68話
翌朝。太陽が昇る前、冷え込んだ岩山の谷間に、南の海から運ばれてきた濃密な『霧』が流れ込んできた。
視界が真っ白に染まる中、俺は腕を組んで、斜面に設置した巨大な『霧取りネット』を見上げていた。
ポツッ……ポツン……ツーッ……。
極細の網目にぶつかった微小な霧の粒子が、互いにくっつき合って水滴となり、重力に従って網を滑り落ちていく。それが下部に設置した雨樋に集まり、仮設の巨大な貯水タンクへと流れ込んでいた。
チョロチョロという細い音は、時間が経つにつれて「ザァァァァッ」という力強い水音へと変わっていく。
「……計算通りだ。完璧な結露と回収サイクルができてる」
【ナビ:貯水タンク内の水位データを計測。現在のペースであれば、日の出までに村人全員が一週間生活するのに十分な『約300リットル』の純水が確保できる計算です】
やがて夜が明け、霧が晴れ始めた頃。
水音で目を覚ました村の子供たちと老人たちが、広場のタンクの前に集まってきた。
「み、水だ……! 澄み切った、綺麗な水がこんなに大量に!」
昨日俺を襲ったリーダー格の少年が、震える手でタンクの蛇口を捻る。
勢いよく飛び出した水を両手で受け止め、恐る恐る口に運んだ。
「……あ、甘いっ! しょっぱくない! 海の水じゃないぞ!」
「おおおお……! まるで神の奇跡じゃ! 旅のお方、あなたいったいどんな魔法を……っ!」
長老が涙を流して地面に伏せようとするのを、俺は慌てて引き上げた。
「だから、魔法じゃない。自然の風と気温差を利用しただけの『設備』だ。網に穴が開かないよう、定期的にお前たちで補修するんだぞ」
水を手に入れた村人たちは、狂喜乱舞して喉を潤し、互いの顔に水をかけ合って笑い合っていた。
「さて、水が確保できたら次は『飯』だな」
俺はカセットコンロを展開し、インベントリから鍋を取り出した。
昨日、子供たちは「三日も水と泥しか口にしていない」と言っていた。子供たちが三日ならじい様、ばあ様たちはもっと食べてないだろう。そんな極限状態の飢餓の胃袋に、いきなり肉や油っこいものを叩き込めば、胃腸がショックを起こして最悪死に至る(リフィーディング症候群だ)。
四十代の大人として、そこはしっかりと管理してやらなければならない。
「こういう時は、水分たっぷりで消化にいい『雑炊』に限る」
俺は貯水タンクから汲みたての新鮮な水を鍋で沸かし、昆布と鰹の合わせ出汁をたっぷりと効かせた。そこに、一度水洗いしてぬめりを取った白飯を入れ、弱火でコトコトと煮込む。
味付けは、薄口醤油とほんの少しの塩だけ。
飯がふっくらと出汁を吸い込んだところで、細かく刻んだネギを散らし、最後に溶き卵を細く円を描くように回し入れた。
フワァァァァッ……。
出汁の優しい香りと、卵の甘い匂いが広場に漂う。
「できたぞ。特製『出汁香るフワフワ卵雑炊』だ。熱いから、ゆっくり噛んで食えよ」
木のお椀に分けられた雑炊を受け取った子供たちと老人たちは、最初は戸惑っていたが、一口食べた瞬間に目を見開いた。
「……おいしい。お腹の中が、じわぁって温かくなる……」
「出汁というものが、こんなにも五臓六腑に染み渡るとは……! 噛まなくても、卵と汁が喉の奥に滑り込んでいきます……っ!」
『ニャア……今日のミツトメの飯は、なんだかすごく優しい匂いがするニャ。我も少しもらうぞ』
『ピロロロッ。弱り切った彼らの内臓を労る、完璧な栄養管理ですね。マスターの優しさが溶け込んでいます』
神様二柱も、空気を読んで静かに雑炊を啄んでいる。
「うっ、うぅぅ……っ」
リーダー格の少年が、雑炊を食べながら大粒の涙をこぼしていた。
「おいしい……。こんなおいしいご飯、父ちゃんと母ちゃんにも食べさせてやりたい……っ」
その言葉に、周りの子供たちも次々と泣き出してしまう。
水が飲めて、腹が満たされたことで、張り詰めていた子供たちの糸が切れ、本来の「親を恋しがる子供の顔」に戻ってしまったのだ。
俺は雑炊をすすりながら、遠く北の空――水脈を堰き止めているという勢力の方向を睨みつけた。
(……応急処置は終わったが、根本的な『元栓』が閉ざされたままじゃ、この村に本当の平和は来ないか)
設備屋の基本は、対症療法ではなく「根本原因の解決」だ。
川を不法に堰き止め、権力闘争に明け暮れて現場の弱者を苦しめる連中。
「……なぁ、じいさん。その川を堰き止めている北部の連中の拠点は、どこにある?」
俺が静かな声で尋ねると、長老はハッとして顔を上げた。
「旅のお方!? まさか、北部軍の砦に向かうおつもりですか!? あそこには数百の兵士と、強力な魔導兵器が……!」
俺は空になったお椀を置き、立ち上がった。
「インフラを私物化して、子供から親を奪うようなクズの管理者は、俺が一番嫌いな人種でね。ちょっとばかり『定期監査』に行って、元栓をぶっ壊してくるよ」
四十代の元・設備管理者の背中に、静かな、しかし圧倒的な怒りの炎が宿る。
「シロ、上空から北の川の上流に向かって偵察だ。クロ、少し暴れるから準備運動しとけ」
『ピロロロッ! 了解しました! 雷霆の裁きを下す時ですね!』
『ニャハハ! 待ってたニャ! ミツトメの飯を邪魔する奴らは、全員闇に沈めてやるニャ!』
動力を必要としない『霧取りネット』で村の命脈を繋いだ俺たちは、この歪んだ小国群の「根本的なバグ」を物理的に修正するため、北部の水源砦へと歩みを進めるのだった。
【第68話:完】
収穫: 霧取りネットの稼働成功、村人たちの笑顔。
知識更新: 飢餓状態の胃袋には、肉よりも出汁の利いた卵雑炊が一番の特効薬である。
現在の気分: 水道管を私物化する奴は、設備屋として絶対に許さない。




