記録
別の日、白露から聞かされた。
「天井の親方、乾清宮へ不審者を手引きした日、自分だけで来てた」
「自分だけ?」
「記録を確認したの」
「……」
今更である。最初にされて然るべきこと。香は口を一文字にし、目を大きく開けたまま横目でチンギスを見る。チンギスは香を見つめ返して首を傾げた。
「あっは。香、そんな顔して」
「とっくに調べたかと思った」
「一旦操作が終わってるのに、ほじくり返しにくいわけ。極秘操作だからさ、去年の記録を勝手に見られるようになったのは、つい最近なの。年が明けて行事が一段落して、そういった記録の全部が保管庫に移される。やっと洛が自分で閲覧できるようになったの」
「そーなんだ」
洛は、乾清宮に不審者が忍び込んだ日、共に仕事に来た天井の匠グループの職人が不審者のことを知っているのではないか、と考えた。名簿と記録から、その日に天井の作業に来た職人を調べた。親方だけだった。
親方が黒なのは明白。
「でもま、香の嫌いな事情聴取はしなくてよくなったよ」
事情聴取=拷問である。もしも一緒に仕事に来た職人がいたら……。想像するだけで気を失いそうになる。白露は、香が拷問を嫌っていることを分かっていった。
4月。
「王氏が女と住んでるんだって」
白露の知らせに、香は嬉しくなって、白露とハイタッチ&ハグ。
おっさんは、月港で漁師をしている。漁船を持っている漁師の家に住み込みで働いている。
「え、それって、女と住んでるって言わなくない?」
「洛んとこに来た報告じゃ、そこの娘といい感じみたい」
「じゃ、いっか」
「6年前、、もう7年前になるのか。宝一介寺に天下りした官僚がどうして捕まったか、税監が調べたの」
「うんうん」
「派閥争いだった」
「政治家って、やっぱ、そーゆーのあるんだね」
「ちゃう。密輸の」
「巨悪」
「炉や職人の奪い合いがあったみたい。密輸の銀って、コイン型だったり灰吹銀だったりするんだよね」
マニラ経由でスペインの銀貨が月港へ届く。これは、スペイン領であるメキシコで造られた物。マカオ経由では日本の灰吹銀が届く。どちらも外見から密輸とバレる。明仕様にしなければならない。炉と職人は必須。
そして、北京派と南部派に勢力が分かれていた。北京派は、官僚や北京の大商人。南部派は、明の最も富んだ地域である南部沿岸の大商人。
もともとは、どちらも月港で銀を明仕様にしていた。万暦帝の時代、明の経済は大きく飛躍。税を銀で支払う一条鞭法も相まって、銀の需要が爆発的に増えた。密輸も増えた。炉と職人が足りなくなったのだ。そして、北京派が敗北。
「だから、天下り官僚が南部からやり玉に上がったの?」
香は先走る。白露は人差し指を立てて「ちっちっち」と振る。
「北京派がそれぞれ職人を引き抜いたり、炉を持ってるお寺を探したりしたの」
「お寺」
「で、お寺に友人がいるって言ってた官僚が牢に入れられた」
「はああ?」
理不尽にもほどがある。
──宝一介寺に残されたたくさんの死体を、一緒に片付けた友人。そんなん、放っておくわけないじゃん。
「だから、賄賂なんて当たり前のことで、その官僚は捕まってさ。しばらくしてから、なぜか嫌疑が晴れた」
冷静に考えれば「賄賂なんて当たり前」発言は問題なのだが、これが明の時代あるある。
「それって、宝一介寺が、お寺の炉でニセ金造りするの承知したってことだよね」
「だと思う。はっきり聞いたわけじゃないけど、そうとしか考えられなくない?」
税監は、この情報を、当時御者をしていた男から聞いた。宝一介寺まで「あんたの友達、牢にぶちこんだったで」と言いに行く主人を、馬車に乗せて月港から北京まで運んだのである。御者は多少の裏稼業に手を染めていたからこそ、神仏に救いを求めている男だった。
そのときの宝一介寺は、大きくはあったが、いかにも貧乏寺だった。しかし、長旅と気づくと、ただの御者や随行していた使用人を建物の中へ通して温かくもてなしてくれた。更には、馬車の傾いていた車輪の軸まで直してくれた。そのような素晴らしい僧たちがいる寺に犯罪をさせるなど、御者には許せなかった。
御者は北京派の官僚が任期を終えて月港を去るとき、仕事を辞めた。
「よく聞き出せたね」
香は感心する。
「税監はさ、役人や商人みたいなミドルやアッパーな層には嫌われてるけど、そこから搾取されてる庶民にとっては人気だから」
「そーなんだ」
「記録には残んないけど」
正しく通常どおり業務が遂行されている場合、記録されることはない。まして、人々から人気があるなど、公式文書には残らない。
残るのは、上訴である。上訴を書くことができるのは、文字を書ける役人や富裕層が主。それらを握り潰すことなく上に上げることができるのは役人。1つの上訴が北京の中央に届くまで、上層に上がる都度記録が残る。それは10回以上の過程を経る。
脱税を許さない税監は、役人と富裕層にとって敵である。
彼らは脱税を指摘されると「そのやり方汚い!」と憤り、次々と上訴を行う。農民やさまざまな苦役で搾取される者たちが命懸けで上訴を起こしたとしても、役人は握り潰す。当然である。搾取している側が自分たちを告発する訴えを通すはずなどない。しかし、役人や富裕層などの仲間の上訴は通す。
ここで忘れてはならないのは、万暦帝と官僚は敵対していることである。そして、官僚は役人のトップに君臨している。
万暦帝の時代に、税監に関する山のような不平不満の記録が上訴として残っているのは事実である。
正しいこと、平穏無事に粛々と営まれていることは、記録に残らない。
*万暦帝が各地に派遣した税監は、その地の人々の声を拾って動いたのだった。
香は深く考えない。
「お腹いっぱいになったら、なんだか眠くなっちゃった」
寝た。
5月は牡丹の季節である。香は、乾清宮に通わず、牡丹のスケッチを優先させた。
とりあえず、牡丹寺へ足を運んだ。が、あまりに賑わっていて、とても絵を描くスペースなどない。住職はグッズ販売に大忙しだった。香の姿を見つけると、軽く手を上げてくれた。香は会釈して寺を出た。
牡丹の絵といえば、宝一介寺の美老人。雪牡丹である。
宝一介寺の山門前に牡丹があった。昨年末、雪牡丹を描いていた美老人が牡丹を描いていた。
「こんにちは」
美老人は香を覚えていた。
「私も牡丹を描きに来ました。今日はどんな牡丹を描いていらっしゃるんですか?」
「散る牡丹です」
美老人は描いていた絵を見せてくれた。
枯れる牡丹があった。残った花弁は大きく開き、しおれ、ぎっしりと密集していたはずの花弁の一部がごっそりなくなっている。崩れ落ちた花弁は土の上に積もる。
香はなぜが胸が痛くなった。
「あの牡丹ですね」
目の前にある、淡い黄色の大輪の牡丹の花が崩れている。他の花は後から咲いたのか、美しさを保ったまま。
「はい」
「他の花は咲いているのに、あの花を描かれたのですね」
*この文に関しては、想像とフィクションです。




