れないって」
宮廷の事情など香には分からない。墨竹は説明してくれた。
内廷と外朝の境は乾清門である。内廷とは皇帝のプライベート空間であり、すなわち後宮エリア。
「そーだったの? 女の人ばっか住んでるとこが後宮かと思ってた」
「乾清宮も後宮に入ってる。でさ、坤寧宮は皇后陛下が暮らされる建物」
「そーだったんだ」
「だから、女の人と宦官はいいけど、オレはちょっと。特別な用だったとしてもマズい」
坤寧宮はバリバリの後宮だった。しかも皇后が暮らす建物ならば、女の園の中心である。
墨竹が込み入った説明をするとき、チンギスはさりげなく体を離し、ベッドの段に伏せをし、顎だけを墨竹の膝に乗せる。構ってほしそうな仕草に、墨竹はもふもふとさりげなく撫でている。
「そーいえば、釘を持ち込んだ人って分かったの?」
忘れそうになっていたことを確認する。
「釘は記録されてなかった。建具師も。わざわざ建具師とか分類して書かないってさ」
木工、左官、石工、瓦工、彩画、彫刻など、大工といっても専門分野がある。そこまでは記録しないらしい。
「どーやって入んたんだろうね。ってか、どーやって出ないで済んだんだろ」
宮廷に入る際、自分の身分証を差し出す。それと引き換えに宮廷内の門を通るときに使う木札を渡される。仕事が終わると、宮廷を出るときに木札を渡して身分証を返してもらう。手順に沿っていれば、宮廷内に潜んだ場合、身分証がチェックする門のところに残ってしまう。当然、身分証が残っていれば、中にいるその者を探す。
「分からん」
そこで、テーブルで食事をしていたおっさんが口を挟む。
「入るときのチェックは厳しくとも、出るときはそれほどじゃないものです。どこでもそうだ。国境も、いろんな城壁都市もそうでした」
香も思い当たる節があった。
「それ、分かります。入るときは身分証と台帳を照合してるみたいだけど、出るときは、木の札を返して身分証をもらうだけ。書類に印くらいはしてそうだけど、ぜんぜん時間かかんないです」
「香殿は、女性ということもあって、顔を覚えられている。信用されてるでしょう」
「それはあるかもです」
「日本にいたとき、斥候をしたことがあります。兵糧を相談する商人に混じって潜り込んだ。初日はどこの誰か、武器を持っていないかチェックされた。それ以降は、形だけのチェックになった。挨拶だけの日もあった。そういう、人の管理は、だんだん杜撰になります」
その通り「それそれ」と、香は人差し指を立てる。
「本当はたぶん、1人ずつチェックしなきゃいけないのに、職人らの身分証、まとめて預かって、数数えて木の札渡してるよ」
なにせ大人数。所持品検査まである。毎日真面目にやっていたら、大工達が仕事をする時間がなくなってしまう。
「そーなるわなー」
墨竹は、現状を半ば諦めたように受け止める。そして続ける。
「じゃ、さりげなく、中に潜むチャンスを待ってたんかな? 刺客って、そんな気ぃ長いっけ」
「それはどうなのだろう」
とおっさんも腕を組み、一緒に「うーん」と考えてくれる。
香は、別の角度から見解を述べた。根拠は、墨竹が、事件の日、怪しい職人はいなかったと言ったことにある。
「仲間がいるよ」




