60話
翌朝。東の空が白み始めた頃、ユノセの街の裏手から一筋の白い閃光が空へ向けて撃ち出された。
『ピロロロッ! マスター、レオン殿! お任せを。雷霆の羽で、領都の辺境伯様の元へ直行します!』
「頼んだぞ、シロ。気をつけろよ」
証拠品の起爆筒と、レオンが記した告発状を小さな鞄に入れて首に下げたシロは、文字通り「雷の速さ」で空の彼方へと消えていった。
「……すげぇな。あれなら本当に、昼前には軍を連れて戻ってきそうだ」
空を見上げるレオンに、俺は軽く頷いた。
「ああ。俺たちの仕事は、それまでこの街が『爆発』しないように持ち堪えさせることだ」
俺たちが危惧していた通り、事態は朝から最悪の方向へ転がり始めていた。
「いいか! 本日より、街での個人間の食料売買を禁止する! 食料はすべて商業ギルドの特設テントから、規定の価格で買うように!」
広場に立った代官の兵士たちが、拡声の魔道具で理不尽な布告を行っていた。
規定の価格とは名ばかりの、相場の十倍にもなる超ぼったくり価格だ。土砂崩れで何日も足止めされ、資金が底をつきかけていた旅人や商人たちの怒りは、ついに限界を超えようとしていた。
「ふざけるな! 水一杯に銀貨を払えっていうのか!」
「もう我慢ならねぇ! ギルドのテントをぶっ壊せ!」
血気盛んな傭兵や商人たちが武器や棒を手に取り、広場は今にも暴動が起きそうな一触即発の空気に包まれた。
「マズいぞ」
レオンが険しい顔で剣の柄に手をかける。
「あそこで暴動が起きれば、代官の兵士たちに『反乱分子の鎮圧』という口実を与えてしまう。罪のない旅人たちまで斬られるぞ」
「……腹が減って、将来に不安があるから人間は怒るんだ。こういう時は、物理的に胃袋を満たして脳みそを麻痺させるに限る」
俺は広場の片隅で淡々と炊き出しの用意をする。
「空間魔法 大鍋」
インベントリにストックしていた豚肉、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモを大量に放り込み、水を入れて強火で一気に煮立てた。
「さて、ここからが劇薬だ」
(呼び出すのは……日本の国民食、市販の『カレールー(辛口&中辛のブレンド)』だ!)
沸騰した大鍋の火を止め、大量のカレールーを割り入れる。
ルーが溶け出し、再び弱火で煮込み始めた瞬間。
フワァァァァァァァッ……!!
スパイスの暴力的なまでの強烈な香りが、広場どころか温泉街全体に爆発的に広がった。
「なっ……!? なんだこの、鼻の奥を直接ぶん殴ってくるような匂いは!」
「唾液が……唾液が止まらねぇ……っ!」
怒り狂って武器を掲げていた傭兵たちも、威圧していた兵士たちでさえ、一斉に武器を下ろして鼻をヒクヒクさせ始めた。カレーの匂いには、人間の理性を吹き飛ばし、本能を完全に支配する魔力があるのだ。
「お前ら! 暴れる前に、まずは飯だ! 腹が減っては戦はできん。俺の奢りだ、全員一列に並べ!!」
俺が木杓子で大鍋を叩きながら叫ぶと、怒りに支配されていた群衆は、まるで魔法にかけられたように大人しく列を作り始めた。
炊きたての白飯に、トロトロに煮込まれた熱々のカレーをたっぷりとかけて渡していく。
「……ッッ!! う、うめぇぇぇっ! なんだこれ、辛いのに甘い! 旨味が塊になって喉を通り過ぎていく!」
「飯が止まらねぇ! おかわり! おかわり頼む!」
暴動寸前だった広場は、一瞬にして巨大な「カレーの炊き出し会場」へと変わった。あまりの美味さに、代官の兵士たちまで列に並んでカレーを食い始める始末だ。
レオンは呆れたようにカレーを頬張りながら笑った。
「ははっ! 暴動を武力じゃなく、匂いと美味さで鎮圧するなんて……あんた、やっぱりただの職人じゃないな」
その時だった。
ゴロゴロゴロォォォォッ!! ピシャァァァァン!!
晴天の空に、突如として激しい雷鳴が轟き、地を揺るがすような馬蹄の音が街に響き渡った。
「な、なんだ!?」
代官とギルド長が、慌ててギルドハウスから飛び出してくる。
彼らの目に飛び込んできたのは、純白の鳥を先頭にして、街道を猛烈な勢いで突き進んでくる数百の重武装の精鋭騎士団。そしてその先頭には、獅子のような髭を蓄えた屈強な初老の男――バルバトス辺境伯本人が、怒り狂った形相で馬を駆っていた。
「だ、代官のゴーデン! そしてギルド長! 貴様らの薄汚い悪事、すべて俺の耳に入ったぞ!」
「へ、辺境伯様!? なぜこんなに早く! 証拠なんてどこにも……!」
「証拠ならここにある!!」
辺境伯は、シロが届けた「ギルドの管理番号入り起爆筒」を代官たちの足元に叩きつけた。
「ヒィィッ!?」
「そ、それは山の下敷きになったはずじゃ……!」
言い逃れのしようがない物理的証拠を突きつけられ、代官とギルド長はその場にへたり込んだ。
騎士団があっという間に不正を働いていた者たちを捕縛していく。
「見事だったな、レオン。そしてそこの凄腕の旅人殿。お前たちの働きがなければ、領民に多大な苦痛を強いるところだった」
辺境伯が俺たちに向かって深々と頭を下げた。
「いや、俺はただカレーを作ってただけですよ。そうだ、辺境伯様も一杯どうですか?」
「おお! この信じられないほど食欲をそそる匂いは気になっていたのだ! いただくぞ!」
その後、代官とギルド長は厳重に処罰され、不正に巻き上げられた金はすべて旅人たちに返還された。
街道を塞いでいた巨大な岩と土砂の山は、「どうせだから片付けてやる」と俺がインベントリで一気に全回収した。これで大量の良質な石材と土が手に入ったので、今後の現場作業に大いに役立つだろう。
「恩人様、本当にありがとうございました!」
宿の女将さんが感謝する中、俺たちはユノセの街が本来の活気と笑顔を取り戻したのを見届けた。
「さて、トラブルも片付いたし、平和になった温泉にゆっくり浸かってから出発するとするか」
『ニャハハ! 次の街ではどんな美味い飯が待っているのか楽しみニャ!』
『マスター、今回は私の雷霆の如き飛行が一番の功労者ですよ! 夜は特別なデザートを要求します!』
領主の密偵レオンとの別れを惜しみつつ、四十代のおっさんと二柱の神様は、国境を越えるための新たな旅支度を始めるのだった。
【第60話:完】
収穫: 辺境伯の信頼、大量の建築用石材、平和な温泉街。
知識更新: 暴動を鎮圧するには、武力よりもカレーライスの匂いの方が圧倒的に有効である。
現在の気分: 温泉の後のカレーも悪くない。さて、次はどんな国が待っているのだろうか。




