白露式喉元短刀面談
予想に反して、ただの中年のおばさんだった。
通常だったら、使用人への来客など、通用口の塀で立ち話をして終わりである。しかし、雪が降っているということもあり、香は中まで招かれた。招いてくれたのは、立派な身なりをした屋敷の奥方だった。
──やっさしー。
厨房の竈で何かを煮込んだ後なのか、そこは暖かい。
差し出された小さな箱を椅子代わりに並んで腰掛ける。お茶が出された。
「偶然、風呂屋の待合室に本を忘れたら、こちらを届けるように頼まれました。それから、読んで燃やせと言われています」
香は紙に包まれた文を出す。
おばさんは「読んでください」と言った。
「『元気ですか。身重のときに家を追い出してすまなかった。子は流れたと聞いた。体は大事ないか。辛い思いをさせてしまった。一番辛いときにそばにいてやれなかった自分を悔いた。他に方法はなかったのかと考えた。思い浮かばなかった。元気でいてくれ。二人で暮らした日々は短かったけれど、今でもあのときのことばかり思い出す』」
そこで終わりだった。おばさんは、口を両手で覆って泣いた。
なんだか分からないが、香も泣けてきた。
「生きているんですね。よかった」
おばさんは口を覆ってくぐもった声を出す。
「仕事場が火事にあったと聞いて、心配でした」
おばさんは、ぽつりぽつりと話し出す。
蝗害で都へ流れてきた。バッタと人間の腐敗臭に、その地を捨てた。男に会った。オヤジである。男の家に住んだ。気づいたらお腹に子が宿っていた。しかし、男は結婚を嫌がった。体を蝕む家業を子にさせたくないと言った。結婚して子が生まれれば、子は匠籍によって家業を継がなければならない。
身重だったおばさんは、今いる屋敷で働くことになった。男が仕事と引き換えに頼み込んだらしい。
「詳しくは話せないんです。ただ、こちらのご正室には子供がいませんでした」
やっと聞こえる小さな声が香の耳に届く。
おばさんは、今の屋敷で男の子を産んだ。正室が産んだことになっている。そのことは側室達にすら極秘。おばさんは息子の乳母として暮らしている。
正室は子がいなかったために肩身が狭い思いをしていた。しかし、周りにとっては、高齢になってからの子。これにより、側室達は寵愛という名のもとに敗北を喫した。しかも息子。堂々たる跡取りである。
正室は、最初、側室達の鼻を明かしてやりたいだけで、ほとぼりがさめたら実は乳母の子だと告げるつもりでいた。情が移り、それをしないまま今に至る。
「もしもあの人に会うことがあったら、私も、……も『こちらの奥様にとても大事にされている』と伝えてください。本当にお優しい、いい方なんです」
「分かりました。ご正室のご子息は今、おいくつですか?」
「5歳です」
宝一介寺に戸部の官僚が天下りし、5年ほど前から寺は炊き出しなども行うようになった。数えで5歳ということは、生まれたのは4年前。身重になったのは、もう少し前。一致する。
香は、今になって、天井の親方が接待してた官僚の名前を聞いておけばよかった、と後悔した。
乳母は24時間勤務。これ以上仕事の邪魔はできない。香はお暇した。帰るとき、大きな布にみかんをたくさん包んでくれた。
屋敷の表玄関には「劉府」(「劉」の表札)とあった。
風呂屋の待合室を見回した。オヤジはいない。
──息子が元気って言いたいのに。
香は、先に串焼き&ドリンク付き年間フリーパスを受け取ったことを少し後悔した。
オヤジはきっと、おばさんに気持ちを伝えたかっただけ。もう北京にはいないだろう。恐らくはニセ金造りの実行犯。捕まったら終わる。もっとも、墨竹に言わせれば、水銀のせいで先は長くないのだが。
細雪が降る。オヤジがおばさんを想うように。静かに。しんしんと。
愛とか恋とか好きだとか。香が知る本や芝居の男女は劇的に盛り上がる。それとは違う情がある。
オヤジは女と子を深く想い、結婚しなかった。ひょっとすると、ニセ金造りを引き受けたのは、劉家に女と子を世話してもらうためかもしれない。身重の女など、どこも雇ってくれない。
──ああ、万暦帝も。
万暦帝は、洛母子のために矢面に立っている。表向きは洛母子を遠ざけ、官僚たちを敵に回して物ともしない。
細雪が北京の街を覆う。それは柔らかく美しい。
香は雪が積もる傘を傾け、鈍色の空から次々生まれる優しい白い粒を見上げた。
宿舎で、白露に天井の匠グループの親方が接待した官僚の名を尋ねた。工部の官僚は「劉」という姓だった。
住所も一致。
◇
宿舎でみかんを曲芸のようにお手玉しながら、白露は報告する。
「香が言ってたじゃん? 前任者。ほら、工部の劉氏の下で金庫の管理してた」
「うん。まさか、拷問」
「してないって。私が個人的に訊いた」
しかし、その具体的な方法とは、短刀を首につきつけるといったものだった。
前任者は現在、北の長城の修理にあたっているとのこと。どう見ても「左遷」であった。
「へー。白露、遠くまで行ってきたんだ。休みの日まで大変だね」
「勤務の日」
「できるの?」
「もう年初めは過ぎたし。警備はもともと正規の人らがいるから」
皇帝側近の宦官達は、ガチムチなのだとか。乾清宮に侍るのは宦官のトップofトップ。頭脳明晰の者、武勇に秀でた者が固めているのである。
白露は、馬で半日ちょいかけて前任者のところへ行った。警備が手薄で一人になったところへ乗り込んで短刀片手に面談した。金庫の後任者が捕まったこと、自害した情報は、すでに届いていた。
『金庫から金がなくなっていたことに気づいていたか?』
『とんでもありません。私のときは、そのようなことはなく。そうでしたか』
『嘘をつけ。業務の引き継ぎをしたはずだ』
『金庫の記録など最重要項目。しっかりと残っていると思います』
『今、ここで事実を話せば、悪い様にはしない。しかし、このままであれば、関係者として一族に被害が及ぶ』
『関係しゃ』
官僚は悲鳴を上げそうになり、
シュパッ
口髭の一部を切られて声を落とす。
『関係者ではない。だからここに来た』
『聞かせろ』
その官僚が工部の金庫の係として配属されたのは7年前。着任したときは記録と金庫の中身は合致していた。6年前、20両の馬蹄銀、600両が消えた。すぐさま上司に報告すると「訳がある。騒ぎ立てるな」と言われた。騒いだら自分が犯人にされることは明白だった。
一応、毎日記録した。600両がマイナスのまましばらくは金庫の中身が動いた。
『増えることもあった』
1年経ったころ、600両マイナスが200両マイナスになった。400両が一気に増えていた。
『増えたり減ったり。それに』
『それに?』
『銀作局の馬蹄銀が混じっていることもあった』
『銀作局?』
銀作局の馬蹄銀は、皇帝からの報奨金などとして配られるもの。国庫である工部の金庫に存在するのはおかしい。




