白露と墨竹とわんこ
未の刻の終わり(15時ごろ)の鐘が響いた。
1日目を無事に終え、香はほっとした。
手すりに施す牡丹の図案も、散る花びらも、了解を得た。あとは宿舎へ行くだけ。
とぼとぼと宮廷の城門へ向かう。前を歩く案内の宦官は、少し腰を曲げ、すり足のように小さな歩幅で進んでいた。すれ違う宦官達はやはり、皆、似たような歩き方をしている。
──今日見た宦官、普通に歩いてた。どーしたんだろ。上司に怒られないんかな。新人?
光の中を颯爽と歩いていた宦官。その男が着ていたのは、下っ端と思われるグレーの制服。どうやら宦官には上下があるようだった。それは、今日の宦官の「上の者に」という言葉からも分かる。そして、位だか役職だかによって服の色が違う。香についている宦官は、1番下ではなさそう。服は紺色。
1番下がおそらくグレー。荷物を運ぶとき、師匠を連れて行くとき、グレーの宦官達が現れた。
やがて案内の宦官は宮廷の城壁を出た。
案内されて到着した宿舎には、長いベッドの段が両側の壁に沿ってあり、中央に大きなテーブルが2つと何個もの椅子があった。下は土。50名は宿泊できそうな、だだっ広い建物。香は1人だけで宿泊すると聞かされる。
「つい数ヶ月前まで乾清宮を建てていた職人達が暮らしていたのです。今はちょうど空いています。幸い、場所は役所のそばで女子でも安全。自由にお使いください」
宦官は、破格の待遇とでも言いたげである。香にとってはとんでもないことだった。ひたすら広い見知らぬ場所。夜になれば、灯りを1つ灯したところで、自分の周囲だけしか明るくならないだろう。その先はほとんど闇。
食事はこれでと渡されたのは銀1両の大金だった。
「其方と一緒に来た男は、喉を痛めていたようです。特別な場所へ入れるわけにはいきませんでした。10日後、来ることになっています」
「10日……」
香は思わず呟いた。
10日も1人で作業をし、大きな宿舎で1人暮らすことになる。香はすぐさま仕事を断りたくなった。
しかし、皇帝からの名誉ある依頼。仕事はやりとげたい。
くさくさしながらも、屋台で饅頭や串焼きを買ってきた。食べていれば、少しは気が紛れる。
日が落ち、すっかり夜。油灯に火を灯し、饅頭を一口。すると。
──ぅふ。
香の脳裏に、美しい顔が浮かぶ。
──かっこよかたぁぁぁ。
この日1番の収穫といえば、神ビジュアルの素敵な人に後ろからハグされたことだった。実際には怪しまれて体を拘束されたのだが、香にとってはバックハグ。
──耳元で囁かれたちゃった。イケボ。
正確には耳から30cmは離れていただろうし、囁くのではなく、周りを気遣っての小声なのだが、香にとっては、十分すぎるほど秘めやかな出来事。
おかげで、師匠のいない不安など、どこかへ吹っ飛んでいる。
うっとりと回想に耽っていると、
「くーんくーんくーん」
鳴き声が聞こえてきた。それはゆっくり近づいてくる。香は動きを止め、視線だけを走らせる。
──犬?
暗闇の向こうから、ぬっと姿を現した。もこもことしたシルバーグレーの毛の塊。甘えた声に似合わず大きい。
「欲しいの?」
香は串焼きを掲げる。犬の目が、肉に釘付けになる。
だらだらだらだら
ぼとぼとぼとぼと
「あはははは。めちゃくちゃ欲しーいんじゃん」
香は1つ肉を串から外し、ぽんと投げた。犬は上手に受け止め、目を細めて満足そうに噛む。
──かわいい。
そのとき、蝋燭の光が届かない暗闇から声がした。
「へー。チンギスを怖がらないなんて」
コツコツと靴の音が近づいてくる。香は顔を上げた。
闇の中から現れたのは、昼間、香をバックハグした顔だった。
「どうしてここに!」
まさかの再会に香は嬉々とする。
──運命! 運命だよね、これ。
しかし相手はそんな香の胸中など知る由もない。
右手に串焼きを3本、左手に齧りかけの鳥の足、左脇に筍の皮に包んだちまきを携え、猿のように香の正面にぴょーんと腰掛けた。
「ちーっす」
昼間と雰囲気が違う。何よりも、服が女物に見える。
──男の娘だったの? これだけ綺麗だったら、女装したくなるかも。ひょっとして、この人もここに泊まるの? きゃー♡
「今日はすみません。乾清宮のことがよく分からなくて」
香は、胸の内で大騒ぎしていることを悟られないよう、できるだけ平静を装った。そして、ふと違和感を覚える。相手の美しい顔に何かが足りない気がする。何かが。香はじっと顔を見る。
──泣きぼくろがない。
「乾清宮? あー、それ、墨竹だ。私、今日、休みだもん」
「え」
「交代で仕事してんの。へー。墨竹に会ったんだ。なんかやらかしたの? 普通、人前に出てこないんだけど」
「?」
「いーのいーの。こっちの話。私は白露」
「あ、香です」
白露は、話しながらもばくばくと鳥の足を食べ、串焼きを串だけにしていく。
「わん!」
チンギスが催促する。
「はいはい」
白露は串焼きの肉を、ほんの少しだけ分けた。
「あの、白露。ここを使ってるの?」
「たまに。部屋は宮廷にある。でもさ、こっちの方が気楽じゃん」
「宮廷に住んでるの?」
「そ。墨竹も。最近、うちら、こっちが気に入ってんの」
「へー」
「明日は墨竹が来るよ。チンギスがいるから」
「わん!」
チンギスが自分の名前に反応する。香が「お利口」と褒めると尻尾を揺らす。
話しているうちに、白露、墨竹、香は同じ歳と分かった。そして、白露と墨竹は男女の双子。
香は、昼間会った墨竹の顔を思い出す。
──そっくり。
「香は牡丹を彫りにきたんだ?」
「うん」
「寺へ行ったとき、見たよ。風に揺れてるみたいだった。木目しかないはずなのに花びらの色の濃淡があるようで。すっごい素敵だったよ」
「ホントに?!」
思わず声が弾む。香は、こんなふうに具体的に褒められたことはなかった。師匠は言葉少なげ。「腕を上げたな」と褒める。仕事の依頼者は金額で示す。いくら払うか、次も頼むか。それが評価だった。
香は、自分の彫ったものを見て誰かがどう感じているのか、知らなかった。
「どした? 香。そんなに嬉しい?」
気づけば香は、両手をぐーに握り、小刻みに振っていた。
にこにこする香を、白露は不思議そうに眺めつつ、ちまきを大口で頬張るのだった。
翌日、目覚めたとき、白露はいなかった。
「くーん」
チンギスはいた。
◇
昨日と同じ宦官と共に乾清宮へ行き、見張られながら作業をする。この日は彫刻する部分の塗装を剥がした。塗装部分は硬く、柔らかい曲線を出す彫刻をするのに支障がある。下の木を傷つけないよう、ノミの角度を調節し、丁寧に剥がしていった。
見張りの宦官は優しく気が利く。お茶を淹れてくれたり、お菓子を添えてくれたりする。それでも、必要以上の会話はなかった。
静寂の中、トントンと木槌を叩く音だけが響く。
本当は、香には訊いてみたいことがあった。
──宮廷では火事が日常茶飯事なのですか?




