顧憲成って誰それ?
日に当たらない白い肌。宦官の帽子を目深に被っても尚、美貌を醸し出す鼻筋と顎の造形。気を抜くと品が出てしまう姿勢、物腰、佇まい。香は、ゆくゆくは光の世界の住人になるだろう洛を見つめる。
──そんだけ国のこと考える器なら、私以外の人、頼れよ。
洛は、手すりの影に小さくなって、いじいじと両手の人差し指と親指を弄び始めた。
──ん?
香の前、俯いたまま、おずおずと言葉を紡ぐ。
「実は」
「実は?」
「その」
「え?」
「落とし物をしまして」
「また?」
「んーっと、探してるんだけど」
「……」
「心当たりは、あと、あそこだけなんだよね」
いじいじしていた洛の両人差し指と親指のうち、左人差し指だけが一瞬、香を指す。
「はいはい」
要するに。落とし物をしたがどこで落としたか分からない、いろんなところを探した、あとは香が泊まっている宿舎だけ、ということ。
さすがに宮廷を抜け出していることは、他の者に知られてはいけないらしく、洛は見張りの宦官の反応をちらちら気にしている。
「あの2人に頼んだら、心の中で笑われそうで」
「そんなことないよ」
と言いながら、香は「笑うんじゃなくて呆れる」と思った。
「っつーことっす」
「了解」
今度はどんなトップシークレットが分かるんだろう、と気になる香だった。同時に、心の中で悪態。
──墨竹と手繋ぎ就寝なんかするからだよ。ばーか。
帰った香は、宿舎の中を探した。畳まれた布団の下に文があった。洛が使った布団なのだろう。
懐に入れて持ち歩いていたのか、信封(封筒代わりの紙)に包まれたまま、よれっとなっている。これまでのお約束通りであれば、トップシークレット。中身を読みたくてたまらない。しかし。人の文を読むことなど不道徳。もしも、恋文だったらどうするのか。将来皇太子、皇帝となる者の恋文。
──どーせ何人も女作るんだよね。どーでもいーし。
恋文と想像すると、一気に興味が失せる。
──違うよ。違う違う。だって、ニセ金造りのこと調べてたんだもん。この中にそのことが!
それに関しては、白露か墨竹から聞けと言われた。
テーブルの上に信封に包まれたままの文を置く。宛名は「牛洛人」、差出人は「顧憲成」。
──誰それ。知らんし。
まるで「文字など読むな」とでも言うように、辺りは暮れ始めていく。香は油灯を灯す。テーブルに顎を乗せ、宛名が上になっている信封をぼーっと眺める。「牛洛人」。「洛」「牛」「人」。牛と人を合体させると、朱になるではないか。洛の本名は、朱常洛。つまり、これは洛宛ての文である。
──なんで偽名?
宮廷や後宮では文書をチェックされる。だから偽名なのだろうか。否。宛名が偽名であれば、その時点で怪しい。洛のもとへ届くはずはない。
そして、差出人の顧憲成とは誰なのだろう。こちらも偽名かもしれない。
しかし、普通に考えて、自分が住む景陽宮に仕える宦官の名前を借りて文をやりとりすれば済む。
敢えてそれをしない。つまり、それほどシークレットな内容ということである。
香は「顧憲成」という名を、非常にエリートくさいと感じた。一目見て、庶民の名前ではない。どう考えても知識人クラスである。恐らくは、科挙を受けるような人が名付けたのだろう。
とりあえず、文を翌日の持ち物である図案の中に紛れ込ませておいた。宮廷に入るときの所持品検査で引っかからないようにするためである。
しばらくすると、白露が天井から降ってきた。一緒にいたのか、チンギスも壁からIN。
「ちーっす」
「おかえりなさい、白露。チンギスと遊んできたの?」
「そ。王氏んちへ行ってきた」
「お元気だった?」
「元気元気」
ところで。現在は日の入り後。白露は最強の身分証で内城へ入れるだろうが、チンギスはどうやって入るのだろう。内城の城壁は、12~15m。到底飛び越えられる高さではない。香は、チンギスに尋ねる。
「ね、どーやって城門潜ったの?」
チンギスは小首を傾げる。冬になってもふもふ増量の体から、ぼわ〜っと毛の塊が生まれたのが見えた。
「ん? チンギス? 今日は暗かったから、私が通るときに、足元をささって通ったんだよね。じゃなくても大丈夫。建物からでっかい柏の木に飛び移って、そっからジャンプできるし」
なんと。チンギスは猫の子1匹は入れないと言われている城壁を日常的に行き来していたのだった。他にも、荷車や馬車に乗せてもらうというテクニックがあるらしい。
「すご〜い」
香が褒めると、お座りしたまま、えっへんと胸を張る。
本日の白露は、左のそれぞれの指の間に2本ずつとラムチョップを挟み、頭の上に湯気の出ている椀を載せている。その状態で、いったいどうやって宿舎へ忍び込めるのか香には不思議である。すでに、おっさんの家で食事をご馳走になった後なので、ほんのおつまみ程度とのこと。
香とチンギスは、ラムチョップを1本ずつもらった。
白露は、ひょいっと頭に反動をつけてお椀を宙に浮かせると、それを右手でキャッチしながら椅子に腰掛ける。そして、匙でスープを掬いつつ、ニセ金造りについての報告を聞かせてくれた。
「まずさ、墨竹がどれくらい銀を溶かしてたか訊いたんだよね」
「うん」
「香が言ってたんだって? 銀をいっぱい使うはずって」
「言った言った」
「そしたら、灰吹銀だった」
「はいぶきぎん?」
「日本で灰吹法って方法で造られる銀があんの。めっちゃ純度高くて」
「へー」
「OUT」
「へ?」
「形だけで日本からの密輸の銀って分かる」
「そーゆーもんなんだ」
「だから、溶かしてるんだろね」
「ふーん」
明が日本と戦をしてたのに、どこかでちゃっかり仲良く密輸をしていたとは。香は、世の中いろんな人がいるものだと感心した。
「でさ、王氏がヤバい。街で坊さんを見かけたらしくて」
「それって、絵にあった、親方が接待した人?」
「それそれ。で、馬車を追いかけた。そしたら寺が分かった」
「さっすが」
先日、墨竹がわざわざ馬を連れてきていたように、走ると目立つ。おっさんは、相手に気づかれることなく、走って馬車を追いかけたのだろう。アスリートぶりがハンパない。
有能であるおっさんは、それだけでは終わらなかった。山門の近くで、露店を開いた。
寺詣は北京の人々にとってレジャー要素が大きい。少し距離のあるお出かけ場所。親しい者どうしで寺を訪れ、願掛けをし、出店で小腹を膨らませて財布の紐が緩む。おっさんは張り込みをしたいだけなのに、品物が売り切れそうになるという事態に陥ったらしい。
「その寺、結構、馬車が出入りしたんだって」
「馬車?」
馬すら高級品。馬車を使うのは更に富裕層である。
「王氏は5日張り込んでくれてさ。9台。寺の馬車以外に」
「おおーっ」
「めっちゃ怪しい」
*灰吹銀……灰吹法で精製・鋳造された銀。一つひとつ形や大きさが不揃い。長さ、約8~10cm前後、巾約3~4cm前後、厚さ、約3~5mm前後、重さ、約120~180g前後の銀。




