世の片隅の孤独な男
おっさんは断言する。
「親方がどこかから命じられて鍍金匠に仕事を持って行ってるのは確かです」
白露はとっくにお粥を平らげ、鶏の脚を手に持ったまま、黒目を天井にやる。
「とんでもないことが分かっちゃったよ。『銀作局』とか。ヤバいって」
銀作局は皇帝の内府に属する官署である。金銀の器物や装飾品などを製作し、銀錠も扱っていた。銀作局は、宦官が管理する内府の八局の1つ。
白露は「ヤバい」を繰り返しながら説明してくれた。
「んー。ごめん。今ひとつピンとこない。だいたい、馬蹄銀なんて触ったことないし。とにかく、別格ってのは『ヤバい』で伝わってきたよ」
正直者の香は、説明の努力が水の泡と化す受け答えをした。
香は、本物の馬蹄銀を見たことがある。師匠が請け負う仕事は高額。その支払いは小さなリンゴくらいの馬蹄銀であることが多い。それらの馬蹄銀の船型の甲板部分には、刻印があったり模様があったりした。
刻印や模様が同じでないことを、不思議に思ったが、あまりじろじろ見て、「狙っている」などと信用を失いたくない。なので、しっかり見たことはなかった。
白露によれば「とんでもないヤバいこと」である。香にとっては、普段使う銅銭に山ほどニセ物が混じっており、それが普通に使われている世の中なので、そんな犯罪もあるんだねという程度だった。
おっさんの話はまだ続いた。
「帰ろうとしたとき、ちょうど飯屋で見た2人が逃げるところでした」
水銀とニセ金、ダブルコンボの危険な工房から立ち去ろうとしていたとき、小さな声が聞こえた。
『いない。今だ』
『大丈夫かよ』
おっさんがいたのは、工房の土塀の内側。大量の木炭の入った木箱が置かれている場所だった。屋根だけある屋外。そこから工房の門まで数m。門に人影があった。2人のヒソヒソ声が聞こえてくるのは、工房の奥である。
門のところで仁王立ちしていた影が声を発した。
『おい。どっか行くのか?』
それは、寒さを運ぶ風の中で穏やかに響いた。
『ひっ』
『すんません』
門のところにいたのは、工房主だった。
おっさんも同時に肝を冷やした。一歩間違えば、自分まで見つかっていたかもしれない。
『怒らん。出てこい。咳、辛いやろ。そろそろ限界だと思った』
静かな声に、2人の男が工房主の前に姿を現した。2人は咳をしながらも『すんません』を繰り返す。そして、1人が懐から何かを出して、震える手で差し出す。それは、白い月明かりの中でぽおっと銀色に輝く馬蹄銀だった。
『堪忍してくれませんか』
『返します返します』
工房主は、それを受け取ると、まるで交換のように袋を1つずつ、逃げようとしている男達に押し付ける。袋の中からはじゃらじゃらと硬いものが擦れ合う音が聞こえた。
『持ってきな。それは、ちゃんとした本物の銀や。馬蹄銀じゃないけどな。こっちのは困る。バレたら、お前らが死ぬ。ここにおる者も、みんな』
『『ありがとうございますっ』』
『体、大事にせいや。どっかで困っとる者がおったら、ここ、紹介したってくれ。達者でな』
『『あ、ありがとうございます』』
2人は掠れた声で感謝しながら立ち去った。工房主は、2人を見送っていたのか、しばらくして門から入ってきた。
「孤独な人に見えた」
おっさんは、じみじみと呟き、どこか空を見つめる。
工房の職人は7人。彼らは入れ替わる。しかし、工房主は、鍍金匠を営み続けなければならない。それが戸籍──いや、この時代における「匠籍」に縛られ、逃げることもできず、その場所で鍍金匠を営み続けなければならない。
「2人が羨ましい」
ふと、おっさんはそんな言葉を口にする。
「2人で逃げようとしていました。私は1人だった。仲間がいたら、喜びは倍に、辛さは半分になる」
「リスクは倍以上」
間髪入れずにシビアな白露。彼女は続ける。
「注意力や緊張感がもちません。合図を送ったり会話をしたり、隠れ潜むのに向かない。もう1人が怪我をしたら足手纏いになる。もう1人が掴まったら、高確率で自分の存在がバレる」
おっさんは、静かに「そうですね」と目を伏せた。
香は、その横顔に、明で生きる異国人の圧倒的な孤独を感じたのだった。
そして、話はニセ金造りに戻る。
「なんて大胆なんだろ。もっと地方の聞いたことのない銀匠の刻印にしておけばいいのに」
白露は呆れていた。
「どっちみち、ニセ金造りには変わんないじゃん。どっちもバレたら極刑なんでしょ?」
香の言葉に、白露は頷く。
「そ。うーん。そうすると、銀作局のものが、まさかニセ物なんて疑わないから、案外、バレにくいのかも。下賜されたものだったら、すぐに使わないだろうし」
「捕まえるの? 泳がせるの?」
香は展開に少しわくわくし、白露に尋ねた。
「洛に聞こう。まず、王氏は人前で証言できない」
「誰?」
「私です」
おっさんの新しい名前は、王小虎。
「そうでした。覚えます」
「私は話せないということになっておりますので」
おっさんは、戸籍を手に入れた。とはいえ、非合法。表立って目立たない方がいい。
ところで。ニセ金造りは瓢箪から駒、もともとの調査は、天井の匠である親方と、乾清宮に忍び込んだ不審者との関係を探ること。おっさんは、そのことを弁えていた。
「引き続き、親方の動きを探ります」
それを白露が止める。
「かなり危険です。恐らく親方は連絡係程度の下っ端。鋳型や刻印はどこから来たのか。親方が話を鍍金匠に持っていってます。たぶん、どこかへ引き渡してる。もっと大物が絡んでると思います。そういうとこには、乾清宮へ来たような、殺しのプロがいます」
おっさんは無敵の人だった。
「はい。肝に銘じます。ただ、私は失うものもないのです。疑問を感じながら戦をしていた地獄から救われただけで、十分です」
そう言うと、いつの間にか宿舎にいたチンギスが、おっさんの膝に両前足をかけ、ぽとりと膝に豚の骨を置く。
──あの、食い意地のはったチンギスが!?
なんだか香は笑い出してしまった。
「あははは。きゃは。『そんなこと言わないで』って、チンギスが言ってますよ」
「くーん」
チンギスは甘えた声を出し、おっさんに顔を擦り付ける。おっさんは「ありがとう」と、床に腰を下ろして、チンギスをハグして豚の骨を咥えさせる。
白露は言う。
「失うものの中に、私達を入れてください。もちろんチンギスも」
おっさんは涙声になった。
「こんなに良くしていただいて、感謝します」
ぽわぽわとチンギスの毛が舞う宿舎の夜が更けて行った。
◇
きーんと底冷えのする静かな朝、宿舎の扉を開けるとうっすら雪が積もっていた。
香は、顔を洗うのをサボろうかと思った。
──ダメダメ。今日は墨竹が護衛の日。いつもは会えないけど、変なときに限ってばったり会っちゃうもの。
一瞬、会えるなら顔を洗わないのもいいかな、と血迷うも、洗った。




