牡丹亭に牡丹あらず
牡丹の背景に光が溢れる。のっぺりとした平面に細かくノミの跡を入れると、そこに落ちた光が細く乱反射する。
香にとっては、彫刻を施す木の部分だけでなく、周りの全てが風を作り上げる要素だった。
牡丹亭からは、きっと牡丹が見えていたに違いない。
──だけど、物語には、牡丹が出てこないんだよね。
出てくるのは梅の木である。
亭というのは、この国で東屋を指す。牡丹亭は、2人が夢の中で出会って恋をする東屋の名称。「牡丹亭」というからには、牡丹を眺めるための東屋だろう。しかし、2人で牡丹を眺める場面すらない。それでも、牡丹は花の王。優雅でエレガントで美しく、大人の深い恋情をイメージさせる。
──恋の病って、やっぱ牡丹だよね。たんぽぽとか野菊じゃ、病にまで至らない感じ。
香は、女友達と*昆曲のスターにきゃいきゃい騒いだり、恋バナを聞くのは楽しい。けれど、じゃ、誰?と聞かれると、同い歳くらいの男の子達はハナタレ小僧に見えたし、かといって兄弟子からはライバル視された。
──墨竹だったら、恋の病に不服なし!
なので、初めての恋の対象に喜び勇んでいる。
香は知らない。恋の病は落ちるもの。鼻息荒く挑んでも罹患できないということを。
◇
小さいおっさんに、身分証と路引(通行証)が与えられた。
洛が宿舎にやってきている。
──まさか、また泊まるの? 邪魔なんだけど。墨竹と距離を縮められないじゃん。
しかし、おっさんが今後安全に暮らせるようになるのなら、今回は大目に見るしかない。
「ありがとうございます」
小さいおっさんは、地面に平伏し、ますます小さくなった。
「そんな。立ってよ。お願いがあるからさ」
洛はおっさんの腕を引き上げて立たせる。
「はい」
おっさんは無条件で受け入れそうな返事をした。
そして洛は、なかなかとんでもないことを言う。
「身分証を用意したけど、同じ地方の出身者はきっといっぱいいる。言葉のイントネーションも怪しいから、口を利けないってことにした方がいい。相手が話しかけてこないと思うし」
「はい」
「行商人の身分証なんだ。それで、できれば、天井を請け負った匠グループのこと、探ってほしくて」
「はい」
これには香はムカついた。テーブルに両手をついて立ち上がる。
「ちょっと。弱みにつけ込んで、何頼んでんの? 人、死んでるんだよ?」
もっとも、墨竹が斬らなければ、死ななかったのだが。
香の剣幕に、洛は両手をパーにして、身を引き、小さな声で言い訳をする。
「宦官よりいーじゃん。調べたいのに、頼める人いなくてさ。墨竹と白露は皇帝陛下の護衛。オレには頼めない。それに、2人は人に紛れて密かに情報収集なんてできないじゃん」
確かに、墨竹と白露は人目を引きすぎる外見。
一方、おっさんは「宦官?!」と別のことで小さく青ざめている。
「天井を担当した匠グループを調べてみたんだよ。以前からメンバーは変わってない。だけど、オレには、その匠グループの親方が怪しく見えてどーしよーもなくて」
洛は、宦官に扮して、件の匠グループを観察した。親方は、いかにも一癖ありそうな厳しい男。
朝、宮廷の入り口でチェックをするとき、グループのメンバーの身分証をまとめて預かり、検問をする兵士に渡していた。十分にごまかせるやり方だった。
「まさか、人相が怖かっただけで怪しいって思ってる?」
香は洛に厳しい目を向ける。
「じゃなくても。釘のこと見つけたの、香じゃん」
子供のように言い合う2人の間に、墨竹が割入った。
「ちょい。冷静に。香、座って」
すとん
イケボで言われ、香は素直に言うことを聞いた。
その静かになった一瞬に、洛が言う。
「オレは、香に頼もうと思ってたんだよ。そしたら、墨竹がダメって」
──っ。私のことを大切に思ってくれてるの?
香は両手の指先を組んで墨竹をきらきらとした眼で見つめる。
墨竹は大きく頷いた。
「宮廷に入るなんて相手はプロ。香じゃ、逃げられる」
香は死んだ魚の目になった。そんな理由だった。
墨竹は続ける。
「この方の刀捌きは見事だと白露が言ってた。怪我を負ったのは、相手が大勢だったからじゃなくて、背中にいた女性を庇ってたから。強い。だったら適任。どっからどう見ても明の人の佇まい。祖国で斥候の経験もお有りだ」
それに洛が補足する。
「たった5年で、隣国と明の言葉を覚え、たった1人でここまで辿りつくなんて、並じゃない。心身共に屈強だよ」
おっさんは椅子から立ち上がり、拱手した。そこには、明の男として生きていく覚悟が見えた。
ところで、香は身分証や路引が発行されたことが気になる。
「洛って、そんな権力ないんじゃなかったの?」
素朴だが、辛辣な疑問。
「後宮って特別だから」
後宮は基本、入ったら出られない。しかし、出したい場合がある。大抵は亡き者にして出すのだが、生きたままのこともある。皇帝の許可を取るほどでもない人間の場合や、密かに行いたい場合、勝手に身分証を発行するという裏技があるのだった。
「別に、新しく身分証作んなくっても、その人らのはそのままでいーじゃん」
と香は質問。
「それするとさ、実は後宮から出られるってバレるし、後宮のことを聞き出そうとする輩が出てくる」
洛母子が冷遇されることになった際、侍女の人員整理をした。そのときに使われた。宦官も異動があったが、こちらは管轄外とのこと。
「ふーん」
「なるほど」
香とおっさんは納得した。
身分証のおっさんの名は、王小虎。どこにでもいそうな名だった。
「なんか、強そう」
ぱちぱちぱちぱち
香は手を叩く。
「かたじけない」
おっさんは、武人らしく礼を言う。
そして、驚くことに、おっさんはその瞬間から墨竹と香を質問攻めにした。行商人は何を売るのが自然か、どこで仕入れるのか、いくらで売るか。そして漢字。
「喋れないことにするなら、字を覚えます」
そこには「冥土の土産」と死の面影を背負っていた姿はない。
板など張っていない土が剥き出しになっている床に、おっさんはひたすら字を書いた。日本と共通の漢字も多く、覚えやすいとのこと。
その日、チンギスは来なかった。前回、洛が来たときもである。
──チンギス、あったかいから一緒に寝たいのに。
香は師匠の妻が作ってくれた綿入りの羽織を着て布団に潜る。暖かい。
──洛と墨竹、手ぇ繋いでんのかな。もやる。
翌朝、起きたとき、墨竹と洛はいなかった。
「くーん」
チンギスはいた。
「おはよ。チンギス、なに遊んでんの?」
チンギスは、何やら白い四角いものを転がしたり噛んだりしてジャレている。
──どーせ、洛の落とし物でしょ。
既にお約束。
「見ーせーて」
チンギスの前に手を出すと、チンギスは咥えていたものを香の掌の上にぽとっと置く。
それは南部の小さな役所の公印。おっさんの身分証明に使われているものと全く同じものだった。
*昆曲……音楽、歌、舞踊、劇が合わさった舞台




