人を殺せる側の墨竹
師匠の妻は、香に大喜びだった。
「香、もう、寂しかったよ。女の子っていいわ」
むさ苦しい兄弟子達がいても、容赦無く言葉にする。兄弟子達は反撃。
「はっ、こんなデカくて筋肉もりもりの、女に入んねーし」
師匠の妻は、香の代わりにぱこーんとお盆で殴ってくれる。
「痛っ」
そして、香は師匠に報告した。
「手すりの一部分に牡丹を彫ってるんです。もうそろそろ、それは終わるんですが、今日、手すり全部に彫るように言われました。万暦帝から」
「「「マジで?!」」」
兄弟子達は、実は香は万暦帝に見初められたのではないかと大騒ぎ。
「アホか!」
ぱこっ ぱこっ ぱこっ
師匠の妻は、兄弟子達を順番にお盆で殴ってくれた。
「あんた達ねぇ。香の牡丹にかなわないからって、変なこと言うんじゃないの。だいたい、見初めたんなら、仕事させずに綺麗な服着せて後宮に入れるよ。そーゆー人達じゃない」
師匠まで、一理あると頷いている。
「そうだよな。いくらニート暗君の万暦帝でも、女は選ぶだろ」
ぱこーん
師匠の頭に妻はお盆をフルスイング。
「こんなに可愛い香に、なんてこと言うの。嫁にも出したくないくせに」
師匠の妻は、大事そうに香を抱きしめる。その腕の中では、香が「うんうん」と大きく頷いている。
そんなやりとりをしながらの夕食の後、師匠と牡丹について相談した。
腕を組み、眉間にシワを寄せた師匠は、大仕事に喜んでくれた。一方で、様々な心配を巡らせていた。ちなみに、師匠は宮廷に品物を収めたり、透かし彫りの建具を取り付けに行ったことはあるが、乾清宮に入ったことはない。
「最初に話を聞いたとき、ちょっと不思議に思ったんだ。普通、手すりに彫刻するときは一箇所じゃない。他とのバランスがある。そうか。手すりはそんなに長いんだな」
「はい。乾清宮の端から端まである感じです」
「香、自分が日に日に上手くなってるのを分かってるか?」
師匠は香に鋭い眼光を飛ばす。香は褒められたことを心の中で密かに喜ぶも、責めるような目が怖かった。
「……」
「1年以上もの仕事、最初の牡丹と最後の牡丹が違ってしまうぞ。彫り方を考えないと」
「あ。」
「オレらはもう、自分の形ってのがある。お前の兄さんらも。仕事として請け負って、きっちりこなす。だがな、香は違う。14のとき牡丹を彫り始めてから化けた。もともと小さいころから、奇妙な子だったがな」
「奇妙ですか?」
「褒めてる」
香は、今ひとつ、貶されたようにしか思えなかった。
「とにかく違う。上達するのはもちろんいいことだ。しかし。これは、彫り方を考えないと。最初に彫った牡丹を彫り直したくなるかもな。まあ、そしたらそれはそのときだ」
色々言われたわりには、何も変わらない結論に至る。
「で、香。宮廷に長居して、そそうなんてしようものなら、首が飛ぶ。そっちが怖い」
「気をつけます」
「皇帝陛下じきじきに20両ももらったんだ。やるしかない」
「はい」
20両があってもなくても、もとより、皇帝の命を断ることはできない。
師匠は更に具体的に考えていた。
「今彫ってるとこに、境目があるだろ。それを消すのも大変だな。境界には境界の柄や彫り方がある。普通だったら、何個かに区切って、端からやってくんだが、それをすると牡丹が変わる。んー。小さなもん彫るときみてーに、背景からやるしかない。作業しない部分をしっかり布で覆うことにしよう。塗装剥がすのや、背景は誰かに手伝わせ、、、あいつらは、大概プライド高いからな」
兄弟子達に、年下の香の手伝いをさせるのは難しい。しかも、香は女性。年功序列、男尊女卑の世の中である。それに、彼らは、香の仕事だからといって、香の彫り方に合わせてくれるだろうか。背景や細かい部分の掘り方で自己主張することは、十分に考えられる。
「師匠、腱鞘炎は治りましたか?」
「いや。まあ、今まで彫りすぎた」
誰も手伝わなければ、1年どころか更にかかる。
そして。
「香。婚期を逃すぞ」
意外にも、最後の言葉がずしんと来た。
夜、久しぶりの自分のベッドで香は天井を見る。窓からの光はほぼなく、天井はただの暗闇。
──婚期って。でもねでもね、知らない男の人と結婚するくらいなら、ずーっと彫刻の仕事してた方がいーし。周りから変な目で見られるかもだけど。
この時代の北京周辺は、仕事を求めて流入する男性が多く、男女比が大きく偏っていた。男性の独り者はごろごろいたが、女性は圧倒的に少なかった。17歳は適齢期。あと1ヶ月も経たないうちに新年になり、皆一斉に歳をとる。18歳は、そろそろ結婚を焦り始める年頃である。
しかし、こうも考えられる。
──それって、私には、墨竹しかいないってこと?!
甚だしい飛躍。
思い込みは大切とも言う。とりあえず、香はそういうことにした。それよりも、墨竹に誘われたことの方が重要である。
──2人で馬。素敵だったぁ。
火事の跡を見に行ったのだが。そこは置いておく。
香にとっては特別な1日だった。万暦帝に牡丹を褒められ、20両を貰い、墨竹とデートし、墨竹が自分の親代わりである師匠に挨拶してくれた。師匠からは日毎に彫刻が上手くなっていると言われた。
翌朝、香は早くから家を出、宮廷へ向かう。重量的にも気持ち的にも重すぎる銀を師匠に預けた。
馬のヨダレを洗うのは、忘れた。
◇
何十mにも及ぶ光の中の手すり。求められているのは、現在の香の牡丹。一生に一度の大仕事だろう。
紙を細長く繋げ、宿舎でうんうんと図案を考える。
浮かんだのは春夏秋冬。けれど、牡丹が咲くのは春だけ。それなのに、香の頭の中には、冬、寒い中、うっすらと雪化粧する牡丹が咲き乱れた。夏、水灯籠と牡丹。燃える紙銭と共に舞う牡丹の花弁。春、蝶。秋、月。
くすっ
秋が月なら、牡丹なのだから、ただの春の夜の風景になる。そんな一人突っ込みに笑う。
──秋、すすき。
そう連想したとたん。頭の中に、一面の枯れた葦とすすきが広がった。重なるように現れた牡丹の花は鮮烈な血の赤。大輪の花が涙を流すように、花弁からぽたぽたと血を溢れさせる。
心臓の音が速くなった。怖くなった。
香は墨竹に憧れている。けれど。
怯む。
彼は、人を殺すことに躊躇しない。「オレ、斬っちゃって、師匠に怒られてさ。死んじゃったら、情報を引き出せないじゃん」と、当たり前のように言った。
でも、おっさんは、それが辛かった。だから逃げた。だから鍍金匠の工房に火を点けられなかった。
自分はおっさん側なのだ、と香は思う。
墨竹のイメージは黒。それは、美しい黒髪や名前の「墨」や護衛のときの黒い服の印象だろう。香が宿舎の夜の墨竹との時間を楽しみにしていることもあるかもしれない。頭の中で、墨竹の周りに血塗られた赤い牡丹の花が咲く。泡が水中から昇るように、赤い花弁が天に吸い込まれていく。その一枚一枚は……人の命。




