宝一介寺の雪牡丹人
「ご覧になりますか?」
洛の100倍ほど品がありそうな佇まいの美老人に並び、香は絵を見た。
墨絵。牡丹は大輪の花を咲かせ、その牡丹に少しだけ雪が積もっている。
夏に近づくような春と冷厳な冬の融合。それは、香の想像した牡丹と似ていた。
「すごく、すごく、美しいです」
幾重にも重なった牡丹の花弁。それにかかる雪は、静かで、不思議と温かさすら感じさせた。
「まるで、この雪が牡丹を包んでいるみたいですね」
美しいものに触れ、香の目に涙が溢れ出す。
牡丹の輪郭に寄り添う雪は、冷たいはずなのに、厳しい寒さや風から牡丹の花を、葉を、枝を慈しみ、守っているように見えたのだった。
「お嬢さん、どうしましたか?」
「優しい雪ですね」
「そう見えますか。ありがとうございます」
香は首に巻いていたお気に入りのグレーにピンクの花柄模様の布で涙を拭う。こっそり、鼻水も拭いた。
「私、牡丹が好きなんです。彫刻の仕事で、今、牡丹を彫ってるんです」
「そうでしたか。これはこれは。プロフェッショナルな」
「私も雪と牡丹を描いたことがあって、部屋に、その絵があるんです。でも、私のは、ただの綺麗な景色で。この絵は、ほわーって、気持ちが漂ってくるんです。うまく言えないけど、心があるみたいな」
ずびずびと鼻を鳴らしながら、香は拙い言葉で訴える。
「ああ、お嬢さんも雪と牡丹を想像なさったのですね」
美老人は楽しそうに目を細めた。
「絵師の方ですか?」
「いえ。絵は、趣味です。
「こんなにも素晴らしい絵。知り合いの牡丹のお寺の住職に紹介したいくらいです」
言ってしまってから、香は後悔した。金儲けに使っていい絵ではない。思いを感じる。
「ははは。ありがとうございます。そうですか。……この雪は私なんです」
「え」
「私の後悔です。本当はこんなに綺麗じゃない。もっと薄汚れた、人が踏んだ後のような雪。ただ、絵なので願いを込めているのですよ」
「では、この牡丹の女性は、幸せですね」
「人ではありません。善意です。崇高な願いです。本当は汚れている雪が降りかかっているのに、魂は汚れないのですよ」
香は牡丹を彫るとき、それは花だった。質感を写し取りたいという一心だった。それが叶えば美しくなる。牡丹を善意や崇高な願いという正体不明なものとして見たことなどない。
「私もそういうのを彫りたいです。構図や技巧じゃなくて、そーゆー。見た人が、どーんってなるやつ」
どう見ても高貴な知識人の前で、ボギャブラリー不足のアホを晒す香だった。
「どーんとなりましたか。このような老人の酔狂な絵に。ありがたい言葉です」
美老人はバカにせず、穏やかに微笑んだ。
香は、宿舎に帰って絵を描いた。牡丹ではない。宿舎の外にあった松。松の幹は鎧のようだと思った。それが終わると、チンギスを描いた。今度は彫りたくなった。しかし、彫る木の板などない。
──この宿舎、どーせ壊しちゃうんだよね。
いかにも臨時の安普請である。香は宿舎のベッドになっている段の長く続く側面に、松の鎧のような幹を彫って遊んだ。チンギスは失敗だった。毛が難しい。もふっと感を出したいのにシャープになってしまった。気づけば夕暮れ。手元はすっかり見えないほどに陰っていた。
「さぶっ」
光が欲しくてドアも窓も開けたまま。彫っている間は寒いことすら感じなかった。
「チンギスかわいー」
香は、夕闇に包まれた宿舎でノミと木槌を持ったまま、土間に大の字にひっくり返る。
楽しかった。松は鎧のような部分がごつごつとして成功したが、目に見えない何かを宿すことなど遠く及ばない。チンギスの形は不恰好。ただ、いたずらっぽさや可愛さが出ているように見えなくもない。
「ちーっす。香、暗いって。寒いし」
白露が来た。土の上に寝転ぶ香に呆れている。
「あ、白露」
香が身を起こすと、白露は油灯に火を点け、開いていた窓や扉を閉めてくれた。
「風邪ひくよ」
心配してくれる。
香と白露は食事を作り、熱々のジャージャー麺を2人で食べた。
白露も墨竹も仕事に関しては何も話さない。守秘義務がある。話題は主に街グルメ&ファッション。たまに、銀のニセ物のこと。
「今日、宝一介寺へ行ってきたんだけどさ、綺麗に掃除されてるお寺だったよ」
既に、白露や墨竹には、牡丹の寺で聞いた話を伝えてある。天下りした元官僚と住職が旧知であること、11年前に宝一介寺に流民が押し寄せ、死体の山ができたことを。
官僚に関しては、様々な記録が残っているらしい。それを白露が教えてくれる。
まず、戸部の元官僚である男は、24歳で科挙に合格し、大学士となった。
「???」
「成績上位の人らが入る、政治の教育機関みたいなとこ」
その後、戸部に配属され、即、上司の娘を結婚。順調に職務を熟す。子供はいなかった。様々な場所に転勤する間、妻は北京の屋敷で暮らしていた。
南部の月港へ配属されたとき、汚職を疑われた。
「どんな?」
「密輸の検査で、賄賂を受け取ってるって嫌疑」
「おおぉぉおお。出たね出たね。密輸」
しかし白露は、箸を置いて、右人差し指をちっちっちっちと振った。
「密輸の検査で賄賂を受け取ってない役人や官僚なんていないから」
「やばくね? この国」
「もう、組織ぐるみで、賄賂用の集金袋があんの」
「想像を超えてたわ」
「だから、本当の問題は、そんなことじゃないってこと」
「……」
「で、なんか手がかりがあるかもしれないからって、洛が王氏を月港に行かせた」
「はああああ?!」
「ずーっと北京に住んでたじゃん。王氏」
「うん」
「行商人なのに変じゃん」
「だね」
「それもある」
「なるほど」
それにしても、そんな何年も前のことを調べられるわけがない。現官僚ではなく、元官僚。引退したのすら5年ほど前と聞く。それ以前のことを調べるなど無理難題。
「別に洛は成果を期待してるわけじゃなくってさ、王氏に暮らしやすそうな場所を見つけてもらいってのがあるっぽい」
「そーなんだ」
「月港はいろんな人が流れ着くとこだからさ。貿易港だから日本人もこっそり来るし。気に入ったら、そこで暮らしていいって、洛からの伝言あったの」
「日本人に会いたいだろーね。ところで、戦はどーなったんだろ」
日本との戦は終わり、兵士達は長い帰路についているとのこと。隣国から望まれた残留軍は、元々の提案の1/10の規模となった。
──やばっ。官僚、万暦帝希望の着地点にばっちり。
さすがだと感心する香だった。
「王氏を見送るとき、チンギスがすっごい追いかけて、大変だった」
「私だってお世話になったんだから、お別れ言いたかったな」
「ごめん。こっそり船に乗っけたから」
「じゃ、チンギスが騒いだら大変じゃん」
「大変だった」
チンギスは川沿いを船を追いかけて走り、白露がやっと追いつくと、川に飛び込んでしまった。しかし、そこそこの大きさの船。船べりから乗ることができず、諦めた。




