76話
前夜、大灯台の塩害トラブルを解決し、絶品の海鮮アヒージョと白ワインで港町ポルトの夜を満喫した俺。
翌朝、心地よい潮騒の音で目覚めた俺は、宣言通り『朝の部』の調理に取り掛かっていた。
「昨日のアヒージョの残りオイル。エビやホタテの濃厚な出汁と、ニンニクの香りが極限まで溶け出したこいつを、ただ捨てるなんてのは三流のやることだ」
俺はインベントリから乾燥パスタを取り出し、塩茹でにする。
その間に、昨日のオイルが入ったフライパンを弱火で温め直し、茹で汁をお玉一杯分だけ加えた。フライパンを細かく揺すり、油と水分を強制的に混ぜ合わせる『乳化』の作業だ。
透き通っていたオイルが、白濁してトロリとしたソースに変わる。
そこに、少し硬めに茹で上げたパスタを投入し、一気にソースと絡め合わせた。
「完成だ。特製『極旨・海鮮出汁のペペロンチーノ』!」
『ニャアア! 朝からニンニクのいい匂いニャ!』
『ピロロロッ! 具材が何もないのに、パスタが黄金色に輝いています!』
フォークで巻き取り、一口啜る。
「……っっっ!! うんまァァァッ!」
具は入っていない。ただのオイルと麺だ。だが、昨日の海鮮の旨味がオイルの一滴一滴にまで凝縮されており、パスタを噛むたびに口の中で暴力的な美味さが爆発する。乳化したソースが麺にねっとりと絡みつき、最後の一口まで完璧な味わいだった。
最高の朝食で腹ごしらえを済ませた俺たちは、活気あふれる巨大な魚市場へと足を運んだ。
だが、市場の中央にある『荷捌き場』で、漁師たちと若い魔法技師が何やら揉めているのに出くわした。
「おい! 海水を汲み上げる魔導ポンプが全然水を出さねぇぞ! 魚が洗えなくて傷んじまう!」
「おかしいな……魔石の残量は満タンだし、モーターも回っているのに……」
ガラガラガラガラッ!!
ポンプからは、金属が激しくぶつかり合うような、耳障りで不快な異音が鳴り響いていた。
四十代の元・設備管理者である俺は、その音を聞いた瞬間に顔をしかめた。
「おい、今すぐポンプの魔力源を切れ!!」
俺の怒鳴り声に驚いた技師が、慌ててスイッチを切る。
「ど、どうしたんだアンタ……?」
「あのガラガラ音は、ポンプが水を吸えずに空気だけを回している『空引き』の音だ。そのまま回し続けたら、内部のパッキンが焼き付いて一発でパーになるぞ」
俺はポンプに近づき、海へと伸びている『吸い込み側』の太い配管を手でなぞった。
「水が出ない時、素人は吐き出し口ばかりを見る。だが、ポンプのトラブルの八割は『吸い込み側』にあるんだ」
配管の継ぎ目を調べると、案の定、潮風と経年劣化でボロボロになったゴムパッキンの隙間から「シューッ」と微かな空気を吸う音が聞こえた。
「ここだ。配管の継ぎ目から空気を吸い込んじまってる。ストローに穴が空いてたら、いくら強く吸ってもジュースは飲めないだろ? それと同じだ」
俺はインベントリから工具と新しい耐水性のパッキンを取り出し、手早く継ぎ目を分解して交換した。
「よし、配管の穴は塞いだ。だが、配管の中に空気が入った状態じゃ、まだ水は上がってこない。こういう時は……」
俺はバケツに海水を汲み、ポンプの上部にある小さなボルトを外して、そこに水をなみなみと注ぎ込んだ。
「『呼び水』だ。ポンプの中に水を満たしてやることで、中の空気を押し出し、真空を作る手助けをするんだよ」
ボルトを締め直し、俺は技師に合図を送った。
「スイッチを入れろ」
技師がレバーを引くと、先ほどのガラガラという異音は消え、低く力強い「ブゥゥゥン」というモーター音に変わった。
その数秒後。
ザバァァァァァァッ!!
吐き出し口から、勢いよく清らかな海水が噴き出した。
「おおおおっ!! 出た! 水が出たぞ!」
「あんた、魔法も使わずに一瞬で直しちまったのか!? すげぇ腕だ!」
市場のインフラを守った俺は、歓喜する市場長から「お礼に、今日一番の脂の乗った『幻のトロサバ』を持っていってくれ!」と、丸々と太った巨大なサバを数匹押し付けられた。
「さて、極上のサバが手に入った。昼飯は少し手間をかけるか」
市場の片隅にある休憩スペースを借りた俺は、インベントリから大切に育てている『巨大な壺』を取り出した。
パカッ。
俺が壺の蓋を開けた瞬間。
「……ウッ!? クサッ!?」
近くを通りかかった商人が、鼻をつまんで顔をしかめた。
『ニャアアッ!? ミツトメ、なんだその壺は! 何か腐ってる匂いがするニャ! 早く捨てるニャ!』
クロまで毛を逆立てて抗議の声を上げる。
「失礼な。腐ってるんじゃない、『発酵』してるんだよ。俺の自慢の『ぬか床』だぞ」
四十代のおっさんにとって、毎日手でかき混ぜて愛情を注いだぬか床は、もはやペットのようなものだ。匂いで抗議されるのは少し悲しいが、これが美味さの秘訣なのだ。
俺はさばいたトロサバの切り身に塩を振り、ガーゼで包んでから、このぬか床の奥深くへと沈め、しっかりと表面を平らにならした。
「よし。本当は一晩漬けたいところだが、浅漬けでも十分美味い」
インベントリの『時間操作』を少しだけ活用し、数時間分の漬け込みを完了させる。
ぬか床から取り出したサバは、表面の水分が程よく抜け、身がキュッと締まっていた。
俺は表面についたぬかを水でサッと洗い流し、カセットコンロの上に網を置いて、じっくりと炭火の遠赤外線で焼き上げ始めた。
ジジジジッ……ジュワァァァッ!
サバの極上の脂が落ちて煙が立ち昇る。
その瞬間、先ほどまで「クサい」と抗議されていたぬかの匂いが、熱(メイラード反応)によって、鼻腔を狂わせるような『暴力的なまでに香ばしい旨味の匂い』へと劇的に変化した。
「……な、なんだこの匂いは……っ!」
先ほど鼻をつまんでいた商人が、フラフラと網の前に引き寄せられてくる。
『ニャ……ニャンだこれ! さっきの腐った匂いが、信じられないくらい美味そうな香りに化けたニャ! 涎が止まらないニャ!』
「だろ? 発酵の力を舐めるなよ」
表面がパリッとキツネ色に焼き上がり、中から脂がフツフツと湧き出している完璧な焼き加減。
「完成だ。特製『トロサバのぬか漬け焼き』と、炊きたての白飯だ!」
俺は熱々のサバの身を箸でほぐし、白飯の上にドンッと乗せて口に掻き込んだ。
「……っっっ!! うんまァァァァッ!」
サバの強烈な脂の甘み。そして、ぬか床の乳酸菌とアミノ酸がもたらす、奥深く複雑な旨味と微かな酸味。それが醤油も何もいらないほどの完璧な塩梅を生み出し、白飯を無限に消費させる。
「くぅぅっ……! 魚の生臭さが完全に消えて、旨味だけが濃縮されてる! ぬか漬け焼き、最高だ!」
【ナビ:マスター。ポンプの空引き対策、および『呼び水』による流体確保、見事な手際でした。発酵食品による腸内環境の改善効果も確認されています】
現場の基本である「呼び水」で市場の危機を救い、昼は自慢のぬか床がもたらす至高の発酵焼き魚に舌鼓を打つ。
四十代の元・設備管理者は、周囲からの羨望の眼差しと匂いへの驚きを背に受けながら、異世界の港町で最高のランチタイムを満喫するのだった。
【第76話:完】
収穫: 幻のトロサバ、市場からの信頼。
知識更新: ポンプが水を吸わない時は、入口のパッキンと呼び水を確認せよ。そして、焼いたぬか漬けの匂いは世界を救う。
現在の気分: ぬか床の手入れは毎日の日課だ。文句を言われても絶対にやめない。




