めっちゃ仕事してる
乾清宮に官僚が参内ことがある。
宦官とは異なる冠を被った立派な風貌の男だった。白と黒のごまだらの長い顎髭は、俗世を捨てきれず仙人になれない風に見えた。
冬の北京は寒い。
広く冷え冷えとした乾清宮内に万暦帝の声が響いた。
「くれぐれも深追いはさせるな」
いつもとは異なる緊迫感のある抑揚に、香の木槌を打つ手が止まる。
──なんのこと?
官僚の声がぼそぼそと聞こえる。
「しかし、この報告は過去のもの」
「もとより朕は言ったであろう。追うなと」
「すでに執拗に敵を追い、叩いているやも知れません。明の名誉にかけて」
「日本が撤退するなら、それを確認するだけでよい。名誉などどうでもよいわ。戦が1日伸びるだけで戦費が嵩む。更に戦っては、どれだけの損失を被るか。戦を指揮する者なら分かるだろうに」
広大な空間は静まり、2人の声だけが響く。
「損失。財政はすでに、回復不可能なほど圧迫されています」
そこに、万暦帝は加える。
「最もあってならぬ損失は、兵士の命だ」
「……。」
官僚は、しばし黙った。そして早口で述べた。
「その旨、即、伝令を出します。他の件に関しては後ほど」
そして、足早に去っていった。
日本軍が撤退するようだと、洛の落とした紙に書いてあった。それを見たとき、香の心は「へー」くらいの反応だった。政治など自分には関係ないと思っていた。
しかし、日本軍からの逃亡兵であるおっさんと過ごし、万暦帝に忠誠心を持つ墨竹を知り、洛の状況に触れ、香の中の何かが変わっていた。何よりも万暦帝に、民の命を重んずる心を垣間見た。
──よかった! 日本軍が撤退する!!
心の底から、思った。
階下では、静まり返ったままの空間に小さな宦官の声。
「皇帝陛下、お薬の時間でございます」
「よい」
「医師からの……」
「よいと言った。あの薬は眠くなる。今、そんな場合ではない」
「……はい」
──まだ薬飲んでるの?
香が、既に額縁のように彫ってしまった部分の処理を終わりかけたころ、再びごまだら髭の官僚がやってきた。
「取り急ぎ、伝令を出しました。戦の後のことでございますが、あちらから、朝鮮に明軍を残留させてほしいという要望が出ています」
「いくら小規模であっても、10人というわけにはいかぬ」
「*試算はこちらです。歩兵1万5,000、水兵1万、騎兵5,000、**巡撫の直属兵3,000人などを合わせ、総計3万4,100人。軍馬3,000頭を伴い、朝鮮各地に分駐させるとしまして、官兵の俸給・食塩菜料および新造軍船に関係する費用として、年間銀91万8,960両余。遼東・天津・山東などに分担させ、米・豆を年間13万石供給をすることになります」
「朝貢国であるゆえ、守らねばならんが、これは到底できぬ。だが、まず、これを議会に提案せよ」
「猛反対に遭います。年間92万両もの出費など不可能でございます」
「大幅に縮小する方向へ持っていくのだ。譲歩しているように見せよ」
「はっ」
「その結果を朕があちらの国王と協議する」
「どこまでの数字をお望みですか」
「1/10」
「はっ」
──あらら。商売上手。
香は感心した。交渉する際、値引きを入れて大きく出るのはよくあること。商売人のふっかけるというやり方ではないか。しかも、初めから1/10を見込んでいるとは。
ちなみに、万暦中期の実質的な中央財政の年間平均歳入は銀換算で***1800〜2000万両とされている。
「朝鮮に兵を送っていた日本のトップは亡くなった。恐らくは、もう馬鹿げた戦はない。明のために戦った兵士たちを凱旋させるのだ」
「凱旋でございますか」
「日本軍が撤退したならば、勝利は我が国と朝鮮にある」
聞き耳を立てながら、香は、勝利の形はいろいろなのだと感じた。
おっさんの話では、日本の中央の財政はそれほど傷ついていない。痛手を負っているのは地方の有力者である。一方、明の財政はずたずただと言われていた。財政面であれば、明は敗者である。
庶民である香は、巷の噂しか知らないが、どう考えてもその通りだろう。8年前の北方での内乱すら大変だったのに、遠く朝鮮への出兵など狂気の沙汰と言われていた。隣の国の戦にしゃしゃり出るなというのが、庶民の見解だった。
****実際、北方の内乱鎮圧では80〜100万両、日本との戦いに700〜800万両の戦費がかかった。
すると、洛の声が聞こえた。
「兵士たちに特別に恩賞を与えるべきです」
それに対して、官僚は難色を示した。
「しかし、もう国庫に余力はございません」
次は万暦帝の声がした。
「では、内庫から出そう」
「何万人という兵士の数です。立太子されていないとはいえ、御年17歳。既に婚礼を取り行ってもよいご年齢。婚礼の準備ができぬではありませんか」
──え、洛って同い年だったんだ。へー。
香が密かに驚いていると、本人は言った。
「私の婚礼など何歳でもよい。今は明のために戦った兵士を労うときである。まずは、帰国させなければ」
官僚は、「はっ」とは言わなかった。
「殿下。あなたこそ、次の皇帝としてふさわしきお方。太和殿、中和殿、保和殿の再建をしないという大胆なご提案を皇帝陛下にしてくださいました。その上、鉱税、税監派遣の実施。自らの御婚儀に関してまでそのように申されるなど」
太和殿、中和殿、保和殿を再建しないのは、洛の提案だと知り、香は驚く。白い土台だけが取り残された異様。国家の象徴のど真ん中である。
──大胆にもほどがある。
「決断をしたのは朕であるぞ」
万暦帝の言葉に、今度は官僚が「はっ」と答えた。
落とし物皇子は、影の賢帝かもしれない、と思う香だった。
カツカツ
コンコン
ノミで果てしなく続く手すりの塗料を剥がしていく。この作業だけで1ヶ月近くかかるだろう。
「香」
「ああ、洛」
皇太子候補なのだから、もう少し丁寧に接した方がいい気はするが、香にとっては、賢くても抜けていて怖がりの落とし物皇子なのだった。
「はい、お菓子」
「わぁ、ありがとう」
洛は、見張りの宦官にも差し入れの月餅を渡す。
「いただく」
とぶっきらぼうに応じたが、深々とお辞儀をしながら丁寧に両手で受け取る。
洛は香の手元を覗き込み、声を潜めた。
「あれから結構、分かったことがあってさ。香には感謝してる」
「あの話?」
「そ。ここじゃ長くなるから、墨竹か白露に聞いて」
「うん。ってか、私、聞いちゃっていーの?」
「知りたいんじゃん?」
「そーだけど」
「また教えて。ほら、オレ、世間に疎くて分かんねーし」
「私だって、そんな世間のこと知らないって」
「オレや墨竹や白露よりは知ってる」
「あの2人より?」
「2人は、護衛特化型。養成所で暮らしてきた」
その話を聞き、自分が頼られるなど、この調査はどん詰まりだな、と香はため息をついた。
*『明実録』(神宗実録)より
**巡撫……地方高官
***主な出典・根拠: 黄仁宇(Ray Huang)の『万暦十五年』
岸本美緒 著『明清交代と江南社会』 または関連の明代財政史に関する論文
****『明史』(巻二百五十九・列伝第百四十七「王徳完伝」など)
*太和殿・中和殿・保和殿を再建しないと朱常洛が提案したことに関しては、フィクションです。




