皇帝のベッドルーム
ニートの星、万暦帝。彼は、明代1位の在任期間48年間のうち、後半30年は政務を放り出し、宮中に引きこもった。
──明は万暦に亡ぶ──
明王朝の衰退と滅亡の根本原因が、第14代皇帝、万暦帝の長期にわたる政治放棄にあったとする歴史的評価である。
万暦26年。
齢17の香は、乾清宮の階段、天橋の最後の段を踏み、回廊にさしかかる。前方には腰を曲げ、小さな歩幅の宦官の背中。その向こうに回廊が長く伸びている。頭上は光に満ちた大空間。柱と梁が幾重にも立ち上がり、その先に高い天井が霞む。香は、2階にいるというより、巨大な乾清宮の宙に浮かんでいるような気がした。暖閣への回廊は、新築の金絲楠木の匂いがしていた。
カタカタ。背負った竹籠の中で商売道具が鳴る。様々な大きさのノミ、木槌、金槌、墨壺、漆など。
──なんだろ。この変な匂い。
しかし、進行方向から近づいてきた宦官の豪華な刺繍の服には、金絲楠木とは別の匂いが染みていた。香はぴくりと眉をひそめる。その宦官は、香を案内している宦官に小声で伝えた。
「なるべく音を立てぬよう」
「はっ」
香の方にも目で訴える。香は無言で丁寧に拱手を取った。
豪華な刺繍の背中は、回廊を戻っていく。香は、匂いが充満しているだろう、回廊の数十メートル先を見つめる。そこには、数人の人影が亡霊のように佇んでいた。
「こちらでございます」
前を歩く案内の宦官は、腰を少し曲げたまま、小声で香に先を促した。
「はい」
香は、再び進む。
宦官は静かに歩き、回廊の途中で止まった。
「手すりのこの部分にお願いしたいのです」
それは、階段から2つめの*暖閣の前。指された手すりには、傷がいくつも残っていた。刃物で斬ったような傷。何かを突き立てたような穴。剥がれた塗装の奥で、木目が赤黒く染まっている。
──血?
香は息を止めた。
「この暖閣の前に牡丹の彫刻をせよとのことです」
手すりは胸の高さ。幅は5mほどになる。現在の塗装を落とすだけでも一苦労。そこに更に彫刻を施して仕上げるとなると、2人がかりでも1ヶ月はかかる。本来ならば、師匠と2人で作業をするはずだった。
しかし、師匠はここにはいない。
香は手すりを見つめ、乾清門から入るときのことを思い出す。師匠が数回咳き込んだ。
『師匠』
それだけだった。どこからともなく数人の宦官が現れ、師匠を別の場所へ連れて行った。
『牡丹を彫るのは、その女子だろう? では、其方だけ入りなさい』
なぜ師匠を連れていくのか、と香が尋ねるより早く、師匠の手が香の腕を掴んだ。
『何も訊くな、何も気づくな』
香の耳に師匠の声がこびりついている。
何も訊くな、何も気づくな。
香は手すりの赤黒い傷から目を逸らした。
「どう彫るのか、事前に絵を描いて見せてください」
「はい」
「手が足りなければ人を遣わしましょう。水、塗料、足りぬ物は何でも言ってください」
「はい」
「寺にあった牡丹の彫刻を、皇帝陛下がいたく気に入られました。ベッドから牡丹を眺めたいと仰せになったりまして」
「光栄でございます」
宦官は、暖閣の奥に降りていた簾を上げ、香を寝所となる暖閣の3つのベッドに囲まれた真ん中に立たせた。どのベッドの天蓋には蔦模様の彫刻が施され、輝くような黄金色の枕と布団があった。
数秒後、そこから出るように促し、再び簾を下げた。
香は荷物を置き、暖閣に少し入った簾の外の床に腰を下ろして壁にもたれる。
窓のない空間に、風を彫ろうと思った。牡丹の群生。花びらが舞い、蝶が羽ばたく瞬間が大空間の光の中、幻想のように現れる。白、薄桃色、黄色。風、光。
閉ざされた暖閣の中に吹く風。
香は紙に絵を描き始めた。
宦官は暖閣を仕切るもう一方の壁の前で置物のように小さく椅子に座り、少々申し訳なさそうな顔をした。
「気が散るかもしれませんが、刃物があるゆえ、ここで見張らなければなりません」
「いえ」
香はひたすら手を動かした。時に大空間を見上げ、まぶたを閉じる。脳裏に牡丹が咲き乱れ、散っていく。
無言の時間の後、描き上がった絵を宦官に差し出す。
「寺にあった牡丹と構図は似ています。豪華に見えるよう、蝶が遊び、花びらが風に舞う様子にしようと思います」
宦官はその紙を受け取ると、恭しく述べた。
「素晴らしいです。しかし、『散る』花びらを描いていいものか判断がつきません。こちらを上の者に見せるので、しばらくお待ちください。他の作業を進めてくださっても構いません」
宦官がどこかへ行った。
香は、肩を回し、伸びをしてから、手すりの下に汚れや木屑を受ける布を広げていく。よく見ると、手すりと床の隙間部分も赤黒いものが残っている。彫刻の依頼は、刀傷と血の痕跡を消すためだろう、と香は推測した。
手すりの下にしゃがみ込み、血の痕を見ていると、天橋から宦官がきた。目深に被った帽子にグレーのくたびれた服。宦官の姿なのに、背筋を伸ばし、大股で闊歩している。宮廷内の宦官が皆、腰を少し曲げてすり足で進むのと対照的だった。香は邪魔にならないよう、せっかく広げた布と共に、手すりに身を寄せる。その宦官は、そんなことを気にも留めず通り過ぎていく。
コン
香の目の前に何かが落ちた。真っ白な羊脂玉の**腰佩。即、拾い、呼び止めようと声をかける。
「すみません」
思わず追いかけようと体が動いた。
「っ」
立ち上がって3歩進んだ瞬間、いきなり後ろから身体を抱えられ、同時に首に腕が回った。数十メートル先では、あの宦官が背筋を伸ばし、大股で遠ざかっていく。
「何をするつもりだ」
すぐ後ろから低い声がくる。
香は、恐ろしさに震える声で答えた。
「落とし物が」
「貸せ」
首に回された腕はそのままに、身体を押さえていた力だけが抜けた。香は腰佩を握っていた右手をゆっくりと開く。白い平たい艶やかな円の中に炎と4本の蝋燭の彫刻。
「これはあの宦官に届けておく。作業に戻れ」
「お願いします」
そう言葉を発したとき、喉を僅かに圧迫していた腕も解かれた。
ようやく解放され振り向くと、至近距離に現れたのは、鼻筋の通った顔に隙のない眼光と泣きぼくろ。
これまで見た誰よりも完璧なビジュアルに、香は口を開けたまま固まった。光の中だから美しく見えるのか、否、そうではない。好みである。少し垂れた目が普段は優しいのではないかと想像を掻き立てられる。長い髪が肩にかかり、正面から射抜くような眼差し。泣きぼくろに吸い込まれそうになる。黒ずくめの服。帯刀。立ち姿。良き。
香は作業に戻れと言われたにも関わらず、沼に足を取られたかのように動けないでいた。
「……」
「……」
無言で見つめ合った。香にとっては。
相手にとっては、単に「こいつ、どーなったんだ?」という間だった。
香の様子に呆れたのか、多忙だったのか、泣きぼくろの人は踵を返し、光の中へ消えてしまった。
足音は全くなかった。
*暖閣……間仕切り、屏風などで小さく区切った小部屋
**腰佩……伝統的な装飾品




