気になることがある
「香、その名前、どこで」
墨竹のただならぬ様子に、香は、乾清宮で洛に口を塞がれたことを思い出す。
「えーっと。どこだったっけ」
咄嗟にごまかそうとする。が、いい嘘が浮かばない。
「皇帝陛下に洛を皇太子として立太子すべきだって意見して、2年前に失職した人」
「失職」
「官僚だったけど、皇帝陛下に辞めさせられて、南部へ帰った」
今度は香が両目を見開く番だった。
「皇帝がじきじきに官僚を辞めさせたの? 大臣とか偉い人?」
「違う。吏部(人事部)の文選司郎中って役職。上の方だけど、大臣じゃない。ただ、現場のトップって感じ。その上はハンコ押すだけ」
「ふーん」
──よー分からん。
「皇帝陛下からも与党からも煙たがられて、退場」
皇帝が一官僚を名指しで辞めさせるのは、特別なことである。北京だけでも官僚は1000人以上。皇帝が直接会う官僚は数少ないトップ層。吏部文選司郎中はトップ層ではない。それほどまでに彼の主張は激しかった。
香の頭の中で、万暦帝ポイントはかなり加算されている。「万暦帝=いい人」である。それに準ずると「万暦帝が嫌う人=悪い人」になる。その人がなぜ、万暦帝お墨付きの洛と文通しているのだろうか。
──えーっと、洛の立太子を訴えたから万暦帝とバチバチ。
洛は政治的なことを偽名でやり取りしている。
香は考えかけたが、自分には全く関係のないことなので、墨竹の横顔を楽しむことに集中した。
「香、あのさ」
「なに?」
「香って、結婚するの?」
「は?」
「いい歳じゃん」
世が世ならセクハラ発言である。
「乾清宮に牡丹彫るから。その間はムリ」
「ふーん」
墨竹はにこにこし始め、串に刺さっている最後の肉を、自分の代わりに食べろと言う。
「え、いーの? 食べちゃって」
「どーぞどーぞ。他にもなんか食べる?」
「どーしたの」
「いや。なんか」
「?」
「しばらくは、宿舎で遊べるなって」
──なんだろ。この感じ。嬉しいんだけど。5歳児同士みたいな。
「だね」
香は、恋愛成分不足を感じたが、深く考えないことにした。
◇
現時点の最大の課題は、牡丹をどう彫るかである。
他に気になることは……。
・乾清宮に入り墨竹に斬られた不審者は何者なのか。
・宮廷は火事がよく起こるのか。
・鍍金工房と宝一介寺の2箇所で馬蹄銀を造っているのはなぜか。
・日本軍は撤退し、明軍は朝鮮から引き上げてきている。気になっていたが、解決。
・洛が顧憲成と文通している。顧憲成は、洛の立太子を主張して2年前に官僚を辞めさせられた。
・白露の結婚は墨竹に責任がある。
・墨竹は、香が結婚せず、自分と遊べることを喜んだ。
思えば、牡丹を彫るために乾清宮へ来たのは、昨年10月のこと。たった数ヶ月で、香の耳には様々な話が飛び込んだ。皇帝やその周辺がいかに大変かをひしひしと感じる日々である。
香は、手すりの全てに彫る牡丹の図案を考える。
初めて乾清宮に来たとき、風を彫ろうと思った。その気持ちは変わっていない。
天橋を上ると彫刻の空中庭園。手すりの牡丹が延々、乾清宮の光の中に広がる。穏やかな風がそよぎ、花が揺れ、花弁が舞う。その花弁はふわふわと昇り、光に溶ける。
風、光、コントラスト、遠近。
手すりの横を何度も歩く。進むときに視界の隅で流れる牡丹を想像し、2階の暖閣から眺めたときの高さ、大きさを考える。
──心ってどうやって彫るんだろ。
そこは分からないままだった。
乾清宮は、市井の民を考える、しかし市井から最も遠い世界。乾清宮の住人の心は、民のこと、国のことを考えている。ただ、全ての民ではない。不都合な人間は切り捨てる。
そう考えると、香の中の牡丹は、血を吸ったかのごとく真っ赤に染まる。ここへ来るまで、香の想像する牡丹は白から淡いピンク色だった。今はときどき、赤を帯びる。
血を滴らせる真紅の牡丹は、そのまま黒で覆われた墨竹に重なるのだった。
◇
年が明けてしばらくのこと、工部の官僚が捕縛された。
嫌疑は横領。
予算を扱い、国庫の金庫を持つのは戸部である。だが、各部にも必要経費を賄うための金庫が存在する。捕縛されたのは、工部の金庫の鍵を預かる中堅官僚だった。しかし、彼は無実を訴えながら獄中死した。ある朝牢獄で、首を吊っている死体が発見された。
「へー。そんなことがあったんだ」
白露に報告されても、香には別世界の話だった。
「洛から、香に伝えるように言われてさ」
「はい?」
「去年、天井の匠グループの親方が接待してた官僚いたの、覚えてる?」
「え、その人なの?」
「違う」
「じゃ、なんで私に?」
「洛は、工部からつつこうと考えた。接待されてた官僚のいる部署に、内庫で建て替えてる宮殿の工事費を『早く返せ』と宦官から要求させた。500両。それは、記録では工部の某金庫にあるはずの金額。なのに、なかった」
「へー」
香にとってはどうでもいいこと。
「某金庫の鍵を持っているのは2人。2人のうち下っ端の方が捕まって牢に入れられて自殺」
「あれ? 上の人は疑われないの?」
「『知らん』って言った」
「は? それだけ?」
「官僚って、そーゆーとこなわけ。知らんって言ったのが、接待された工部の官僚」
「……。それは、洛が失敗したってこと?」
「そうとも言う。ただ、あるはずの金がなかったってことは分かったんだよね」
「某金庫って。工部って言っちゃってるのに」
「工部の金庫は1個だけじゃないから。いろんな部署に分かれてる。洛はピンポイントでその官僚を狙ったの」
「……」
洛のやり方は賢いとは思う。しかし、賢いからこそ、どのような犠牲が出るのかも分かっていたはずだ、と香は推測する。犠牲者が出ることを承知で行ったのだ。
その金庫には、20両の馬蹄銀が580両分あるはずだった。しかし、記録とは違い、480両分しかなかった。
「銀がなくなってたことは分かったんだよね。事情聴取する前に首吊っちゃったけど」
白露は何でもないことのように言い、鶏もも肉に齧り付く。護衛は軍人。敵と戦う人間である。いちいち「死」に反応していては、心がもたない。しかし、香りにとってみれば、人が死ぬのはすっごいことである。自殺した官僚は、恐らく罪を犯していない。なのに汚名を着せられ、一族ごと侮蔑の目を注がれることになる。家族は悲しみを味わうだけでなく、大黒柱を失い惨憺たる未来になるだろう。
「なんか。悲惨だね」
香は、それだけしか言わなかった。
「戸部の金庫には50両の馬蹄銀があるけどさ。あれ、重いんだよね。でかいし。でも20両の馬蹄銀は袖口や懐に入れられる。首を吊った官僚もさ、やってなくても、絶対知ってたと思う。出し入れする時に、いちいち残りを全部数えないなんて言ってたらしい。でもさ、気づくって」
50両の馬蹄銀は約1.8kgの重さである。その点、20両ならば、750g。盗むのにいい感じの大きさ&重さである。
「そっか」
「可哀想に。配属されて、1年しか経ってないのに」
「え」
「じゃ、前の人は?」




