7話
街を離れ、西へ続く街道を歩き始めて三日が過ぎた。
「おい、ミツトメさん! この先は村まで距離があるぞ。荷馬車に乗っていくかい?」
すれ違った行商人が声をかけてくれた。何度かギルドで顔を合わせた男だ。
「いや、俺は自分の足で歩くよ。ありがとう」
身体強化のおかげで、一日中歩いても足腰の疲労は心地よい程度で収まる。
ただ、この先にある小さな村の宿場は、あまり評判が良くない。ギルドの噂では「壁が薄くて隣のいびきが丸聞こえ」「ノミがいる」と散々だった。
四十五歳にもなって、金銭的な理由以外で劣悪な環境で眠る趣味はない。
「そろそろ、俺の空間魔法も育ってきた頃合いだな」
街道から少し外れ、見晴らしが良く、風を避けられる岩陰の平地を見つけた。
基礎知識を開き、ステータスを確認する。
【空間魔法:Lv.2】
容量: 四畳半程度の空間。
詳細: レベルアップにより、収納時の魔力消費量が軽減。内部の時間は極めて緩やかに流れる。
「よし。これなら大物を出しっぱなしにせず、持ち歩ける」
俺はインベントリの奥底に眠らせていた、いくつかの中級魔石を取り出した。ボアやゴブリン上位種から得た、俺の貴重な資産だ。これを対価として捧げ、大規模な召喚魔法を発動する。
(呼び出すのは……『一人用ドームテント』、『冬用シュラフ』、そして『折りたたみ式焚き火台』と『LEDランタン』だ)
青白い光が収まると、岩陰の平地に現代日本の最新キャンプギアが一式揃った。
異世界の不便な宿屋に泊まるくらいなら、自分で極上の野営地を作ればいい。誰にも気を遣わず、ノミの心配もない。これぞ大人のソロキャンプだ。
テントを手際よく設営し、その中にふかふかのシュラフを広げる。光源には火を使わないLEDランタンを吊るした。魔石を使うランプと違い、現代のバッテリー式ランタンなら一酸化炭素中毒も火災リスクもゼロだ。
次に、外で焚き火台を組み立てる。
前職で消防設備士、危険物取扱者の資格を持っていた俺は、火の扱いには人一倍厳しい。周囲の枯れ葉や燃えやすいものを完全に掃き清め、風向きを計算してテントに火の粉が飛ばない位置に焚き火台を設置する。さらに、万が一に備えてインベントリから水を入れたバケツも用意しておいた。
「完璧な安全基準だ。さて、今夜の夕食といくか」
焚き火台に拾い集めた薪をくべ、火を起こす。
今夜の主役は、数日前に狩ったフォレストボアの肉だ。空間魔法の中で鮮度が保たれていた『肩ロースのブロック肉』を取り出す。適度に脂が乗っており、煮込み料理には最適な部位だ。
俺は追加で『鋳鉄製のダッチオーブン』と、『醤油』、『砂糖』、『ネギ』を召喚した。
目指すは、男のロマン溢れる無骨な「煮豚」だ。
ダッチオーブンを焚き火にかけ、まずはボアの肩ロースブロックの表面にしっかりと焼き色をつける。ジュワァァッという派手な音とともに、脂の焦げる暴力的な香りが周囲に漂う。
肉の全面が焼けたら一度取り出し、鍋に醤油、砂糖、水、そして異世界で採取した生姜に似た香草を放り込む。そこに肉を戻し、重い鉄のフタを閉めた。
あとは、焚き火の火力を調整しながらじっくりと煮込むだけだ。
ダッチオーブンは気密性が高く、分厚い鉄が熱を均等に伝える。魔力を使った魔法鍋などなくても、物理法則に基づいたこの鉄の塊があれば、硬いボアの肉でも驚くほどホロホロに仕上がるのだ。
【名称:調理中のボア煮豚】
状態: 圧力と均等な熱により、肉の筋繊維が崩壊中。
完成予測: あと四十分。
アーカイブの便利なタイマー機能を見ながら、俺は折りたたみのローチェアに深く腰掛けた。
パチッ、パチッ……と薪が爆ぜる音だけが、静かな夜の森に響く。
見上げれば、元の世界では絶対に見られないような、プラネタリウム顔負けの満天の星空が広がっていた。
「……あぁ、静かだ」
携帯の着信音も、上司の怒声も、電車の騒音もない。
あるのは、鍋から漂ってくる甘辛い醤油の匂いと、焚き火の温もりだけ。
四十分後。
フタを開けると、煮汁が照り輝き、琥珀色に染まった巨大な煮豚が姿を現した。
ナイフを入れると、力を入れずともスッと肉が切れる。断面からは美しい湯気が立ち上った。
俺はインベントリから、冷やしておいた『ハイボール』のロング缶を取り出した。
プシュッ。
炭酸の弾ける音を合図に、分厚く切った煮豚を頬張る。
「……っ!」
口の中で、肉の旨味と脂の甘さが爆発した。甘辛い醤油ダレが中までしっかりと染み込んでおり、香草がボア特有の臭みを見事に消し去っている。噛むほどに溶けていく肉の繊維。
すかさず、キンキンに冷えたハイボールを喉に流し込む。
シュワッとした炭酸とウイスキーの香りが、口の中の脂を綺麗に洗い流し、次の一口への強烈な渇望を引き起こす。
「最高だ……。効率よく素材を集め、効率よく贅沢をする。これ以上の幸せがあるか」
一人で肉を食らい、酒を飲む。
傍らには、完璧に整備された現代のキャンプギア。
もしギルドの連中がこの光景を見たら、「魔法の無駄遣い」と呆れるかもしれない。だが、俺にとって魔法とは、魔王を倒すための力ではなく、この圧倒的な「快適さ」と「自由」を維持するための道具に過ぎないのだ。
星空の下、俺だけの特別な野営の夜は更けていく。
明日はどのルートを通って、どんな未知の素材に出会えるだろうか。俺の基礎知識を埋める旅は、どこまでも気ままで、どこまでも自由だった。




