8話
街道を外れ、獣道をしばらく進むと、風を遮るのに丁度いい岩場を見つけた。
中央には、苔むし、半分崩れかけた古い石像がポツンと立っている。元は人間の形をしていたようだが、風化が激しく顔はのっぺらぼうだ。
基礎知識を起動して視線を向ける。
【名称:欠けたる封印の石像】
詳細: 古代に作られた封印機構。長年の風化により術式は弱体化している。周囲の地盤は安定している。
「封印の石像ね……。まぁ、弱っているだけで封印が解けていないならただの石像だな。今夜の野営地はここにしよう」
俺は空間魔法から『ドーム型テント』と『焚き火台』を取り出し、手際よく設営した。
陽が落ちると、森の気温は一気に下がる。俺は拾い集めた薪に火をつけ、インベントリから今日の「晩酌の対価」となる魔石を取り出した。
(対価はゴブリンの魔石二つ。呼び出すのは……『真ホッケの干物』と、『純米酒』。それから『熱燗用のちろり』だ)
青白い光とともに、笹の葉に乗った肉厚なホッケと、渋いラベルの日本酒が現れる。
俺は焚き火台に網を乗せ、ホッケを炙り始めた。
皮に火が通り、ジュワジュワと脂が滲み出してくる。醤油を数滴垂らすと、暴力的なまでに香ばしい匂いが弾け、静かな森に広がっていった。
同時に、焚き火の端でちろりに入れた日本酒を湯煎する。
「……完璧だ。この匂いだけで一杯いける」
熱燗を猪口に注ぎ、口に運ぼうとしたその時だった。
「……ニャー」
背後から、細く高い鳴き声が聞こえた。
振り返ると、あの崩れかけた石像の陰から、一匹の黒猫がこちらを見つめていた。
夜闇に溶け込むような漆黒の毛並み。黄金色の双眸が、焚き火の光を反射してビー玉のように輝いている。
「おや、こんな森の奥に猫かい? どうしたの? 猫ちゃん。お腹が空いているのか?」
俺は何気なく、そしてかつて近所の野良猫を可愛がっていた時と同じような、優しいおじさんの声色で語りかけた。
すると、俺の脳内に常駐している『全世界翻訳』のスキルが、ピタリと焦点を合わせる感覚があった。
亜人や現地人相手に発動するソレが、まさか動物に対しても有効だとは。
『ふん。気安く声をかけるでない、人間。我は高貴なる……クンクン。それにしても、なんという良い匂いだ! 早くその魚を一口寄越すがよい!』
頭の中に直接響いてきたのは、妙に尊大で偉そうで、それでいてどこか気の抜けたような「若い女性」の声だった。
「……翻訳魔法って、猫語もわかるのか」
『ただの猫と一緒にされたくはないな! 早くしろ、腹が減って力が出んのだ!』
「はいはい、わかったよ。でも、猫に塩分は・・・」
『ただの猫と一緒にするなと申しておる! 』
俺はホッケの身の、骨がない脂の乗った部分を箸でほぐし、平らな石の上に乗せてやった。火傷しないよう少し冷ましてから差し出すと、黒猫は目の色を変えてガツガツと食いついた。
『ハグッ、うま……! なんという脂の乗り、そしてこの塩気! 人間、貴様ただの旅人ではあるまい! 王宮の料理人か何かか!?』
「俺はミツトメ。しがないおっさん、いや、ただの旅人さ。お前はなんでこんな所にいるんだ?」
俺が熱燗を啜りながら尋ねると、黒猫は器用に顔を洗いながら、自慢げにふんぞり返った。
『我か? 我はかつて、自由気ままに過ごしていた神だったのだ!』
「……ほう、神様が。それがなぜ猫に?」
『チッ。神界の偉いジジイが、「汝、神のくせに怠惰すぎる! 罰として悪魔に堕とす!」などとほざきおってな。我を神の座から追放し、悪魔の姿に変えよったのだ』
神様なのにニート生活を満喫していたら、上司の怒りを買って左遷された、というところか。現場の者としては、その偉い神様の苦労が偲ばれる。
『だがな、我としてはあの小うるさいジジイの説教から解放されたのだから、万々歳だったわけだ! 悪魔になってからも、下界で毎日昼寝をして、自由気ままに暮らしておったのだ!』
「……それは良かったな。で、なんで石像の裏から出てきたんだ?」
『人間どものせいだ! 我はただ昼寝をしているだけなのに、「恐ろしい悪魔がいる!」「世界が滅びる!」と勝手に恐れおってな。束になってかかってきて、我をあの石像に封じ込めよったのだ!』
黒猫は尻尾をバンバンと地面に叩きつけて怒りを露にした。
『我はただ、寝ていただけなのに! ひどいと思わんか、ミツトメ!』
「そりゃあ災難だったな」
『うむ! しかし、長い年月で石像が風化し、封印に綻びが出たのだ。今の我は本来の力の1パーセントも出せず、こうして黒猫の姿で顕現するのがやっとだがな。……おい、ミツトメ。魚のおかわりを要求する』
俺は苦笑しながら、ホッケの半身をほぐして追加してやった。
社会のしがらみに疲れてスローライフを求める四十五歳のおっさんと、怠惰を極めて封印された元神様の悪魔。
なんだか、妙なシンパシーを感じてしまう。
「しかし、お前がその石像から出られるようになったってことは、これからどうするんだ? またどこかで昼寝の場所を探すのか?」
『む……そうだな。力の大部分はまだあの石像に縛られているゆえ、あまり遠くへは行けんと思っていたのだが……』
黒猫は黄金色の目で、俺を、正確には俺の魔法で取り出された見慣れぬキャンプ道具や酒瓶をジッと見つめた。
『ミツトメとやら。汝のその不思議な力、そしてこの極上の魚。なかなか気に入ったぞ。どうだ、我の本来の封印を完全に解く方法を探しつつ、我に美味い飯を貢ぐという名誉を与えてやろう!』
要するに、美味い飯が食えるから一緒に連れて行け、ということらしい。
俺は基礎知識に視線を向けた。
【名称:封印されし悪魔(黒猫の姿)】
状態: 封印不完全(力の大半を喪失中)
危険度: 極小(ただし食欲は旺盛)
効率: 餌付けによる懐柔は極めて容易。
メモ: 偉そうだが、魚をやれば大人しい。一人旅の良い話し相手になりそうだ。
「……まあ、いいさ。一人で飯を食うのも好きだが、たまには話し相手がいるのも悪くない。ただ、俺の旅はのんびり素材を集めるだけの地味なものだぞ。世界征服とか、復讐とか、そういう面倒なのはパスだ」
『フハハハ! 安心せい! 我も面倒事は大嫌いだ。日当たりの良い場所での昼寝と、美味い飯があればそれで良い!』
「それなら気が合いそうだ。よろしくな、ええと……名前はなんて呼べばいい?」
『封印されて久しいゆえ、元の名などとうに忘れたわ! 汝が好きに呼ぶが良い』
「そうか。じゃあ……黒いから『クロ』でどうだ」
『安直すぎるわ! まぁよい、ミツトメがそう呼ぶなら、今日から我がクロだ!』
クロは満足そうに喉をゴロゴロと鳴らし、俺の足元に擦り寄ってきた。
異世界に来て初めてできた「相棒」は、かつて神であり、悪魔であり、そして何より俺と同じくらい「自由と怠惰」を愛する黒猫だった。
俺はクロの頭を撫でながら、残った熱燗を煽る。
星空の下、焚き火の爆ぜる音に、微かな猫の寝息が混ざり始めた。
この先、どんなトラブルが起きようとも、美味い飯と酒、そしてこの気ままな相棒がいれば、きっと悪い旅にはならないだろう。
【第8話:完】
収穫: ホッケの干物の美味さ、旅の相棒(黒猫のクロ)。
知識更新: 全世界翻訳は動物(元神様)にも有効。
現在の気分: 賑やかになった野営も悪くない。




