さらってくれるの?
香は同じ歳くらいの女の子達に尋ねてみた。
「すみません。人気のお店なんですか?」
すると、綺麗な青いマントを纏った可愛い女性が嬉しそうに教えてくれる。
「東坡肉の君がお食事をなさってるの♪」
東坡肉とは、豚の角煮のことである。香は、ぽってりと太った男しか想像できなかった。
──まさか、万暦帝が?!
と失礼すぎる、絶対にあり得ないことが頭を過ぎる。
飯屋の扉は両開き。片側が開け放たれている。中には女性客がうようよ。ガテン系の飯屋なのに。香が流行に疎いだけで、実は、東坡肉好きで有名な大人気の昆曲スターがいるのかもしれない。
「見たい!」
香が言えば、女子ズは推しの同志を増やそうと優しく扉のところへ導いてくれる。
──墨竹じゃん。
店内を一目見て分かった。男性客は数人。店内の女性客の目は、たった1人に注がれている。香は、そっと踵を返す。
「「「ね、素敵でしょ?」」」
と女子ズ。
「まあ。」
香はライバルの多さに焦りながら、店を後にした。
メインストリートを進み、永定門が見えたところで、不意に呼び止められた。
「あれ、香」
泣きぼくろ様の声が上から降ってきた。
「墨竹。わ、馬」
墨竹は馬に乗っていた。皇帝の護衛なので当たり前といえば、当たり前。しかし、馬は維持費がべらぼーにかかる高級品である。庶民には到底手が届かず、武官か、金持ちの御曹司しか乗らない。
──外見だけじゃなく、馬まで。これはモテる。
若い女子ズは分かりやすい見た目で判断するものである。
ところで、馬は、先ほど香にヨダレを飛ばした礼儀知らずではないか。一旦、ヨダレなど洗えば済むと考えたはずなのに、ちょっと睨んでしまった。
ブルルルッ
ヨダレ攻撃で返された。
「香、どこ行くの?」
と墨竹は訊く。
香は辺りに女子ズがいないことを確認する。親切に教えてくれたのに後ろめたい気がしてしまう。
「師匠ん家に帰るの」
「乗れば? 送ってく」
♡_♡
「ありがと」
墨竹は、一旦馬から降りて、香を馬の背に乗せてくれた。2ケツで密着?かと思ったら、墨竹は手綱を持って、馬には乗らず走り出す。
「墨竹は乗んないの?」
「ぅん」
「え、じゃ、いいよ。乗りなよ。ってか、送らなくても」
「ちげーし。行きたいとこあってさ」
「え」
「香も行こ?」
「うん!」
──デート。デートだよね、これ。まさかの泣きぼくろ様から誘ってくれるなんて。しかも馬まで連れて。ってか引いて。
香は、偶然声をかけられただけであることをすっかり忘れ、舞い上がる。
──どこへさらってくれるの? 墨竹だったら怖くない。何があっても後悔しない!
墨竹は走り続ける。
「そんなに走って大丈夫?」
「こんなん、別に普通」
「じゃ、なんで馬で?」
「1人で走ってると目立つ」
「そっか」
納得である。
師匠の家の辺りを通り過ぎ、一旦、田畑が広がる場所になり、再び、集落が現れ、それでも進む。
街道から折れると、一気に人通りがなくなった。だんだん民家も減ってくる。
──まさか、白露と墨竹のご実家? ご両親に私を紹介してくれるとか?
期待で胸いっぱいの香の視界に飛び込んできたのは、枯れた葦やすすきの湿地帯。恋愛脳の香であっても、さすがにおかしいと思い始める。
──軍戸って、大抵、割当の農地あるよね? 田畑、ないんですけど。
道は狭くなり、いつのまにか、荷車がやっと通れる程度の幅が続いている。墨竹はスピードを落とし、馬に飛び乗った。香のすぐ後ろで手綱を持つ。
──きゃーーーっ♡
彼の腕にすっぽりと包まれる。……単に、後ろから手綱を持っているだけである。
彼の黒髪に撫でられる頬が熱くなる。……単に、風が強い。
耳元に、その唇から零れる息づかい。心臓が壊れそう。……。
すぐ後ろにいる墨竹からは、東坡肉の匂いがした。他の男が脂ぎった匂いをさせていたら、香は顔をしかめて息を止めただろう。しかし。こってりした肉をがっつり食べる墨竹を漢らしいと感じ、うっとりと深呼吸。
しばらくすると、墨竹は馬を留めた。
「ここ」
焼け落ちた一軒家があった。
鍍金匠の工房だとすぐに分かった。
土塀は黒く変色し、荷車が通れる広い門には地面に焼けた扉の残骸がある。そこから中が窺えた。家は何棟かあったのが見受けられる。工房や寝泊まりする場が分かれていたのだろう。ところどころ残る黒い柱。下に転がる全てが黒。
「ここにいた人達は?」
「逃げた後だった。たぶん、王氏が逃した」
香は、またまたおっさんが、王小虎という名になったことを忘れていた。今回は、一瞬後に頭に出てきた。
「王氏が?」
「洛が、王氏に『火を点けろ』って命じたんだ。でも、王氏にはできなかったらしい。だよな。そーゆーのが嫌で、戦から逃亡した御仁だから」
「でも」
と香は、目の前の焼け落ちた一軒家から後ろの墨竹に視線を移す。
「白露が火矢を放った」
香は、白露の冷徹な中にある優しさを感じた。
「白露が……」
──おっさんの代わりに。
「火事の後、役人が調べた。誰もいなかった」
「銀は焼けちゃうんじゃないの?」
「溶ける」
「溶けるんだ」
「溶けた金属の塊は見つかったらしいけどさ。銅とか鉛だったって。銀は持ってったんだろーな」
既に役人が調べた後。墨竹は役人からの報告まで知っていた。
「じゃ、どーしてここに来たの?」
「確認」
「役人が調べたのに?」
「どの役人がここと繋がってたか分かってない。だから、一応」
「役人に内通者が」
「用は終わり。じゃ、師匠んとこだっけ?」
「うん」
香は、別に今夜は帰らなくってもいいんだよ? というくらいの気分だったが、懐の銀が重すぎる。素直に送ってもらった。もとより、自分から言い出す勇気などない。2人で馬に乗るのではなく、再び墨竹は自らの足で走り始めた。
「ね、墨竹」
「ん?」
「なんで、さっきだけ馬に乗ったの?」
「何かあったらすぐ、逃げられるよーに」
「ふーん」
そんな理由だった。何度も期待させられ、突き落とされる。しかし、何度引っかかっても、少しでも幸福を味わえるならそれでいいとさえ思う香だった。
「着いた。香」
「ありがと」
少し離れたところに師匠がいた。
「おお、香」
「師匠。ただいま帰りました」
すると、墨竹は、姿勢を正し拱手した。これは、香の親代わりである師匠に「男、カレシ、未来の夫」として好印象を持たせるチャンスである。
「宮廷で護衛の仕事をしております。香様をお送りしました」
「わざわざ送り届けていただき、ありがとうございます」
師匠は丁寧に拱手を返す。
そのやり取りを見ながら、香は、花嫁衣装を着ている自分を妄想。「いつでもお嫁に行ける」と思った。
師匠と香は墨竹が馬に乗って帰るのを見送り、家に入ろうと門を潜る。師匠は墨竹を褒めた。
「綺麗な兄さんだな。なかなかの佇まい。皇帝の彼氏か?」
「違います」




