93話
街道を吹き抜ける風が心地よい。
ここ数日、配管の詰まりや機械の故障といった「設備のトラブル」には一切遭遇していない。土と草の匂いを感じながらのんびりと街道を歩くこの時間は、四十代の身体に染み渡る最高のデトックスだった。
「……ふぅ。たまには設備屋の肩書きを忘れて、純粋にファンタジーな異世界旅行を満喫するのも悪くないな」
俺がそう呟くと、肩に乗っていたシロが首を傾げた。
『ピロロロッ。マスター、根っからの現場職人であるあなたが、インフラ整備を放置して旅を楽しむとは珍しいですね』
「おいおい、人聞きの悪いことを言うな。俺がこの世界に来た『本当の目的』を忘れたわけじゃないぞ」
俺は空を見上げた。
実は、俺をこの世界に送り込んだ『転生の女神』から、転生時に一つだけ頼まれていた裏クエスト(依頼)があるのだ。
――『この世界は今、文化の発展が著しく停滞しています。どうかあなたの持つ異世界の知識で、人々の生活に刺激を与え、世界の【文化レベル】を底上げしてくれませんか?』
設備の修理もその一環ではあったが、文化を根付かせ、発展させるために最も手っ取り早くて効果的なもの。それはいつの時代も、どの世界でも『食文化』だ。
俺は旅をしながら、異世界の食材を使って食の革命を起こし、各地に新しい『名物』を落としていくという壮大な裏ミッションを帯びていたのである(自己判断)。
数日後、俺たちは荒野と森の境界にある大きな宿場町『オーシ』へと到着していた。
冒険者ギルドの支部がある活気にあふれた町だが、ギルドに併設された酒場は、どこか殺伐とした空気が漂っていた。
「硬ぇっ! なんだこの肉、噛み切れねぇぞ!」
「文句言うな。この辺りで獲れる『硬岩豚』の肉は、焼くか煮るかしかできねぇんだ。嫌なら干し肉でも食ってろ」
どうやらこの町は、装甲のように硬い皮膚と筋肉を持つ魔物『硬岩豚』の産地らしい。俺たちもギルドで「硬岩豚の討伐依頼」をサクッとこなし、大量の肉を報酬として得たのだが……酒場の厨房を覗くと、料理人が硬岩豚の『スジ肉』や『硬い部位』を次々とゴミ箱に捨てているではないか。
「おい、あんた。その捨ててるスジ肉、全部俺に譲ってくれないか?」
俺が声をかけると、恰幅の良い酒場の親父が目を丸くした。
「あん? 旅の冒険者か。譲るのは構わねぇが、そんなスジ肉、硬すぎて石を食ってるようなもんだぞ? 腹壊しても知らねぇからな」
「構わない。……その代わり、この町の『新しい名物』の作り方を、あんたに伝授してやるよ」
俺は厨房の片隅を借り、インベントリから特大の寸胴鍋を取り出した。
食文化の革命、第一弾のスタートだ。
まずは、もらった大量の硬岩豚のスジ肉を、たっぷりの湯でサッと下茹でする。
「いいか親父さん、ここが一番重要だ。下茹でして浮いてきたアクや汚れは、一度お湯を全部捨てて、肉を水で綺麗に洗い流すんだ。これで獣特有の臭みが完全に消える」
「お、おう……ずいぶん手間をかけるんだな」
綺麗になったスジ肉を再び鍋に戻し、今度はたっぷりの水と、この町で採れる臭み消しの香草(ネギや生姜の代用品)を入れて、火にかける。
「親父さん、この鍋を弱い火で、三時間コトコト煮込み続けるんだ。絶対に沸騰させてボコボコ泡立てるなよ。肉が硬くなるからな」
数時間後。
スジ肉が串でスッと刺せるほど柔らかくなったところで、大きめに切った現地の大根とコンニャク芋の加工品を加える。
そして味付けだ。俺はあえて自分のインベントリの調味料は使わず、現地の市場で買ってきた『発酵した黒豆のペースト』と、甘みのある果実酒、そして塩を使って、甘辛く濃厚な煮汁を作った。
「よし、これでさらに一時間煮込んで、一度完全に冷ます。……料理ってのはな、冷める時に一番味が染み込むんだよ」
その日の夜。
ギルドの酒場に、これまでに嗅いだことのないような甘辛く、そして食欲を暴力的に刺激する濃厚な香りが漂い始めた。
「完成だ。特製『硬岩豚のトロトロすじ煮込み』だ!」
俺がカウンターに大鍋を置くと、親父も冒険者たちも、信じられないものを見るような目で鍋の中を覗き込んだ。
「ウソだろ……あの石みたいに硬かったスジ肉が、琥珀色に光って、プルプル震えてやがる……!」
親父が震える手で木のお椀にすじ煮込みをよそい、一口口に運ぶ。
「……っっっ!! な、なんじゃこりゃあぁぁっ!」
親父が目を見開き、大声で叫んだ。
「噛む必要がねぇ! 舌の上で肉がトロッと溶けて、スジのゼラチン質から濃厚な旨味と甘みが爆発しやがる! 捨ててた部位が、こんな極上のごちそうに化けるなんて……!」
『ニャアアアッ! 甘辛い味噌風のタレが、中まで完璧に染み込んでるニャ!』
クロが小鉢に顔を突っ込み、ハフハフと熱がりながらスジ肉を飲み込む。
『ニャムッ……! 大根みたいな野菜も、肉の旨味を全部吸い込んでホロホロだニャ! 飯を持て! 白飯を丼で持ってくるニャ!』
『ピロロロッ! 素晴らしい技術です! 不要とされていた部位のコラーゲンを、長時間の低温加熱によって見事なゼラチンへと変化させました! まさに食材への魔法ですね!』
酒場にいた他の冒険者たちも我先にと群がり、一口食べるなり全員が「美味ぇっ!」「エールのおかわり!」と歓声を上げて大熱狂し始めた。
俺も、七味代わりの香辛料をパラリと振りかけ、プルプルのスジ肉を頬張る。
「……うんまァァァッ!」
現地の調味料だけでも、やり方次第でここまで味が深くなる。発酵調味料のコクと、肉の旨味の相乗効果。これぞ日本の居酒屋文化が生み出した至高の煮込みだ。
「……旅のあんた、いや、師匠! このレシピ、本当に俺がもらっていいのか!?」
親父が興奮冷めやらぬ様子で俺に詰め寄ってくる。
「ああ。この『すじ煮込み』を、オーシの町の新しい名物にしてくれ。捨ててたスジ肉を使えば原価もタダ同然だろ? 冒険者たちの胃袋をガッチリ掴んでやれ」
俺は空になったお椀を置き、ニヤリと笑った。
「次に俺がこの町を訪れる時、あんたがこの煮込みをどんな風に『アレンジ』して進化させているか……楽しみにしてるぜ」
「おうっ! 任せとけ! ギルドの看板メニューにして、世界中に轟かせてやるぜ!」
かくして、設備屋の道具を一旦封印し、純粋な『冒険者』としての一歩を踏み出した俺たち。
神様からの裏依頼である「食文化の底上げ」は、大熱狂する酒場の冒険者たちの笑顔と共に、最高のスタートを切るのだった。
【第93話:完】
収穫: 冒険者ギルドでの初報酬、酒場の親父との絆。
知識更新: 硬いスジ肉も、弱火でじっくり煮込めば極上のトロトロ食感に化ける。料理は冷める時に味が染み込む。
現在の気分: 自分が伝授したレシピが、現地の人間の手でどう育っていくのか。これこそが、旅の最大の醍醐味かもしれない。




