泣きぼくろ様の忠心
「オレ、墨竹。チンギスをよろしく頼みたくて、香にちまき持ってきた」
「え、私に?」
「そ」
「チンギスを?」
「こいつ、ここに暮らしてるから」
「そーなんだ、チンギス」
チンギスを撫でると、喜んで立ち上がり、香に両前足をかけてくる。その前足は座っている香の肩に届く。
「すっげー。チンギスがそんなに懐くなんて。こいつ、狼だから人嫌いなのに」
「狼?!」
「まだ子供だけどさ」
「ええっ。でかっ」
「27のベッドより、驚いてっし」
「あ、それ」
香はチンギスの体をわしゃわしゃ撫でてから、墨竹に体を向けた。
椅子に座った墨竹は、片肘をテーブルにつき、ふーっとため息を吐いている。
「あまりにエロい妄想で、ドン引きした」
「エロいって何。だいたい後宮に何人も妃がいるってのがエロいんじゃん」
目の前に美しい泣きぼくろがあるというのに、香は自分の名誉を守るため、少々ムキになってしまった。
「何人じゃなく、何十人」
「う”。サイテー」
「不敬罪で首が飛ぶって」
「エロじじい」
「ちがーう!」
「どこが」
すると、呆れ返った墨竹は説明を始めた。妃というものは、皇帝が自分の趣味で選ぶのではなく、皇太后が厳選する。皇太后が、明の国母となるべき気高い女性達を宮廷に供給する。皇帝自身の希望で後宮に大勢の妃を囲っているのではない。
「だから、違う」
「あっちにもこっちにも子供作るのは事実だよね?」
「……」
「勝った」
「どんな勝負だよ」
「で、やっぱ27人が『あっはーん』って待ってるの?」
勢いで口に出してしまってから、香は「しまった」と猛省した。相手は見目麗しい泣きぼくろ様。失言に、香は両手で口を塞いだ。
「ちげーし。絶対に違う。断じて違う。今すぐ27をアホな脳から消去しろ。でないと喉を潰す」
「え」
「目と手があれば彫れるだろ?」
香は「オレが斬った」という言葉を思い出し、ごくりと生唾を飲み込んだ。
もぐもぐもぐ
会話に困り、香はちまきを口に運ぶ。
しばしの間の後、墨竹が切り出した。
「そういえば、花彫ってんだろ?」
「牡丹の花」
「どんなだっけ」
香は花びらが何枚も重なっていて優雅でゴージャスな花だと説明した。墨竹は思い出してくれた。
「あぁ、あれか。鼻かんだ後の塵紙みたいな花」
──泣きぼくろ様の審美眼って……。
結局、27という数字をなぜ忘れなければならないのかは、はぐらかされてしまった。
「今日は白露が宮廷に行ってるの?」
「そ」
「いなかったよ」
人が何人も立っていた中に白露の姿はなかった。
「オレらは、あんま、人前に出ないから」
「そーなんだ。私の前に出てきたじゃん」
「それは、突発的」
「ふーん」
──バックハグ♡
「なんだよ。にやにやして」
「してない。あ、そーだ。万暦帝ってどんな人?」
「言うわけねーだろ」
「噂だと、ニートで引きこもりなんだけど」
「香、いい加減にしろ。マジで不敬罪」
「私じゃないって。みんなが言ってるの」
「知りもしないくせに」
「庶民が皇帝のこと知るわけないじゃん。見ることもないんだから」
「だよな。どんなお方か知らせたいくらい」
「だったら教えて」
「できない」
「ほら」
墨竹は、黙ったまま、自分の分のちまきを懐から取り出して、筍の皮を開く。
「ほらほらほら、言わなきゃ伝わんないよ」
香は好奇心いっぱいだった。
「伝えたらダメなんだよ」
「ニートで引きこもりってのは事実なの?」
「……それは、結果だ」
香は狐につままれた気分だった。結果というのは、巷で噂されている、ニート&引きこもりの先にある、財政がずたずたで政治が成り立っていないことではないだろうか。
──知らんけど。
「結果?」
香は人差し指をくるっと回し、首を傾げて見せた。
「じゃあ訊く。明に暮らしてる香は、政治がどーのこーので生活に困ってるか?」
「私は今んとこ。農民じゃないし」
「農民じゃなくても国民だろ。不作のときや飢饉のとき、治水対策に関してはちゃんと対応されている」
「そんなこと、庶民は知らないよ。立派なお墓にめっちゃお金遣っちゃったとか、よその国を助けるために兵士をばんばん送ったとかしか知らないし」
正面の墨竹はぎろりと香を睨む。瞬間、「言いすぎた」と、後悔が矢のように心臓を突き刺した。
「そう言われていることは知ってる。辛くてやりきれない」
悔しげな墨竹に、香は項垂れ、謝罪した。
「ごめんなさい。何も知らないのに、なんか、べらべらと。墨竹がお仕えしている主君のこと悪く言って」
墨竹は、香から視線を逸らし、絞り出すように言った。
「オレも、周りの者も、何も言えなくてさ。言うのが許されてない。でも、これだけは知ってほしい。世間で言われてるだけの方じゃない。噂は事実かもしれなくても、理由があるし、方向が違う」
「方向……?」
「説明するのも許されてない。とにかく、今、世の中は保たれてる」
「うん」
「それが結果の結果ってこと」
墨竹が「結果の結果」と言った瞬間、香の脳裏には、建ったばかりの乾清宮の前に残された、3つの広大な建物の土台が浮かんだ。国家の中枢である宮廷の、あるべき威厳ある巨大な宮殿が存在しない。その空いた空間は、万暦帝が政治を空洞化させているという噂に重なった。
「……政治とか、よく分かってないよ。私。あ、ね、ね、明日って、墨竹が仕事なんでしょ?」
「おう」
「変な宦官いたじゃん。あの人、明日、桂花糕持ってきてくれるって。墨竹にも渡そっか?」
香が話題を切り替えると、墨竹は眉間にシワを寄せる。
「あの落とし物……」
墨竹は途中から声を極小にしたので、香には途中から聞こえなかった。ただ、様子から墨竹が呆れていることだけは分かった。
「あははは。あの人、やっぱ落とし物、得意なんだ?」
「え? 香の前でもなんか落とした? あ、そっか。腰佩」
「だけじゃないよ。今日はね、まず、宦官の帽子でしょ、それから、手巾」
「何やってんだよ」
「いつもなの?」
「……。比較的、最も落としちゃいけない物を落とされる」
墨竹は最後、敬語を使った。香は気づかないふりをした。最も落としてはいけないもの。忘れそうになっていたが、怪しい宦官の腰佩は、高価な白い羊脂玉だった。庶民や下っ端が高価な腰佩を身につけることは法で禁じられている。
歳は香と同じくらい。
──宦官のカッコしてただけで、官僚かエリート宦官の御曹司かなんかじゃない?
香は抜けている。まず、乾清宮は内廷なので、官僚は入れない。もちろん、官僚の御曹司も入れない。官僚は外朝まで。そしてもう1つ。宦官には子供ができないので御曹司はいない。だからこその宦官。このアホな心の声が墨竹に聞かれなかったのは不幸中の幸いだった。なぜなら、これから恥を晒すからである。
どきどきと煩い心臓を片手でそっと抑えながら、香は尋ねた。
「今夜、墨竹も、一緒にここに泊まるの?」
別に何も期待していない。むしろ、いきなり一晩一緒など恥ずかしい。




