これがお前の理想郷だよ、人間(九)
コンビニで甘いものを手に入れた俺たちは、それなりに警戒しながら自宅を目指した。
けだるい昼下がり。
黒ずんで苔だらけのブロック塀、錆びた鉄柵、どこかの家の庭の樹木……。住宅街だからか、歩を進めるたびにそんな景色が繰り返される。風がないせいか、すべてが止まって見える。
この街は死んでいるのか?
しかし日差しはやわらかい。
まるで苦しみもなく、眠るように死を迎えたかのように。
肉塊の姿はない。
動いているのは俺たちだけ。
「そういえば、最初、公園でなにを慌ててたんだ?」
俺がそう尋ねると、ツバキは忘れていたのか「へっ?」と生返事をした。
「ああ、メガネのこと?」
「メガネって?」
「あたし、マスターにメガネちょうだいってお願いしたの。それをつければ好感度が分かるから」
メガネ?
だが、俺たちが拾ったのは指輪だ。
好感度が分かる。
「なにが違うんだ?」
「その指輪には、メガネ以外の機能もついてるんだ。いろんな道具の上位版……っていうのかな。たぶんマスターは、このあともあたしがいろいろ要求すると思って、先に指輪を渡してきたんだと思う」
ヤバそうなアイテムだな。
子供にライターを与えるようなものじゃないのか?
「どんな機能があるんだ?」
「んー。まあ教えてもいいけど、あんまりズルするとすぐ審判になりそうだしなぁ」
「なら、知らないほうがよさそうだ」
暴発しないならそれでいい。
それにしても、じつに穏やかだ。
ぬるい休日の午後みたいな。
こういう日に、昼間から酒を飲んで一日を台無しにするのは最高だ。こんなことなら酒ももらってくるんだった。
俺はひとつ呼吸をした。
いまが春なのか秋なのかも分からない。
分かるのは、夏や冬でないということだけ。
「ところで、マスターってのは公園が好きなのか?」
「なんで?」
俺の問いに、彼女はきょとんとした顔で首をかしげた。
なんではこっちのセリフなのだが。
「事あるごとに公園が使われるじゃないか。たまには別の場所でもよさそうなもんなのに」
「別の場所って? 人の家とか?」
「それ以外でも」
すると彼女はふっと笑った。
「でも公園が一番じゃない? みんなの場所なんだから」
「いうほどみんなの場所かな? 管理してるのは自治体だし、たびたび排除的な活動もおこなわれてる。あんまりみんなの場所って感じはしないけどな」
「それでも、他の場所よりは自由でしょ?」
マスターってのは、そういうことを気にするタイプなのか?
もしかすると、悪魔ではなく神なのかもしれないな。あるいはその両方か、どちらでもない可能性もあるが。
*
帰宅すると、エプロンをしたツキが出迎えてくれた。
「お帰りなさい」
無表情。
いや、無表情なだけならいい。
殺意が半数を超えている。いや、八割……九割くらいはある。
え、なんで?
今回はいちども手を出していないのに?
最大限配慮したつもりだったのに?
俺の顔を見て、ツバキも察したらしい。
「た、ただいまー。ツキちゃん、あまいもの食べたくない? いっぱい持ってきたから食べなよ?」
「いえ、先ほどお昼を済ませましたので」
「お昼?」
「お二人の分も作ったのですが、もうさめてしまいましたね」
昼などとうに過ぎている。
彼女は朝食の後片付けをしただけでなく、俺たちの昼食まで作って待っていたのだ。
俺は思わず慌ててしまった。
「ご、ごめん。あとで食べるから、捨てないでおいて欲しいな」
「はい。捨てませんよ。でも、これは私が食べます。お二人のぶんは、また新しく作り直します」
殺意のメーターが地味にぷるぷる震えている。震えながら微増している気がする。自分の意見を言わない代わりに、溜め込むタイプの性格だったか……。
ツキは表情を変えずに告げた。
「いまコーヒーを用意しますね」
「ま、待った! 自分でやるよ!」
「でも、これは私の使命ですから」
「使命とかいいから!」
「えっ?」
さすがに迷惑そうな顔。
俺の言動はすべてが裏目に出ている。
メーターの振動はとどまることがない。
まるで噴火する前の胎動。このままでは100パーセントを突破しそうな勢いだ。
俺が次の言葉を出せずにいると、彼女はなんとも言えない顔で給湯室へ行ってしまった。
応接室には棒立ちの二人。
ツバキが半笑いで近づいてきた。
「え、どうなの?」
「ほぼ上限に近い」
「あらら……」
このままではルート分岐どころか、審判の前に爆発しかねない。
なんとか誤解を解きたい。
いや、誤解という言い方は失礼か。
彼女は彼女の感じた通りに判断しているだけだ。
それを誤解などと呼ぶのは、あまりに俺の都合を優先しすぎている。つまり、俺の振る舞いが問題なのだ。俺が彼女の神経を逆なでしている。
世の男たちは、これをどう乗り切っているのだ?
ネットを見る限り、男女はいつも対立している。なんで一緒にいるのか分からないレベルで。そんなに互いを嫌いなのに、いつでも互いの存在を欲している。バカみたいだ。俺には人間というものが分からない。
ツバキは声をひそめて言った。
「まあ、でも、ひとつだけ簡単な方法があるよね」
「えっ?」
「リセットしちゃえばいいんだよ。お兄さんの持ってる銃でさ」
この女……。
他意はないのかもしれないが、あまりにおぞましい提案だ。
だが、それをやらずにいたら、ツキの殺意は半数を超えたまま審判の日が来るだろう。すると俺はまた肉塊になる。今度は人間に戻れず、自我を失うことになるかもしれない。
もしやったら? 次はツキの代わりに、俺に殺意を抱かない女が現れるかもしれない。そしたら俺は肉塊になることなく、別ルートに入ることができる。
自分の都合で女を殺すか。
自分を殺すか。
これはべつに究極の選択じゃない。
答えなど最初から出ている。
誰しも自分を殺す選択を選ばない。
まあ選んでもいいが。それは偽善じゃない。自分の好きなほうを選んだというだけの話だ。
俺は自己犠牲を美談にしたくはないのだ。美談にでもせねばやっていられない状況ならともかく。それが美談になってしまうと、他者にもそれを強いることになる。絶対にあってはならない。俺はそこに善とか悪とかの情報を付記すべきでないと考える。付記してもいいが、個人の内心にとどめておくべきものだろう。
しかしその上で、この答えを出すのは簡単ではない。
ツキは人間ではない。マスターとやらが作った肉人形だ。あるいはAIみたいな存在かもしれない。
殺したところで、殺人にはならない。
理屈の上ではそうだ。
そうだが、じゃあ俺はそれを選ぶのか、というと……。
これは理屈を超えている。少なくとも人間の、という表現が適切でないなら、少なくとも俺の理屈を超えている。
価値に優先度をつけられない場合、どちらを選んでも同等の傷を負う。
どちらを選んでも後悔の度合いは変わらない。
新たな情報が追加されない限りは。
問題は、新たな情報が追加された場合に、後悔の度合いが変化するということだ。人間はいつもそれを怯えている。
*
夕飯は、ハンバーグだった。
ツキだけがチキンライスを食べた。昼に俺たちのために作ってくれたものだ。それをあたため直して、文句も言わずに食べていた。
当然、メーターは下がらなかった。
後片付けも、またひと悶着あってからツキがやることになった。
もはや彼女の行動は止められない。
メーターも下がらない。
応接室のソファに残された俺とツバキは、なんとも言えない空気の中、壁越しに食器を洗う音を聞いていた。
「メーターがヤバい」
俺の口からはそれしか出てこなかった。
赤いメーターがずっとぷるぷるしている。気になって他のなにも目に入らない。もはや夢に出てくるレベルだ。
「あー。まー、ね……」
ツバキも手の打ちようがないのか、視線を泳がせている。
選択するしかない。
このまま肉塊になるか、ツキを射殺するか。もちろん射殺せずに問題を回避できるなら、それに越したことはないのだが。
もちろんその他のルートもありえる。
「あれが最大まで行ったらどうなるんだ?」
なかば分かり切ったことだが、俺はそう尋ねた。
ツバキは、しかし意外と平然とた表情だ。
「殺されるかもって思ってるの? それはないと思うよ。心って、そこまで単純じゃないからね。もし限界に達しても、その限界を超える別のなにかがあれば、それは実行されない。あの子の場合、マスターの使命とかね」
お世話をするという使命の優先度が、自分の意思より高いということか。
まあそうなんだろう。
そうじゃなかったら、あれほど自由にさせてはくれなかったはずだ。
「はぁ。俺はなんでこんなに嫌われてるんだ……」
「心当たりはないの?」
「ある」
「じゃあダメだね」
そう。
ダメなのだ。
単にツキが面倒な性格というだけならば、俺だってこんなに悩んだりはしなかったかもしれない。だが、この事態を招いた原因は俺なのだ。そうである以上、ツキを責めるわけにはいかない。
俺が肉塊になってアスファルトを転がっていたとき、彼女は俺に救いの手を差し伸べてくれた。あのとき、彼女の姿は天使に見えた。絶対に彼女を不幸にしてはいけないと思った。
なのに……。
*
家にいるのが次第につらくなってきた。
だから俺は食料調達の名目で、毎日のように外出した。ツバキもついてきた。そしてすることがなくて、二人で公園に行って……。
ツバキはいつでも愛らしかった。
口ではいろいろ言ってくるが、素直なところもあって。
ウサギみたいにぴょこぴょこ跳ねて。
小柄で、弱くて、ひとなつっこくて。
こちらに殺意を抱くこともない。
俺も彼女には優しくした。できるだけ丁寧に、壊さないように扱った。
きっと相性がいいのだろう。
最初に出会ったのが彼女ならよかったのに、と、何度も考えてしまう。
もしそうだったら、俺は一度も肉塊になることなく、別ルートとやらに入れたはず。肉塊にならないのだから、ツキに助けてもらうこともなかった。誰にも負い目なく、ただツバキだけを愛していられた。
ツキの赤いメーターは、震えながらじわじわ伸びている。
遠からず審判の日が来てしまう。
選択しなくては。
公園でツバキのお世話を受けている場合ではない……。
(続く)




