おっさんは有能です
早朝は冷える。
宿舎からの道にある木々は、どれも紅葉が終わり散り始めている。香は首に巻いた布に顎を埋め、くるくる回って風に乗る葉を目で追っていた。その景色は、天安門から皇城へ入ると一変する。広場か道か分からない幅の通路に石畳と方塼が敷かれ、その空間には雑草すら生えていない。激務の官僚達の通勤する時間帯は過ぎており、香は、宮廷に向かう大工や職人達に混じる。
──この中に、天井を請け負った親方がいるかも。
周りを見渡しても、それは分からなかった。ガテン系の仕事にイカツイ漢は多い。
仕事中、洛が公印を受け取りに来た。
「やっぱあそこに落としたんだった」
本人は悪びれない。反省の色なし。見張りの宦官がいなければ、香は一言注意していただろう。
「狼に食べられそうになってたよ」
そう言ったら通じたので、墨竹や白露からチンギスのことを聞いているらしい。
「マジか。無事でよかった」
香は、なぜ、役所が保管しているはずのものを持っているのか尋ねたかったが、じーっと洛を見つめたまま、ぐっと堪えた。傍には見張りの宦官が控えている。
高貴な洛は、宦官を置物だと思っているのか、香の無言の「?」の訴えに答えた。
「ここに皇帝の所領があってさ。んで、そこの戸籍を改ざんした」
ぬけぬけと暴露する洛に、香の目がまん丸になる。
表向きには、国中の全ての土地が皇帝のもの。その多くから税が徴収され、それは国庫に入る。一方、国中の至る所に皇帝の私的な直轄所領がある。特別な私有地として免税されている。そこからの小作料は皇帝の財布である内庫に入る。
皇帝の所領がある地域の役所の公印を、実は皇帝も持っていて、いろいろできるようになっているらしい。
おっさんは、皇帝の所領の小作人の四男になった。田畑を継ぐのは一般的に長男である。それ以外が行商人などになるのはよくあること。
洛は、受け取った公印を、即、万暦帝に返しに行った。
──じゃあ、万暦帝はおっさんの存在を知ってる?!
それはなかなかすごいことだと、香は身震いした。
敵国とはなんぞや。
自分達の国と戦っている相手である。なぜ戦うのか。挑まれたから。
挑むと決めたのは下っ端敵兵ではない。確かに彼らは殺戮の実行犯である。しかし、巨大なものの中で抗うことができず、組織に組み込まれているだけ。
おっさんは敵国の兵である。しかし、単体では敵でない。
雲が流れる。冷たい北西の風に乗って。北京上空の雲は南東の日本の方へ流れていく。
同じ雲を見上げる日本人がいるかもしれない。雲が形を変えてもその上の空は繋がっている。同じような姿形の人々。きっと日本に、自分と同じように日々を送っている人もいるだろう。香はそんな思いを空に預けた。
◇
洛に王小虎という名を貰った翌日、おっさんは宿舎から姿を消した。刀も、昔の小汚いボロボロの服もない。香が宿舎に帰ったとき、履き清められた土間には箒の痕がついていた。
最初は、小汚いおっさんがダニやノミを持ち込みそうだと思った香だった。しかし、いなくなった空間にはダニどころか、人の匂いすらも残っていない。
いなくなって初めて、彼のおかげで宿舎が綺麗に保たれていたことを知る。
「なんか、獣臭い」
香がチンギスを見つめると、チンチスは首を傾げる。
「この、毛。毛。毛」
1日掃除をサボっただけで、ぽわぽわと毛の塊がそこらじゅうに溢れ、毛だらけになる。床はもちろんのこと、一緒に寝ているベッド付近も持ち物も服も。「犬を何頭飼ってますか?」というほどである。
話しかけられて喜び、チンギスは香に飛びついてくる。
「くーん」
「うわっ。毛!」
けれど。
「あったかーい」
ぎゅっと抱きしめると、初めて会ったときより確実に毛の奥はがっしりと大きくなっている。
木枯らしが吹き始め、北京には冬が訪れようとしていた。
白露と香が粥をすすっている夜だった。
おっさんは、チンギスと同じ出入り口から宿舎に入ってきた。
「そんなところから入らなくても」
香はぎょっとした。が、おっさんには当然のことだった。
「いえいえ。香殿は女子。私などと一緒に住んでいるなど世間様に申し訳ない」
──世間様に申し訳がない、って。変わった言い回し。
おっさんは、洛への報告を書いて欲しいと香に頼みに来たのだった。
おっさんは字を覚えている段階。まだ、文を書くことはできない。
「何から話せばいいのか。少々、驚きました」
その言葉に、香はわくわく。即、筆と紙を用意した。
「天井を請け負った匠の親方は、ニセ物の銀の塊を作っているとこと繋がってる」
「「はあああ?!」」
いきなり出てきたとんでも話に、香と白露は驚愕の声を上げる。
「香、書きなよ。もう、そのまんま」
「うん」
香は紙にその文を書いた。
白露は、どうやってそれが分かったのかを順を追って聞いていく。
おっさんは、匠の親方の家の近くに宿をとった。張り込みである。
親方は、朝から職人の宿舎へ赴いた。それは香が宿泊しているものと同じ造り。少し離れた場所に並んでいる、宮廷に工事をしにきた大工用の宿舎。そこで何人かと合流し、宮廷へ向かった。15時過ぎごろに宮廷から出てきた。そこで匠グループは解散となった。
その後、親方は家に帰り、しばらくすると出かけた。
酒楼だった。きれいなおねえさんがお酒を注いでくれる場所である。おっさんは、店の外で待った。
──そーゆーとこは、入らなきゃ。
香は、きっと黒い会話がされていただろうと推測した。
「待っていたら、親方が出てきた。で、親方は立派な身なりの人が*轎子や馬車に乗るとき、丁寧に頭を下げていた」
「接待だ」「接待じゃん」
職人は仕事をもらうために接待をする。一般的に、政府の役人を接待して顔を売り、仕事に繋げるのである。
高名な香の師匠は接待される側。職人なのでその辺のお食事処で済まされる。が、師匠は兄弟子達を引き連れていくので、向こうはそこそこの出費となる。兄弟子達は白露ほどではないが、よく食べ、よく飲む。
かさかさと音をさせ、おっさんは1枚の紙を広げた。
「そのときの立派な人達を、なんとか思い出して描いてみました」
「「……」」
絵がド下手だった。
──参考になんないよ。
しかし、白露は絵の中の1人を指差す。
「お坊さんがいる。それとも**辮髪?」
つるつる頭である。
「僧でした」
「じゃ、天井直す予定のお寺があるのかも」
香は、交泰殿の豪華絢爛な天井を思い出す。
──寄付やお布施、いっぱいもらってる寺なんだろーね。
僧は馬車だった模様。親方は家路についた。
おっさんは更に、別の日のことも淡々と報告する。
「宮廷から昼ごろ出てきて、永定門から河へ行った」
*轎子……椅子に覆いがついた形の輿
**辮髪……頭の一部の髪だけを残して三つ編みにした髪型




