墓造りは被災者の為
「最初に咲いた、1番大きな、見事な一番花だったのです。目の前で、ぼとりとまとめて花弁が落ちました」
美老人は、淡々と話す。
宝一介寺が、次の秋に摘発されるだろうと聞かされている香は、不意に悲しくなった。
「前回もここでお会いしました。ご近所の方ですか?」
香の心臓は、どきどきと嫌な想像で速くなる。冬に出会ったとき、美老人は首と肩を毛皮で覆っていた。富裕である。この日も目の前にいる美老人は、華美ではないものの、上質な服を着ている。品のいい佇まい、小娘の香に丁寧に接する紳士ぶり、絵画の中に「後悔」「善意」を描いたのだと語る知性。
──この人、もしかして。
「この寺に住まわせてもらっています。いつもは写経などしております」
美老人は、宝一介寺に天下りした元官僚なのだろう。寺に住みながら僧でない存在など、他にない。
「そうなのですね。この牡丹は、雪がないから、守られていないのですか?」
香は思わず尋ねる。
「どうなのでしょう。雪が溶けて、冷たさが牡丹の花に染み込んだのかもしれません」
含みがあるのかないのかも判断できない。笑みを湛えた横顔に、香は図々しいお願いをしてしまう。
「絵を。ください。欲しいです。私、心を彫りたいんです」
香は、そこにある牡丹の絵でよかった。心が宿っている。
しかし、美老人は紳士だった。
「これは落書きです。色をつけた完成させたものをお渡ししましょう」
「本当ですか! 水墨画だけじゃないんですね。色も。待ちます。楽しみです」
香はそこで牡丹を描いた。
牡丹の花弁は風に舞うことはほぼない。花弁は1枚1枚散るのではなく、ごそっと固まって抜ける。香の描いた牡丹は「こうだったら素敵だな」という乙女チックな想像に過ぎなかった。豪華な花にはしっかりとした木があり、葉がある。微風くらいでは大きな花は揺れない。
──今まで描いてた花って、草花じゃん。
香は、自分の技量の未熟さを知った。しかし、世が求めているのは、木でも葉でもない。華やかな牡丹の花。
土の上に積もる落ちた花弁。香は初めて、それを描いた。
かさ
小さな音と共に、黄色い牡丹の花弁がぼとりと落ちる。香と美老人は顔を見合わせる。
恋をするように咲き始め、幾重もの花弁を華麗に開かせる。この世の美しさを集めたように優雅に咲き誇る様は心が恋情一色に染まるよう。やがて、散る。ぼとり、ぼとりと。
「咲いても牡丹、散っても牡丹」
美老人は、ふと、そんな言葉を口にした。
強い風が吹き、多くの花から花弁が飛ぶ。ごっそりと。地面に積もった花弁が飛ばされる。美老人は、目の前で震える一番花の木に手を伸ばし、花を両手でそっと包み、風から守った。
穏やかな時間が過ぎていった。
6月。
「万暦帝って、仕事サボって、何してんの?」
師匠の家に帰ったとき、兄弟子たちに質問された。
「ほとんどお見かけしないです。でも、官僚が来て国の話したりする声、聞こえます。中身までは聞こえませんけど」
「マジか」
「お気に入りの妃と遊んでんじゃねーの?」
「そーゆー雰囲気はゼロ」
「そーなん? 終わったことだけどさ、隣の国の戦にでしゃばったり、自分の墓造ったり、ロクなことしないって言われてっからさ」
香は心の中で「そんなふうに言わないで!」と、いつのまにか墨竹のようになっていた。
しかし、何も聞いていないことになっている。話せない。
洛が宿舎に遊びに来たとき、香は「悔しい」と訴えた。
「でさ、隣の国の戦は分かるんだけどさ、お墓造ったのは、あれはいらないよね」
訴えついでに苦言を呈するという、もはや洛が皇子ということなど忘れている香。墨竹が困った顔で香に視線を送っていることすら、本人は気づいていない。
しかし、洛は災害を挙げ始める。
「万暦11年夏、山東省、河南省、北直隷一帯、旱魃とイナゴ。万暦12年夏秋、長江下流、洪水。万暦13年春から夏、山西省、陝西省、旱魃、飢饉。万暦14年夏、湖広地方、四川省、水害。万暦15年、丁亥の大飢饉。万暦16年夏、山東省、河北省、イナゴ。万暦17年夏、浙江省、福建省、台風」
「え、なになになに。お墓と関係ないじゃん」
「お墓を造るとこにさ、人が住める。仕事をすれば食事も出るし、お金ももらえる。災害の受け皿になってたんだよ」
「……。そーゆーことだったの? とんでもない莫大なお金をかけて、生きてるくせにお墓造ったって」
「こら、香っ」
香の暴言を墨竹が嗜める。洛は説明する。
「そうだよ。莫大なお金。800万両。その多くは、行き場を失ってた人たちの手に渡ったんだ」
「どーして、そうやって言わないの」
「ん? そうやって?」
「みんな誤解してるよ。みんなが災害で大変な思いしてるときに、自分のお墓造ったって言ってる」
洛は眠たげな二重瞼の目を細めて笑った。
「知ってる。官僚たちがそう評価してそう広めた。オレも、ちょっと悔しい。でも、ちょっとだけ。父は、本当に困っている民が少しでも救われればいいってお考えなんだ。感謝されようとか評価されようとか、そういう心がないんだよ」
「皇帝陛下……」
墨竹が自分の胸にぐっと拳を押し当てる。
「オレ、小さかったし、後で聞いたんだ。5年半くらい工事したらしい。だけどさ、結局、官僚や役人達が搾取して、だんだん民にまでお金が行き渡らなくなったって。続けてると、搾取構造が組み上がってく。それに枝葉がついて新たな搾取が生まれちゃって」
「そーだったんだ」
香の中で、また万暦帝いい人ポイントが加算された。
民を思い、合理的な考え方をし、自分が周りからどう思われようと必要なことをする。
──実は、賢帝じゃない?
少なくとも、香はそう思った。
万暦12年に始まり、5年7ヶ月の歳月をかけて築き上げられた墓は、幾重もの搾取を生み出す温床となり、やがて歴史のなかで「民を苦しめた贅沢の象徴」として語られることになっていく。
どれほど真摯な願いを込めた事業であれ、人が遺す評価は、気まぐれで残酷だった。
何百年もの時を経た未来。文化大革命のさなか、紅衛兵たちは墓を暴き、そこに眠る遺骨を「地主階級の頭目」「封建主義の象徴」として、石で打ち砕き、ガソリンをかけて焼き払った。そんな出来事が起こることなど、今の彼らには知る由もない。
7月。工部の官僚、劉氏の屋敷にいる使用人が2人、馬で南へ向かった。調査している宦官は、彼らを追っている。
「へー」
白露から聞かされても、香にはさっぱり意味が分からなかった。
「馬だよ」
月港へ向かう場合、馬が1番早い。運河2ヶ月から3ヶ月。馬なら、40日から50日である。
「だとどーなんの?」
「洛が言うには、密輸船が戻ってくる前くらいに月港に着く」
「ふーん」
「何しに行ったんだろね」
香は、いつか書いた自分のメモを取り出す。
日の長い季節、夕食を食べ終わったころだというのに、まだ宿舎の中は明るい。文字がはっきりと見える。




