5話
『木漏れ日亭』での目覚めは、最高という他になかった。
魔力給湯器を修理したお礼にと、宿の主人が出してくれた朝食は、こんがり焼けたパンと塩気の効きいたベーコン。そして、食後には温かいハーブティーまでついてきた。
「世話になったな、主人」
「またいつでも来てくれよ、ミツトメさん! あんたなら大歓迎だ!」
主人の元気な声に見送られ、俺は街の西門を抜けた。
目指すは、街の遠くに見える山岳地帯。あの辺りなら、平原とは違う珍しい素材が手に入るだろうし、何より人が少なくて静かそうだ。
身体強化をオンにした四十五歳の足取りは、山道に入っても全く衰えを見せなかった。
木々がまばらになり、ゴツゴツとした岩肌が目立ち始めた頃、前方に小さな集落が見えてきた。
石と木を組み合わせた粗末な家々。そこを歩いているのは、人間の体でありながら、頭には立派なねじれた角を持ち、足首から下が動物のような蹄になっている者たちだった。
「……亜人の集落か。基礎知識、あれは何だ?」
視界の端に文字が浮かび上がる。
【名称:山羊人族】
種別: 亜人
詳細: 山岳地帯に住む温厚な種族。独自の言語を持ち、外部との交流は少ない。
なるほど。俺は集落の入り口に近づき、警戒されないように両手を軽く上げて見せた。
数人の山羊人たちが俺に気づき、何やら慌てた様子で話し合いを始めた。
「メェ、グルァッ、シャララ?」
「グオォ、メェエ……!」
耳に届くのは、動物の鳴き声と濁音が混ざったような全く未知の音声だ。だが、次の瞬間、俺の脳内に備わった『全世界翻訳』のスキルが自動的に機能し、彼らの言葉を淀みない日本語へと変換した。
『人間の旅人だぞ。珍しいな』
『それどころじゃないだろう。長老に相談しないと……このままでは、家畜が全滅してしまう』
俺はゆっくりと歩み寄り、彼らに向かって口を開いた。俺の発声もまた、翻訳スキルによって彼らの言語へと変換されて伝わる。
「旅の者だ。危害を加えるつもりはない。……何か、困り事があるのか?」
彼らは俺が自分たちの言葉を完璧に話したことに驚き、目を見開いた。やがて、一番年嵩に見える角の欠けた老人が、すがるような目で俺を見た。
『おお……人間の旅人よ。実は、この数ヶ月雨が降らず、我々が飼っている家畜の乳が止まってしまったのだ。我々の主食であるチーズが作れず、餓死を待つばかりで……』
「水がないなら、川から引けないのか?」
『水だけでは駄目なのだ。我々の家畜は、特定の霊草を食べねば乳を出さない。その草は……今回の日照りで、この辺りに生えていたモノは全滅した。残りはあの絶壁の上にしか生えておらず、我々の蹄では登れないのだ』
老人が指差したのは、見上げるほど高く、垂直に切り立った岩の壁だった。
俺は基礎知識にその崖の情報を照会した。
【名称:雨呼びの霊草】
価値: 銀貨3枚相当
詳細: 水分を豊富に含み、周囲の魔力を活性化させる希少な草。
「……なるほど。なら、俺が採ってこよう」
俺がそう言うと、山羊人たちは一斉に首を振った。
『駄目だ! 人間の体で登れる崖ではない! 命を落とすだけだ!』
「なに、昔から高所作業には慣れているんでね」
俺は笑って答え、崖の麓へと歩いた。
前職の設備管理時代、フルハーネスで、ビルの外壁や航空障害灯に登るのは日常茶飯事だった。しかも今の俺には、当時と違って『身体強化』という最高の安全装置がある。
岩肌に手を掛け、足場を確認する。
強化された指先は、僅かな岩の窪みを万力のように掴み、俺の体を軽々と引き上げた。
「よし。スイスイ行けるな」
下から山羊人たちの驚愕する声が聞こえるが、俺は淡々《たんたん》と崖を登り続けた。
十分ほどで崖の上へと到達すると、そこには朝露を帯びて青白く光る植物が一面に群生していた。
「これが雨呼びの霊草か。空間魔法の出番だな」
移植するための鮮度を保つため、土ごと根こそぎ採取し、インベントリの入り口へと放り込む。もしもの為の自生分を残し、依頼された分だけではなく、自分の「召喚用の資産」としても少し多めに頂戴しておいた。
集落に戻り、インベントリから大量の霊草を取り出すと、山羊人たちは涙を流して地面にひれ伏した。
『おおお……! 恩人よ、何と礼を言えば良いか! これで我らの一族は救われる!』
「気にしないでくれ。通りすがりのついでだ。それより、その草を早く家畜に食わせてやりな」
長老は震える手で霊草を受け取ると、奥の小屋から木箱を持ってきた。
『これは我らの一族が、百年前に仕込んだ秘蔵のチーズだ。どうか、受け取ってくだされ』
俺が木箱を受け取ると、アーカイブが凄まじい勢いで更新された。
【名称:百年発酵の山羊チーズ】
種別: 超高級発酵食品
価値:1g: 金貨1枚相当
詳細: 長い年月と魔力を吸収し、芳醇な香りと強烈な旨味を凝縮した幻の逸品。
効率: 極めて高。
(……1g金貨一枚分!?)
俺は心の中でガッツポーズをした。
ただの岩登りが、とんでもないお宝に化けた。これだから異世界の寄り道はやめられない。
山羊人たちに別れを告げ、俺はさらに山を登り、西の空がよく見える見晴らしの良い高台を見つけた。
夕日が空を赤く染め始めている。
「よし。今夜の『現場』はここにしよう」
俺はインベントリ内の例のチーズを意識した。
(親指の先ほどのサイズを召喚魔法の対価として、呼び出すのは……『フルボディの高級赤ワイン』、『ワイングラス』、そして『プレーンのクラッカー』だ!)
魔法陣が光り輝き、岩の上に黒々としたガラス瓶と、透明なグラスが現れた。コルク抜きもセットで出してくれるあたり、俺の魔法は本当に気が利く。
ポンッ、と小気味良い音を立ててコルクを抜き、グラスに赤紫色の液体を注ぐ。
夕日に透かして見ると、まるで宝石のようだ。
「……さて。お疲れ様、俺」
グラスを傾け、ワインを含む。重厚な渋みとベリーの香りが口いっぱいに広がる。
すかさず、もらった百年発酵のチーズを少しだけ齧る。
「……っ!」
強烈な旨味だ。口の中でホロリと崩れ、塩気と熟成された香りが鼻を抜ける。それを赤ワインで洗い流すと、言葉にならない至福の時間が訪れた。
「これは……美味すぎる。」
誰に気を遣うこともない。
全世界翻訳の能力は、誰かと深く関わるためのものではない。相手の事情をサクッと解決し、こうして「一人になれる贅沢」を勝ち取るためのツールなのだ。
茜色に染まる異世界の山々を見下ろしながら、四十五歳のおじさんは、最高の孤独と美酒に酔いしれていた。
【第5話:完】
収穫: 雨呼びの霊草、百年発酵の山羊チーズ。
知識更新: 高所作業と異世界ファンタジーの親和性。絶景で飲むワインはプライスレス。




