これがお前の理想郷だよ、人間(八)
その日は普通にタコパをし、トラブルもなく就寝した。
問題が起きたのは、その翌朝だ。
「じゃ、お兄さん、デート行こうか」
ツバキがそう切り出したのは、応接室で朝食をとっている最中のことだった。
デート……。
そんな悠長なことをしている余裕はない、というのもあるのだが。
俺は、余計な行動をして、ツキを刺激したくはなかった。彼女がどう思っているのかはともかく。
誰も返事をせずにいると、ツバキはこう続けた。
「ツキちゃんはお留守番しててね。これはあたしとお兄さんだけの約束だから」
するとツキは、目を丸くしたまま、眼球だけをこちらに向けてきた。
呪いの人形を彷彿とさせる動きだ。
「そんな約束してたっけ?」
俺は余裕ぶってコーヒーをすすりつつ、そう尋ねた。
朝食は、トーストに目玉焼きをのせたもの。インスタントだがコーヒーもある。手配はすべてツキがやってくれた。俺とツバキはただ待っていただけ。
ツバキは悪戯っぽい笑みだ。
「したじゃん、約束。え、なに? すっぽかす気?」
「マスターについて教えてもらう約束ならしたが」
「それだよ、それ。マスターと連絡ついたからさ。説明のために出かけたいの。でもあたし一人で外危ないじゃん? だからついてきて欲しいの。ダメ?」
小首をかしげて聞いてくる。
こいつも男を堕落させるのが得意な女かもしれない。
「ダメではない」
「じゃあ決まり。ちょっと休んだら行こ?」
まあ、マスターの意図を知るのは大事だが。
本当にいいんだろうか?
ツキはすっと立ち上がった。
「では後片付けは私がしておきますね」
「よろしくー」
ツバキはどういうつもりなのか気軽に言う。
俺は慌てて立ち上がった。
「待った。後片付けは分担制にしようと思ってるんだ」
「なぜですか?」
ツキも首をかしげた。
ただし、以前のような愛想笑いはない。おそらく彼女にとっては最大限に不満を示す「無表情」を見せている。
「君に依存したくない」
「よく分かりません。お世話をするのが使命なのに」
「使命のことはいったん忘れてくれ」
「忘れる? 使命を? 待ってください。それは私にとって、生きる意味そのものなのです。忘れるなんて……」
なんだよそれ。
マスターが死ねと言ったら死ぬのか?
いや、まあ、死にそうだな、普通に……。
「違う違う。じゃあこう考えて欲しい。俺も家事をやりたい。これでどうだ?」
もちろん本心ではやりたくない。
だが、ツキにすべてを任せていると、完全に依存してしまう。善人ぶってるわけじゃない。永遠に依存できるならまだしも、また数日したら必ず別れることになるのだ。損得だけ考えても、最終的にマイナスだ。ダメージが大きすぎる。それは前回イヤというほど学んだ。
俺はできるだけ彼女に依存したくない。
「分かりません。私の使命を否定されているようで……」
ツキはまだ無表情だ。ずっと愛想笑いを見せられるのもキツいが、ここまで愛想を消されてもつらい。もう彼女の顔を見るのがつらい。
「分かった。じゃあ今日は君に任せる。けど次からは……。また話し合おう」
「はい……」
何度聞いたか分からないこの不服そうな返事。
意外と頑固なところがある。
ムカついているわけじゃない。むしろ哀しいのだ。彼女にも事情はあると思うし、困らせているとも思う。問題は、彼女の事情と、俺の事情が、見事にバッティングしてしまっていることだ。マスターとか言うヤツは、よほど意地の悪い性格をしているに違いない。
*
家事をすべてツキに任せて、俺とツバキは二人で出かけた。
キラキラした朝空。
人の活動がないせいか、都市部なのに空気が清浄に感じられる。
朝なんて好きじゃなかったのに、こんなに気分よく受け入れられるようになるなんて。
だから、きっと朝が悪いわけじゃなかったのだ。
朝を忌むような生活を、俺が勝手に送っていただけ。いや、勝手とはいうが、ほかに選択肢なんてなかっただろう。この件に関しては、俺は俺を責める気にはなれない。
「目的地はどこなんだ?」
「公園だよ。ちょっと行ったところ」
彼女の頭には地図でも入っているのだろうか。
どこに行けばいいのか完全に理解している。
見かけたら即射殺してやろうと思っていたのに、肉塊には遭遇しなかった。
あいつらにも休日はあるのだろうか。
いや、俺のときはなかった。休日も、平日もない。あるのは永遠の彷徨だけ。
射撃のチャンスがない以上、紐で背にくくりつけたクッションも出番がなくなる。
広めの公園に出た。
子供たちがサッカーできそうなくらいのスペースがある。
肝心の子供はいないが。
ツバキは迷いなく歩を進めた。
だが、あるところで足を止め、急にキョロキョロし始めた。
「えっ? あれっ?」
「どうした?」
「んー、でも話が違うじゃん。どういうこと?」
「どういうことなんだ?」
ツバキは顔をしかめながら、地面を見つめていた。そこには銀色の指輪が落ちている。もっと別のものが見つかるはずだったのか?
ツバキは服の裾がめくれないように抑えながら、その場にしゃがみ込んで指輪をつまんだ。
「まーいいんだけどさ」
「事情を説明してくれないか?」
「まず、これをつけるでしょ?」
「うん?」
彼女は指輪をはめた。
それから……なぜかじっとこちらを見つめて「ま、そうなるよね」と一人で納得。
「え、なにが? 俺にも分かるように教えてくれよ」
「いいよ。これつけてみて」
ツバキはぐりぐりしながら指輪を外し、こちらへ差し出してきた。装飾はないものの、幅広のリングだからゴツく見える。
俺はそいつを受け取って装着してみた。サイズに問題はない。可変式なんだろうか。
「つけたらどうなる?」
「ちょっと待ってね。あたしのこと見てみて。なんか見えない?」
見える。
頭上に謎のメーターが。
「な、なんだこれ……」
「好感度だよ。相手が自分をどう思ってるか分かんの。いま見えてるのは、あたしの感情だね」
「バラついてるな」
五本の棒からなる棒グラフ。
だが、数字も文字もない。色がついているだけ。見方が分からない。
「赤が殺意」
「はい?」
「青は哀れみ、白は親しみ、ピンクは性愛、で、オレンジが信頼」
「……」
な、なんだこいつは……。
性愛だけがバチクソに高いんだが……。
「ねえ、どうなってる?」
ツバキは顔を近づけてきた。
白い布を巻いただけの体で。肩と背中をさらして。
「いや、まあ……。これを手に入れたかったのか?」
なんとか話題をそらさなければ。
だが、ツバキは無邪気な笑みを向けてくる。
「お兄さん、なに焦ってんの?」
「急にこんなことになったら焦るだろ、普通」
「どうせ性愛の高さにビビってるんしょ? 言っておくけど、さっき見たとき、お兄さんも性愛だけ高かったかんね?」
「……」
こちらの要求を否定しない薄着の女がいたら、そうもなる。
大事なのは、その感情から目をそらさず、適切にコントロールすることだ。
「お兄さんが知りたかったのって、未来がどう分岐するかってことだよね? 確かに、審判が来たらお兄さんは怪物になるよ。でも、審判の前に別ルートに入れば、怪物にならなくて済むんだ」
「別のルート?」
「あたしらの殺意を半分以下にたもつこと」
殺意……。
たしか赤いメーターだったな。ツバキの殺意は半分以下だ。というか、ほぼ存在しないレベル。俺を殺したいとは思っていないということだ。
ん?
じゃあ前回は、ツキの殺意が半分を上回っていたということか?
まあそうかもしれない。
こちらの意見を拒否せずなんでも受け入れてくれるからといって、あまりに横柄にやり過ぎた。もっと配慮すべきだったのだ。
ツバキはニヤリと笑った。
「でも大変だよ? お兄さんについてる巫女があたしだけならまだしも、もう一人いるんだから」
「たぶん大丈夫。今回は配慮する」
「ホントかなぁ?」
からかっているつもりか?
今回はさすがに紳士的に振る舞うつもりでいる。正直なところ、自分が肉塊になりたくないというのもある。だがそれとは別に、俺はもうツキの傷つく姿を見たくなかった。
肉塊になって地べたを転がっていたとき……。そしてツキに足を治してもらったとき、俺は心の底から反省したのだ。もう二度とこの子に嫌われたくない、と。
ふと、ツバキが体を近づけてきた。細く見えるのに、ぷにっとしている。
「でさ、こっからが本題なんだけど」
「な、なんだよ……」
「もう分かってると思うけど、べつにあたしらが仲良くなっちゃダメってことはないんだよね」
「それは……まあ……そう……だけど……」
つまり、遠慮する必要はないということだ。
「あたし、誰かに必要とされたいの」
「うん……?」
「ぎゅってされたい」
「うん……」
「お兄さんは? どう?」
*
こんなの、堕落するに決まっている。
ツバキは小柄な体ですべてを受け止めてくれた。積極的で、愛らしくて、自分からこちらを欲してくれた。
ベンチで待っていると、身だしなみを整えたツバキが女子トイレから戻ってきた。
「えへへ。なんか照れるね」
「うん……」
うんではない。
こんな対応しかできない自分が気持ち悪い。
「でも、どう? べつに殺意なんて増えてないでしょ? だから我慢しなくて平気なんだって」
愛らしい笑みを向けてくれる。
もし最初に出会ったのが、ツキではなくツバキだったら、俺は肉塊にならずに別ルートに入っていたかもしれない。俺が出会うべきは、彼女だったのではないかとすら思えてくる。
いや、ダメだな。
こういう思考回路だから致命的なミスをするのだ。
冷静にならなければ。
ツバキはすぐ隣に腰をおろした。
「でも、お兄さんよかったよ。あたしすぐ負けちゃうからさ。優しくしてくれるとすぐ好きになっちゃう」
「そ、そう?」
「うん。だって、こっちがダメになると、もっとムキになって攻めてくる男とかいるじゃん? ああいうのちょっとなぁ……。こういうのって、お互いが気持ちよくなるためにするもんじゃん? なのに、自分だけって」
「まあ、そうかも」
よく分からないから、適当に話を合わせておこう。
「あー、でも久しぶりに頭ぽわぽわになちゃった。楽しかったね?」
「そ、そうだな」
「いっぱい動いたら、お腹すいちゃった。なんか甘い物食べたいな」
こてんと頭をあずけてくる。
甘え上手というか。
「じゃあ、帰りにコンビニでも寄ってこうか?」
「そうしよ」
なんだろう。
もしかして、俺が求めていた人生って、こういうものだったんじゃ……。
(続く)




