大事なもの落とす癖
乾清宮は宮廷の奥、内廷ののど真ん中に建つ。新築である。その際、師匠は飾り窓や欄干に龍を彫り、それを宮廷へ納めた。*乾清宮は2年前の火事で全焼したと知れ渡っている。
昨年6月にも、宮廷で大火があった。火は燃え広がり、外朝の象徴である3つの正殿――**太和殿、中和殿、保和殿の三大殿をはじめ、2つの楼閣、周囲の廊房まで焼いた。
香はその夜を覚えている。北京の城外、遠く離れているはずなのに、宮廷のある方角だけ夜空が橙色に明るんでいた。
香が宮廷に入って驚いたのは、広大さだけではない。その敷地の中央に建物の土台が3つ残されている異様さだった。その大きさは1つだけで乾清宮に匹敵する。白い石造りの基壇だけが果てしなく広がっている。遠くから見ると白く眩しいが、近づいて見れば上部は黒く、火事の痕は痛ましいものだった。
国家の中枢である宮廷の、最も威厳ある建物がごっそりない。
歴史において、この状態はこの後30年続く。
香は疑問を口にせず、ひたすらノミを木槌で打った。
そんな静かな空間に、遠くから、楽しそうな女性の声が聞こえてきた。香の木槌が止まる。
──珍しい。
大きな声で話す者など誰もいなかったのだ。ましてや、女性。
階下から、誰かの不自然に大きな張りのある声が響いた。
「皇貴妃様にご挨拶申し上げます」
そのとき、回廊の10メートル程離れたところから物音がした。香がそちらを見ると、人をかき分けて回廊に出てきたグレーの服の宦官が、腰を屈めたまま走ってくる。帽子と靴を胸に抱え、厳かな宮中あるまじき疾走。階下からは先ほどの張りのある声が響く。
「皇貴妃様、あちらの階段をお使いください。彫刻家が作業をしております」
疾走してきた宦官は、香の目の前で方向転換し、皇帝のベッドルームへの簾をくぐる。その際、ぽろりと帽子を落としていった。香を見張っていた宦官は、下っ端の無作法を注意するどころか、簾を上げて手を貸す。そして、香に鋭い視線を送り、落とされた帽子を隠せと指差しジェスチャー。
狐につままれたような面持ちで、香は宦官の帽子を、木屑を受けるために広げてあった布の下に急いで隠した。
女性達の華やかな笑いと声が、香のいる場所とは反対方向の天橋を上ってくる。
回廊の先に色とりどりの衣服が見えた。一方、香を見張る宦官は何事もなかったかのように椅子に座り、グレーの服の宦官が逃げ込んだ皇帝の寝所は……簾に付いている飾り紐が微かに揺れている。
香は、ノミを軽く木槌で叩き続ける。
女性達の滞在時間は長くはなく、ほどなくして華やかな声と衣服は天橋を下りていった。
ぱさり
簾の裾が傾き、その下から、グレーの服の宦官が這い出てきた。
「やっべー。マジで、ありがと」
言いながら、靴を履く。香はとりあえず、広げてあった布の下から、彼の宦官の帽子を出した。
──この人、昨日の人と同じだよね? 腰佩落とした人。大事なもの落とすのって、癖?
腰佩は身分証明などに使われる大切なもの。そして、姿を隠す様子からして、ここにいてはいけないと推測できる。帽子があれば顔を隠すせる。が、肝心の帽子を落とした。
男はよほど顔を見られたくないのか、カーテンのような前髪で鼻の下までを隠している。そのカーテンを両耳にかけ、左右対称の端正な顔をちらりと晒してから、宦官の帽子を目深に被った。
「どーも」
話し方はとてもフレンドリー。香もつられて「どーも」と言いそうになったが、会釈だけを返す。
「ああ、牡丹彫る人?」
「はい」
「へー。どーやって彫んの? 今、何も彫ってないじゃん」
「今は、塗装を剥がしています」
「あ”ー。いいって。下っ端宦官に敬語使わなくて。つーか、怪しまれるから、オレには使うな」
香が「はい」と返事をすると、男は帽子の下からぎろりと睨む。仕方なく、香は「そう」と言い直した。
「牡丹か。いいな。『牡丹亭』のファンだからなんだろーな。知ってる? 『牡丹亭』」
私語が許されるのだろうか、と香は見張りの宦官にそっと目をやる。宦官は、ただ置物のように椅子に座っているだけだった。それを見た香は、雑談に応じることにした。
「読んだよ」
「牡丹亭」は舞台脚本。内容はラノベちっく。特に女子に大人気だった。身分違いの恋が幽霊的な現象のすえハッピーエンドの物語。
「いーよなー。あのさ、見学に来ていい?」
「え」
──なんか。関わらない方が、いい、気が、する。たぶん、女の人らから、逃げてた、よね、この人。
「よし。見てみたい」
「……」
──なにが”よし”なわけ。返事してないんだけど。
「さっきは騒がないでくれて助かった。感謝感謝。見つかっちゃダメなんだ」
「そーだったんですね」
「『ですね?』宦官だって言ってるじゃん」
「はぁ」
「な、どんな菓子が好き? 桂花糕は?」
「好き」
「母が作ったんだ。明日持ってくる。今日持ってきた分、全部食べられちゃってさ」
男は頷きながら話す。
一方、香は、まぶたを重くし、目を細めた。
──この人、宦官じゃない。
宦官は宮廷に住む。稀に高位の宦官は宮廷の外から通勤しているが、それは数えるほど。グレーの服の下っ端宦官が母親の手作りお菓子を持ってくることはできない。例えば実家から届いたとしても。桂花糕の日持ちはせいぜい3日である。
頭の中で推理を巡らす香の横で、男は手すりに刻まれた傷を指で撫でる。最後に赤黒い血の部分で指を止めた。
「牡丹なら、少しはお心が安らぐ」
そう呟き、男は去った。後には、妙な匂いが残った。
──昨日の、金糸模様の服を着た宦官と同じ匂い。
香を見張る宦官は、微動だにせず、椅子に腰掛けている。
『何も訊くな、何も気づくな』
その様子を見て、香は、今のことを「なかったこと」として扱わねばならないと悟る。
仕事終了の未の刻の鐘が鳴と、宦官は「今日は終わりにしましょう」と述べた。
「はい」
香は道具を手早く片付けてまとめ、カゴに入れる。小さな箒で周辺に飛び散った細かい塗料の塵を掃いているとき、簾の下に何かが落ちていることに気づいた。拾うと手巾だった。手巾は、水分を少し含んだかのようにくたりとなっている。そして、妙な匂いが濃い。
──この匂い。
いったい何の匂いなのか、嗅いだことがない匂いに香は首を傾げる。見張りの宦官は、すぐさま、香の目の前に手を差し伸べ、手巾を回収した。
床に広げた木屑受けの布を畳むとき、気の利く宦官は手を貸してくれる。無言での片付けが終わり、天橋を下りていく。階段の途中、香は2階の暖閣を振り返る。香が作業をしているのは、階段から右に2つ目の暖閣の前。
その隣は乾清宮の奥側の中央の暖閣だった。その右の暖閣の前には何人もの人が立っている。
──あれ? 昨日って、もう2つ向こうの暖閣に人が大勢立ってたような。
*「明神宗実録」に、万暦24年三月初八日(乙亥)について、
「是日戌刻,火発坤寧宮,延及乾清宮,一時俱燼」(その日の戌刻(おおよそ19~21時)、坤寧宮から出火し、乾清宮に延焼し、一時にともに焼け落ちた)と記載
**万暦帝の時代は皇極殿、中極殿、建極殿
「明神宗実録」に「萬曆二十五年六月戊寅,歸極門火,延燒皇極等殿」(万暦25年6月戊寅、帰極門から出火し、皇極殿などへ延焼した)と記載 ………chatGPTより




