10話
クロを肩に乗せて歩くこと半日。街道の開けた先には、太陽の光を反射してきらきらと輝く巨大な湖と、そのほとりに寄り添うように広がるのどかな集落が見えてきた。
「……着いたな。あれがギルドの連中が言っていた『翠湖の村・ファス』か」
『むぅ。長旅であった。ミツトメ、我はもう腹ペコだぞ。早くあの村で美味いものを調達するのだ』
「お前はずっと俺の肩で寝てただろ」
文句を言う怠惰な黒猫の顎の下を撫でてやると、クロは気持ちよさそうに喉を鳴らした。
村に入ると、石畳の道と水路が美しく整備されており、空気は澄んでいる。しかし、村の中心にある広場では、何やら村人たちが集まって困り顔で話し合っていた。
中央には、水路の水を汲み上げるための大きな木造の水車がある。だが、それはピタリと止まっていた。
「どうしたんだい? 水車が動いていないようだが」
俺が声をかけると、村長らしき初老の男がため息をついた。
「おお、旅のお方か。実は、上流から流れてきた硬い倒木の破片が、水車の歯車の奥に挟まってしまってな。無理に動かせば軸が折れるし、取り除くには水車を一度解体せねばならんのだ」
俺は基礎知識を起動し、水車の奥を覗き込んだ。
【名称:揚水用の大水車】
状態: 異物の挟まりによる物理的ロック。
詳細: 主軸と歯車の隙間に、高硬度の魔木の破片が深く食い込んでいる。
「村長さん。俺、昔こういう機械の修理をやってたんだ。ちょっと手伝おうか?」
「えっ? いやしかし、旅のお方にそんな……それに道具もなしにどうやって……」
村長が戸惑う中、俺は水車の歯車の隙間に手を伸ばした。
そして、周囲から見えない角度で、異物の真横に空間魔法の「入り口」を極小サイズで展開する。
「……よし、もらった」
挟まっていた魔木の破片を、直接インベントリの中へと「収納」する。物理的な引き抜きではなく、空間ごと切り取るようなものだ。抵抗は一切ない。
破片が消え、カコン、と歯車がわずかに動く音がした。
さらに俺は、召喚魔法で『耐水性ウレアグリース』を指先に呼び出し、摩耗していた軸受けの部分にサッと塗り込んだ。
「さて、これでどうかな。少し水車を押してみてくれ」
村の男たちが半信半疑で水車を押し出すと、ギギ……という音を立ててから、水車は滑らかに勢いよく回転し始めた。
ザバァァッ! と、水路に新鮮な湖の水が流れ込んでいく。
「おおおおっ!! 動いた! 一体どんな魔法を使ったんだ!?」
「ただの、昔取った杵柄さ。ちょっとしたコツがあるんだよ」
歓声を上げる村人たちの中で、村長が俺の手を両手で握りしめた。
「ありがとう、旅のお方! お礼と言ってはなんだが、村で採れた自慢の野菜と湖の魚を、好きなだけ持っていってくれ!」
結果として、俺のインベントリには『翠湖の清流マス』『ファス産のきゅうり』などの新鮮な極上食材がたっぷりと収納された。
その日の夕暮れ。
俺とクロは、村から少し離れた湖畔の絶景ポイントに陣取っていた。
波の音が静かに響き、夕日が湖面をオレンジ色に染め上げている。
「さて……。今日は旅の一つの区切りだ。盛大にやるとするか」
俺はインベントリから、今日手に入れた魔木の破片(実は高価な素材だった)と、道中で狩った中級魔石を惜しみなく対価として捧げた。
(呼び出すのは……『珪藻土の七輪』、『最高級備長炭』。そして『黒毛和牛の特上カルビ』、『高級ビール(瓶)』、『岩塩』だ!)
光とともに、日本の夏のバーベキューを思わせる完璧なセットが湖畔に出現する。
着火剤で備長炭に火を熾すと、パチパチという音とともに遠赤外線の強烈な熱気が広がる。
村でもらったきゅうりを氷水でキンキンに冷やし、まずは七輪の網に特上カルビと清流マスを並べる。
ジュワァァァッ!
脂が炭に落ち、猛烈な煙と香ばしい匂いが立ち上った。
『ニャアアアッ! なんという匂い! ミツトメ、早く! 早く我にそれを食わせろ!』
クロが興奮のあまり俺の膝に飛び乗り、前足で網を指差す。
「慌てるな。お前には塩を振ってない肉を冷ましてからやる。魚もあるぞ」
クロ用の小皿に肉とマスを取り分けてやり、俺は自分のカルビに岩塩を軽く振って口に放り込んだ。
「……っ!!」
噛んだ瞬間、上質な脂が口の中で溶けて甘みが爆発する。備長炭の香りが肉の旨味を極限まで引き出していた。
すかさず、よく冷えた瓶ビールをグラスに注ぎ、喉に流し込む。
「……っくあぁぁぁ! 生きてて良かった……!!」
濃密な麦のコクと苦味が、肉の脂を完璧に洗い流す。
箸休めに、冷やしたキュウリに塩を振ってかじる。塩味とみずみずしさ、そして触感が絶妙だ。異世界の新鮮な恵みと、現代日本の贅沢な食材。その二つが俺の魔法によって見事に融合していた。
クロも顔を脂まみれにしながら、狂ったように肉と魚を平らげている。
『美味い! 美味いぞミツトメ! やはり汝の飯は神界の宴よりも遥かに上だ!』
湖からの涼しい風が頬を撫でる。
俺はビールを片手に、遠くの山々に沈んでいく夕日を見つめた。
四十五歳。社会の歯車として働き詰めだった俺が、今、異世界の湖畔で、自分の腕と知識だけを頼りに最高の飯を食っている。
冒険者ランクは目立たない「E」のまま。ギルドの厄介事とは無縁で、隣には気ままな元神様の黒猫がいる。
俺の基礎知識が、静かに緑色の文字を更新した。
【実績解除:理想のスローライフ】
状態: 心身のストレス値・ゼロ。
スローライフメモ: 人生は後半戦からでも、十分に楽しめる。
「……ああ、本当にその通りだ」
俺は誰にともなく呟き、残りのビールを飲み干した。
俺たちの旅はまだ続く。だが、焦る必要はどこにもない。
明日は湖で釣りをしてもいいし、一日中テントで昼寝をしてもいい。
くたびれたおじさんと、怠惰な悪魔猫の異世界放浪記。
その自由で美味しい日々は、ここからが本当の始まりだった。
【第10話:完】
収穫: 翠湖の特産品、最高の焼肉、そして「自由」。
知識更新: 幸せとは、自分のペースで肉を焼き、ビールを飲むことである。
現在の気分: 完全なる至福。




