もふもふタイム延長
牡丹は仕上げの段階に入る。
香には、不思議に思うことがあった。万暦帝が、未だ、乾清宮の中で小さな椅子だけの輿に乗って運ばれ、両側から宦官に支えられながら椅子に座るなどしている。
──まだ怪我が治ってない?
いったい、どれほど重傷なのだろう、と香は気の毒に思った。
──そういえば「不審者は27のベッドを端から探ってた」としか聞いてないっけ。
なんだかんだで、乾清宮に忍び込んだ不審者について、詳しいこと聞いていない。墨竹が斬った。香が牡丹を彫っている場所で乱闘したらしい。恐らくは、そこで致命傷を負った。
その後、香は、その場所で2cm足らずの小さな釘を見つけた。
そして、男は恐らく、釘の落とし主である。
釘は交泰殿の天井に使われていた。その天井を造っている親方は、鍍金匠と繋がっている。鍍金匠はニセ物の馬蹄銀を造っている。
香はおっさんに聞いた話を紙に書き、白露から洛へ届けてもらった。その後は何も聞かされていない。
『何も訊くな、何も気づくな』
香の師匠は言ったが、どうアクションを起こしているのかくらい教えてくれてもいい、と少し不満に思う。
──釘見つけたの、私じゃん。
早く状況を聞かせてもらわないと、牡丹が仕上がってしまう。仕事が終われば、香は乾清宮に通えなくなる。
──大変! 泣きぼくろ様に会えなくなっちゃう。
釘どころではないことに、今更気づく香だった。
◇
ある日、万暦帝が香の牡丹を見学に来た。
一段ずつ天橋(階段)を上る人の塊。その中心に、椅子に腰掛けたままの万暦帝がいた。椅子を運ぶ者、落ちぬように支える者、万が一に備えて布団のような物を広げて追従する者。
人の塊は、香から遠い方の天橋を上っていた。光溢れる世界の住人。
巷に伝わる賢帝の伝説は、なぜか生まれたときに体が黄金に光り輝き、その光が国中に届く。もちろん、神仏すら信じていない香は、そんなことなど嘘と分かっている。が、万暦帝が光溢れる世界で暮らしていることは事実だった。
磨き上げられた回廊を、人の塊が進んでくる。
香はノミを置き、床に平伏した。
大勢の足音が近くで止まった。床に椅子型の輿が静かに置かれる気配がする。平伏す指先に影ができる。
そして、上から声が降った。
「見事だ。香という名だと聞いた」
皇帝に名を覚えられているなど、畏れ多いこと。
「はい」
そのとき、香の鼻を、いつかの薬の匂いが掠めた。
「花弁が幾重にも重なる牡丹を、ここまで再現するとは。まるで風に揺れているようであるぞ。散った花弁は天に運ばれていくのだな。朕にはそう見える。蝶は天女の化身のようだ」
あまりの褒め言葉に、香は胸がいっぱいになる。
「ありがたき幸せにございます」
そして万暦帝はとんでもない命を下した。
「この回廊の手すりすべてに牡丹を咲かせよ」
一瞬、香は何を言われたのか理解できなかった。ただ、庶民は、いや庶民でなくとも、この国の人間であれば皇帝に逆らうなどできない。とにかく返事をしなければ。
「はい」
考えるのはそれからである。
「楽しみだ。朕は、眠るときくらいは龍から解放されたいのだ」
「はい」
牡丹を咲かせるとは、と考えていた香は、受け答えがまともにできておらず、平伏している腰を見張りの宦官につつかれた。つつかれたとき、やっと手すりのすべてに牡丹を彫らなければならないと分かった。
「『牡丹亭』のようによい夢を見たいものだ」
「はい」
途方も無い大仕事に、香は伏したまま仰天する。いったいどれだけの月日がかかるのか。何輪の牡丹を咲かせるのか。暖閣の数から手すりの長さを頭の中で思い描く。
つんつん
腰の辺りをつつかれている。
「香。皇帝陛下はもういらっしゃいません」
やっと頭を上げ、宦官の方を振り返る。すると、宦官は、香に銀を差し出した。
「え?」
「皇帝陛下からの御心付けです」
チップである。通常、銀であっても、小さな塊であるはず。しかし。
「こんなに大金を?! ですか」
思わず敬語を忘れる始末。それは、20両の馬蹄銀だった。小さな船型の甲板部分には「銀作局」「花銀二十両」の刻印がある。
「相当、其方の牡丹を気に入られたようです」
そう宦官は言ったけれど、香は、馬蹄銀のニセ物を造っていた件に対する褒美かもしれないと思った。
20両。ずっしりと重い。持ち歩くわけにはいかない。
──師匠に預かってもらおう。
手すりのすべてに牡丹を彫るよう申しつけられたことを、師匠に報告しなければならない。
仕事後、香は宿舎に寄らず、街の南の正門、永定門を目指した。
広大な帝国の中心、北京。帝国で最も賑やかな街。食べ物屋の軒先では、饅頭を蒸す特大の蒸籠から湯気が立ち、飴細工の屋台に子供達が群がる。寒空の下、カップルは身を寄せ合ってそぞろ歩く。
そんな中、香はといえば、ノーメイク。髪はまとめれいるけれど、木屑が付いているかもしれない。防寒第一の地味な上着の下は、着古した職人の濃紺の服。せっかく繁華街を歩くというのに、オシャレの欠片もない。
懐には20両+α。食べたい物はなんでも食べられるし、欲しい服もアクセサリーもなんでも買える。けれど、支払いに馬蹄銀など出せない。香のような小娘がそんな大金を持っていれば、犯罪を疑われ、捕まってしまうだろう。
何より、大金を早く師匠に預けたかった。
香は左手を右手の袖口へ、右手の方を左のそれへ入れ、冷えた指先を温める。首に巻いている布だけは、先日買ったばかりのお気に入り。グレー地にピンクの花柄が映える、ちょっと贅沢な大ぶりのもの。ときどきふわっと雪が舞い降りる中、その布に顔をうずめると、ほんのり心が浮き立つ。
とさっ
使い込まれた竹籠を背負い直す。道具入れのその籠は、ファッショナブルとは程遠い。街ですれ違う、綺麗な絹の衣をまとった娘達から見れば、「生活のために働かざるをえない女職人」に映るだろう。それでも、背中で音を立てる竹籠が、彼女にとって1番のカッコつけアイテムだった。
メインストリートを歩いていると、飯屋の前に女子が20人ほどうろうろしていた。
──人気店? 女の子達が行くお店っぽくないけど。
何か人気メニューがあるのかもしれないと近づく途中。
ブルルルッ
道の脇に繋がれていた馬がヨダレを飛ばした。
「っ」
なんと、香の先日買ったばかりのお気に入りの布に、ぺっとりヨダレがついてしまった。
──あ”ー。
一瞬気分が落ち込んだ。今日は墨竹が休みの日というのに、宿舎で会えないことも重なる。
──でも大丈夫。だって、これからもずーっと牡丹を彫り続けるから。ぅふ♡
それは、墨竹とチンギスと香の幸せなもふもふタイムが続くということ。馬のヨダレごとき、洗えば済む。
飯屋の前にいる娘達は、ときどき中の様子を覗き見し、キャッキャと嬉しそうに囁き合っている。いったい何があるというのか。




