風呂屋のアラフォー
「前任者だって、気づいてるかもしれない。もしも以前から横領されてたなら」
香は「しまった」と思った。
これでは、前任者が捕らえられ、拷問されてしまう。事情聴取=拷問と香は認識している。真冬に水を浴びせられ、棒で血肉が飛び散るほど殴られると聞く。その凄まじさと共に、親から子へ「悪いことをしてはいけない。疑われるようなことをしてもいけない」と教え込まれる。
「ね、でも、悪いことしてない人だろうから、尋ねるだけで……」
香は、恐る恐る白露の顔を窺う。要するに「拷問はやめて」と頼みたかった。
「迂闊に動けなくて」
と白露。
現在、おっさんが住んでいた部屋には、万暦帝のスパイである宦官が身を隠して住んでいる。天井の匠グループの親方を見張っているのである。
「工部の金庫に馬蹄銀が足りなかったってバレたとき、親方と工部の官僚だけが酒楼で会った。何を話したかは分かんないけど、2人はその件で繋がってる。今、1番情報を握ってそうなのが、親方なんだけど、そいつが1番下っ端。なんかあったら、簡単に消されちゃうんだよね。たぶん。そいつは、乾清宮へ刺客が入るときも手ぇ貸してるじゃん? だから泳がせたいわけ」
香の全く知らないところで、いろいろと画策されているではないか。
「泳がせるの?」
白露や墨竹なら、とっとと引っ捕まえて吐かせそうである。
「まず、捕まえたところで吐かないと思う。だってさ、吐いたら用済みで始末されるじゃん。でもって牢の中だって絶対安全ってわけじゃない。どの役人がそっちと繋がってるか分かんない。もっと言っちゃえば、軍人だって宦官だって絶対全員が味方とは限らない。なんせ、親方が絡んだ男は乾清宮まで入っちゃってるんだから」
今回の件に関しては、乾清宮が絡んでいるため、万暦帝に情報を上げているらしい。
「万暦帝が宦官を動かしてんの?」
「洛に貸してる感じ。ほら、落とし物皇子は権力ないから。王氏は皇帝陛下の命で動いてるって腰佩持ってるんだよ」
「すごっ」
皇帝の命で元日本兵が動いているとは。香は万暦帝の頭の柔らかさに驚く。
──皇帝は誰でもいい、誰が政治を行うかが大事って考えるくらいの人だもんね。スーパー合理的。
◇
それはそれ。香は日々の仕事をこなす。寒い冬、風呂屋をサブスクにしようか迷う今日このごろ。
──温ったまるんだよね。月に18日通えば元が取れるけど。
仕事帰りに風呂屋へ来ると、洗濯や掃除など、他のことができない。しかも冬は汗をかかない。悩むところである。
考えごとをしていたので、風呂屋の待合室に本を忘れてしまった。翌日取りに行くと、男が長椅子の上の本を枕にして寝ていた。アラフォーのオヤジである。起こしてまで本を取り返す必要があるだろうか。声をかけたくない。
──明日また取りに来よ。
しばらく男の前で戸惑っていたが、その場を去ろうとした。
「んー」
オヤジが身を起こして伸びをする。髪を洗った後に枕にしたのか、本がふやけているではないか。一瞬迷ったが、持ち帰ることにした。
「すみません。それ、私が忘れた本なんです」
オヤジは、きょとんとした。そして「待ってた」と一言。
──待ってた?
「頼みがある」
オヤジは姿勢を正し、テーブルを挟んで正面の椅子に座れと香を促す。風呂屋の待合室の隅、まるで自分の家に招いているかのような様。が、お茶は出ない。
「はぃ」
これも何かのご縁というものだろうか。香は少々訝しみながら腰をおろして……後悔した。「実は」と切り出したオヤジの前歯は骨が崩れているかのように不揃いで、半分は抜け落ち、残りの歯は黒い。身なりと年齢に似合わない異様な歯。口の中の独特の黒さは世の汚いものをぬーっと飲み込んできたように見える。
「この地図のとこに、文を届けて欲しい。訳あって、オレはそこに行けないんだ」
差し出された地図は内城の中のもの。富裕層の屋敷が多い地域に小さく塗りつぶされた四角があり、なんという屋敷か、裏口はどこか、誰を呼んで文を渡すかなどが記されている。必ず本人に手渡して欲しいと言われた。本人がいないなら別の日に。他の者に託けるしかない場合は文を燃やせとまで。
香は尋ねる。
「よほど大切なものなんですね。分かりました。でも、なぜ私が」
選ばれた理由を知りたい。渡す相手は女性。だから女性が適任なのだろうとは推測できる。
「この本を読んでた。栞が挟まってたのは、ニセ物の銀を使った男のところ」
ニセ物の銀。きーんと香の頭を何かが貫く。「半分残っている歯も黒い」と、かつておっさんが鍍金匠のことをそう表現した。水銀の怖さに背筋を冷たいものが走った。そのときと同様に、香の背骨に沿って銀色の霜が生えたような気がした。
本は最近人気の裁判モノ。名裁判官が事件の本質を見抜き、民衆に少々慈悲深く、犯罪の糸を引く上の者や組織を厳しく罰するという、いわゆる勧善懲悪ストーリー。
──「金瓶梅」とかじゃなくてよかったぁ。
香は、本がR18内容でないことに胸を撫で下ろす。
「栞の場所でですか?」
「それもあるが、地図を渡しても、ほとんどの者は字を読めない。でも本を読んでる者がいた」
庶民の識字率は10~15%。だから、香は風呂屋でR18を読んでも、それほど周りにバレないのである。一応しない。宿舎には墨竹が出入りするので、最近は読んでいない。
「……」
「ここは北京。旅行客も多い。でも、本の持ち主は違うと分かった」
「え」
「栞代わりんなってたのは、この風呂屋のサブスクのチラシ。それには、何回通ったら元が取れるかって計算もあった。ってことは、この辺に住んでる」
「……」
ご明察である。
「この女に、オレからの文を読んでやって欲しい。そいつは字を読めないんだ。そんで、その文を燃やしてくれ」
オヤジは香の目の前に、丁寧に宛名を上にして文を置く。
つまり、相手の女は密通相手なのだろう。歯はがたがたであるのに既婚者の女と密通するなど、なかなか。アラフォーのオヤジなので想像したくはないけれど、と香は失礼なことを考えていた。
密通、既婚者という点は汚らしく感じるが、文を送るのはロマンチックである。
──このオヤジが?
「お礼に、ここの串焼き&ドリンク付き年間フリーパス2年分を渡そう」
「引き受けます」
香は、目の前のオヤジは葦とすすきの湿地帯に工房があった鍍金匠ではないかと考えたが、そんなことを聞く意味はない。「違う」と言われ、怪しまれるだけである。
別の日、香は文の相手の元へ向かった。
細雪がしんしんと降り、傘を重くする。雪に消える靴音と靴跡。カタカタと音を立てる竹籠が吹き付ける風から背中を守ってくれる。
さくっと文を渡し、とっとと風呂屋で温まる予定でいた。
──あのオヤジとキスできるなんて、ブサイクな熟女だろーね。やだやだ。




