これがお前の理想郷だよ、人間(五)
「あの……」
背後から、声をかけられた。
男じゃない。
女だ。
体ごと振り向くと、そこに立っていたのはツキだった。
フリルのついた、いかにも女の子っぽい服で。
「うー……」
俺の口から言葉は出ない。
少なくとも、まともな言葉は。
女は不快そうに眉をひそめた。以前は俺にそんな表情は見せなかったのに。
「あなた、前の人間さん、ですよね? もう、つきまとうの、やめてもらえませんか?」
「う……」
「いま私、ゆっくんと新しい生活を送ってるんです。だから、こうやってこそこそ覗かれると困るっていうか……」
なんだこいつは……。
まるで人をストーカーみたいに。
その前に、この女は、公園で殺されたはずだろう。
なんで普通に生きて、普通にまた男と同棲してるんだ?
「え、私ですか? あれは死んだわけじゃありません。ただの制裁です」
女はよどみなく言った。
俺の言いたいことが分かるのか。
「うー! うー!」
「制裁というのは……。人間さまの堕落した原因が、私だから」
「うー! うー!」
「わ、私のほうこそ被害者ですよ。言われた通りにお世話していただけなのに。あなたが勝手に堕落してしまったから、そのせいで私まで体を切り刻まれたんです」
「うー……」
「謝ってももう遅いです。もう、付きまとわないでください。ゆっくんのことも放っておいて」
以前なら絶対に口答えしなかったのに。
仕える男が変えた途端にこれだ。
「きゃっ! 離して! 痛いっ!」
俺は思わず手首をつかんでいた。
それだけでなく、バンに押し付けていた。
「う……」
「な、なにする気なんですか? 大声出しますよ?」
もとより女を拘束して、男をおびき出す作戦だ。
ただ、それは男にバレずにやらねばならない。
これが計画的な作戦であることがバレると、相手の警戒を高めてしまう。肉塊は、あくまで人格を持っていないだと思わせないと。
「待って! 待ってください! いまなら誰にも言いませんから! 許してください!」
「……」
なんだろう。
俺は……。
いったいなにをしているんだろう。
手を離すと、ツキはその場に尻餅をついて、怯えた目でこちらを見上げてきた。
人間に戻るためとはいえ、俺は最低なことをしようとしていたのではないだろうか。
自分が助かるために。
誰かを犠牲に。
でも人間の尊厳に係わることなのだ。
俺はずっと肉塊のまま、うーうー言いながら死んでいくのはイヤなのだ。
だけどこの女の目は……。
「わ、私はなにも悪くありません! マスターに言われてやっただけなんです! 私に不満をぶつけないでください!」
うるさい。
自分のことばっかり。
だけど俺もそうだ。
自分のことしか考えていない。
ふと、パァンという音とともに、視界が斜めになった。
痛い。
足を撃たれた……のか?
俺はみじめに地べたに転がった。首が回らないから、もはやアスファルトしか見えない。
「うっわー、帰ってくんのおせーと思ったら、巨デブに襲われてんじゃん。なにやってんだよ、お前。なにやらせてもダメだな」
「ご、ごめんなさい」
ゆっくんとやらのご登場だ。
「なに? なんで道路のこっち側歩いてんの? そんなん襲われるに決まってんじゃん」
「はい……」
「うわー、こいつ。笑えんだけど。え、なに? こいつ、お前のことヤろうとしてたの?」
「分かりません」
「バケモンの癖して、俺の女に手ぇ出そうとしてたワケ? あ? クソじゃね?」
言いながら、俺の頭部を容赦なく踏みつけてくる。
あまり痛くないが。
たぶん骨格と筋肉が異様に強いせいだろう。この体は、歩いたり、道具を使ったりすること以外は、意外と人間より優れている。まあ、転んだらすぐに立てないという致命的な欠点はあるにせよ。
「きゃっ」
急に女の悲鳴が聞こえた。
なにが起きているのかは見えないが。
「ここでヤんね?」
「え、ここで……?」
「なんかヤりたくなってきちゃった。こいつ、たぶんお前のこと好きだろ? だったらこいつに見せてやろうぜ」
「でも……」
「あ?」
「はい。やります……」
ゆっくん。
いま決めたよ。
俺はお前を殺す。
絶対に。
*
「こいつ、いつまで生きるかな? 明日もここでな? 忘れんなよ?」
「はい。忘れません」
「じゃあ帰ろうぜ。腹減ったわ」
「……」
「返事は?」
「はい」
二人の声が遠ざかっていった。
ド畜生がよ。
女の子にはもっと優しくしろよクソが。
途中、泣いてただろ。
俺だったらもっと優しくするのに。
なんであいつなんだ。
クソ。
クソクソクソ。
クソクソクソクソクソ。
「うー」
後頭部があいつらの体液まみれだ。
しかも自分では拭くこともできない。
足をやられたせいで自力で立ち上がることもできない。
アスファルトしか見えない。
たぶん俺は、このまま死ぬんだろうと思った。
*
俺はうつ伏せのまま、その場で何日も過ごした。
ゆっくんとツキは毎日やってきた。
そして毎日、毎日……。
頭がどうにかなりそうだった。
俺の女なのに。
あんなに自分勝手に扱って。
いや、そもそも「俺の女」などではなかったのだ。
彼女はマスターに言われるがままに仕事をしていただけで。
俺が勝手にそういうものだと思って、まるで所有物みたいに扱っていただけで。
だから、俺はゆっくんを非難できない。
あいつと同レベル。
いや、あいつよりは優しかったと思うが……。だがまあ、どちらもクソだ。クソの中で上か下かというだけで。
ある夜、地面の砂粒を数えていると、足音が近づいてきた。
「声、出さないでくださいね」
ツキだ。
近づいてきたかと思うと、俺の後頭部を拭いてくれた。
「足、どうですか?」
「うー」
「痛いですよね? 見えないと思いますけど、腐って千切れてしまっています」
道理で動かなかったわけだ。
虫やカラスも群がっていた。
地味に喰われていたんだな。
これでまだ死んでないんだから、この肉塊の生命力は恐ろしい。
「でも、治してあげます。私、それくらいの魔法なら使えますから。魔法って言っていいのかは分かりませんけども」
「うー」
「勘違いしないでくださいね。べつに親切じゃありません。あなたがそこにいると、毎日ゆっくんが……。ですから、足を治すので、もう二度と私たちの前に現れないでください。お願いです。約束してくれますか?」
「うー」
「……」
彼女は溜め息をついた。
俺が約束しないと言ったのを理解したんだろう。
それでも、彼女は魔法を使ってくれた。
足に、じんわりと温かみを感じた。
すでに感覚もなくなっていたのに。
もう忘れて久しかった「優しい」感覚が、足から全身に染みわたった。
ああ。
俺はこんな純粋な子を傷つけていたんだな……。
「はい。もう治りました」
「うー」
「いえ、お礼なんて。でも、本当に、お願いですから、朝になるまでにどこかへ移動してください。そして、私のことは忘れてください。絶対に。約束ですよ」
「うー」
「……」
約束はしない。
ゆっくんは殺す。
そう決めたのだ。
彼女は「さようなら」と告げて、どこかへ去っていった。
おそらく買い物を言いつけられて外出しただけなのだろう。
*
数時間後、俺はマンションから離れた公園で棒立ちになっていた。
うーうー言いながら。
数日ぶりに、アスファルト以外の景色が見えた。それだけで幸福だった。いや、それだけじゃない。ツキに治療してもらったこと。嬉しくて仕方がなかった。
ちょっと優しくされただけで、すぐ相手を好きになる勘違い男みたいでイヤなのだが。
でも、本当に嬉しかったんだから仕方がない。
言い換えれば、いまとなっては、それくらいしか生きる望みがない。
*
それからの数日、新たな作戦のための行動を開始した。
もう根本的に考えを改めた。
スタンガンも催涙ガスも必要がない。
男と会う必要もない。
この新たな作戦を実行すれば、すべては自動的に完了してしまう。
*
そして当日――。
俺は道路に立ったまま、燃え盛るマンションを見上げていた。
そう。
すべてはシンプルな話だったのだ。
さしたる苦労は要らなかった。
一階を燃やせば、建材に延焼して二階が燃える。二階が燃えれば三階が燃える。そうしていつかはすべてが燃える。
高級マンションだから、もちろん防火対策はしっかりしているだろう。だがそれは、いくらか火災を遅らせるのが目的である。絶対に燃えないマンションなど存在しない。
そしてもし平時なら、すぐさま消防車が駆けつけて鎮火してくれる。
ああ、だが……。
この世界に、もはや消防士はいないのだ。
ヤツは逃げ場を失う。
銃だけが残される。
そしたら俺は、なんの障害もなく銃を回収することができる。
買い物から帰ってきたツキが、泣きながら近づいてきた。
「ねえ、なんで? なんでこんなことしたの?」
「うー」
「ゆっくんが死んじゃう……。そしたら私……」
「うー」
「またあなたのお世話……しなきゃ……」
そんなに俺が嫌いか?
いや、いい。
俺はもう、この女を拘束するつもりはない。
派遣されてきても、一緒にいるつもりはない。
俺は、俺のことが嫌いになった。
*
火災は数日に及んだ。
やがて雨が降り、表面の灰を洗い流した。それは汚水となり、アスファルトを汚した。
エレベーターはなかったから、階段を使った。
燃えたのは表面だけだから、基礎部分は残っていた。
女もついてきて、場所を案内してくれた。
おそらくゆっくんだったものと思われる塊は、廊下で見つかった。
傍らには銃も落ちていた。
おそらく一酸化炭素で死んだあと、火に炙られてこうなったのだろう。
銃が壊れていないのは幸いだった。
まあ、人が作ったものでないのだろうから、壊れないだろうという確証はあった。
俺がしゃがめないのを察して、女が銃を拾って渡してくれた。
自力で拾うのも不可能ではなかったが、その場合は、灰だらけの廊下でいちど無様に転倒する必要があった。
いつか見た金髪の「メッセンジャー」が、いつの間にかそばに立っていた。
「なるほどな。やるじゃないか。方法は信じられないくらい雑だったけど」
「うー」
人間が火を使ったくらいで驚かないで欲しいものだ。
むしろ逆に、いままでの肉塊は火を使わなかったのだろうか。うーうー言いながら突進してくるだけで。いや、あれはもう、ほとんど脳まで肉塊になっていた個体だったのかも。
「約束通り、お前を人間に戻す」
「うー」
「いや、もう普通に返事していいぞ」
「うん……」
身体が急に軽くなった。
全裸であるという点を除けば、すべてが解決した。
金髪は鋭い目でこちらを見た。
「だがいいのか? せっかく順調にステップを進めていたのに。これじゃあ人間に逆戻りだ」
「逆もなにも、ルールが分からないんだから仕方がない。そもそも、こちらに選択肢があるとは思えないんだが」
「確かにルールは開示されていない。だが、今回の行為が、マスターの意思に身を委ねているとは言えないことくらいは理解できるだろう」
「本当に? もしそうなら、人間に戻る手段なんて用意しないはずだろう」
「鋭いな」
鋭いもなにも、ただの事実だろう。
人間をバカにしてるのか?
百歩譲ってそこらの人間をバカにするのはいいとして、俺までバカにしないで欲しいものだ。仮に俺が「そこらの人間」と同レベルだったとしてもな。
俺は遠慮なく溜め息をつき、こう尋ねた。
「これからどうなるんだ?」
「前回と同じだ。好きに生きろ」
「は?」
てことはなんだ?
また時期がくれば、俺は肉塊に戻されるということなのか?
金髪はふんと鼻を鳴らした。
「審判の日は必ず来るものだ。お前が善良かそうでないかは関係がない」
「彼女は、堕落がどうとか言っていたぞ」
「それはお前の罪じゃない。お前が堕落した場合、罰を受けるのがそこの巫女というだけの話だ。お前の未来には影響しない。つまり、お前の行いが善良であろうが、そうでなかろうが、最後は必ず怪物になるんだ。一回で理解しろ」
「ふざけんなよ。地獄じゃねーか」
「そう呼びたければ呼べばいい。好きにしろ。俺の問題じゃない」
なんなんだこいつは。
つまり肉塊になるのが正解で、人間に戻るのは時間のムダってことなのか?
ということは、肉塊の次の段階があるのか?
「じゃ、そういうことで」
俺が次の質問を投げる前に、男はふっと姿を消した。
報告、連絡、相談は社会人の基本だというのに。こいつはそのどれも十分ではない。こんな態度では、社会でやっていけないぞ。
クソ。
女が、くりくりした瞳でじっと俺を見つめている。
ダメだ。
このままじゃ、前回と同じになる。
早く服を見つけなければ。
(続く)




