第9話「楽しそうだから」
マリナの一次オーディションが始まる、およそ一か月前。
その日も俺は、福岡の小さな町にある雑居ビルの三階で、モニターに並ぶ数字を眺めていた。
ここが、資産運用会社NESTの事務所だ。
エレベーターのない古い建物で、一階は長いあいだ空きテナントのまま。二階には司法書士事務所が入り、三階を俺が使っている。
看板は出していない。人が訪ねてくることもない。
窓の外には、駅前のロータリーが広がっている。昼間だというのに人も車もまばらで、地方では珍しくもない、見慣れた光景だった。
朝から動いていた銘柄も、昼を過ぎて落ち着いていた。含み益の欄を眺めながら、俺はマグカップに手を伸ばした。中身はとっくに冷めている。
あの子を作った夜から、三年が経っていた。
三年で、六億は十数億になった。
数字だけを見れば、上出来なんだろう。工場にいた頃の俺が知ったら、腰を抜かすかもしれない。片道一時間かけて通い、十年近く同じラインに立っていた。それでも一年で稼げる額は、たかが知れていた。
あの頃と比べて、俺が特別に賢くなったわけでもない。
ただ元手があった。それだけだ。
俺はマグカップを置き、椅子を回した。
もう一台のモニターに、あの子が映っている。
深紅の髪。黄金色の瞳。首元の黒いチョーカー。
正面、側面、背面が並んでいる。三面図の形に整えたのは、去年のことだった。
チョーカーは最後まで悩んだ部分だ。
何か一つ、印象に残るものが欲しかった。ネックレスもピアスも試した。どれも悪くはないが、決め手に欠けていた。首元に黒を入れてみたとき、初めて全体が締まった。
中央の金の意匠は、そこからさらに半年かけて形になった。
服はラフなままにした。着飾らせたくなかった。
年齢を決めた。身長を決めた。職業はフリーランスのデザイナーにした。
どれも後から思いついたことだった。
三年かけて、少しずつ足していった。
そうして足していくうちに、だんだん物足りなくなってきた。
――動いているところが見たい。
その考えが降りてきてから、消えなくなった。
喋らせたい。瞬きさせたい。首をかしげさせたい。
絵のまま置いておくのが、どうにも惜しかった。
俺には絵の才能がない。物語を書く才能もない。子供の頃からアニメもゲームも浴びるほど見てきたが、作る側に立ったことは一度もなかった。
この子だって、俺が描いたわけじゃない。
それでも、この子は俺の前に現れた。
なら、動かしてやりたかった。
調べてみると、こういう仕事を専門にしている会社がいくつもあった。
その中で見つけたのが、Nexus Liveという事務所だった。所属タレントの配信をいくつか流してみた。
一番よく喋る子がいた。天城レイナという名前だった。歌もゲームも司会も、何でもやる。相手が誰であっても、その相手まで面白く見せる。
この事務所は、人の見せ方を知っている。
俺はそう判断した。
顧問税理士に電話をかけ、紹介を頼んだ。
「投資先を探しているという体で構いませんので」
そう伝えると、先方はしばらく黙ったあと、承知しましたと答えた。
* * *
その男は、時間ちょうどに現れた。
私は会議室で立ち上がり、先に名刺を差し出した。
「Nexus Live代表の黒瀬リョータです。本日はお越しいただきありがとうございます」
相手も名刺を差し出す。
「神代ユウイチです。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
神代ユウイチ。四十一歳。福岡在住。NESTという資産運用会社の代表。
顧問税理士からの紹介だった。投資先を探している資産家が、挨拶に伺いたいと言っている。その程度の話だと、私は聞いていた。
だから、会議室には私一人だった。
神代の仕草は丁寧だった。スーツの仕立ても悪くない。声を張らず、必要以上に笑わない。腰を下ろした姿にも、この手の場への慣れが見えた。
二十分ほど業界の話をした。市場規模、競合、海外展開の見通し。
こちらが答えると、男は頷き、次の質問を重ねてきた。
筋の通った質問ばかりだった。
「――というわけで、御社に出資させていただきたいと考えております」
「ありがとうございます」
私は営業用の笑みを浮かべた。
「弊社としても、資金調達は常に課題です。具体的な金額と条件を伺えますか」
「はい」
男は鞄から一枚の紙を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
私はそれを手に取った。
金額の欄を見る。
五億円。
顔には出さなかった。出さなかったはずだ。
「……失礼ですが、この金額でよろしいのでしょうか」
「はい」
「議決権や経営への関与について、ご希望はありますか」
「議決権は要りません」
男は即答した。
「Nexus Liveさんの運営に口を出すつもりもありません。細かい形式は、詳しい方にお任せしますけど」
私は紙から目を上げた。
五億を出して、経営には関与しないと言っている。
この業界で十年以上やってきたが、こんな話は聞いたことがなかった。
金を出す人間には、必ず要求がある。席か、数字か、名前か。ここまで何も求めないなど、あり得ない。
あり得ないのに、目の前の男は当たり前の顔で座っていた。
「神代様」
私は紙を置いた。
「では、何をお求めなんですか」
男は少しだけ姿勢を正した。
「条件は、一つだけです」
鞄から、もう一枚の紙を取り出す。
テーブルに置かれたそれを見て、私は言葉を失った。
キャラクターデザインだった。
深紅の髪の若い女性。黄金色の瞳。首には黒いチョーカーを巻いている。
正面。側面。背面。三方向から並べられていた。
「この子を、御社でデビューさせてください」
会議室が静かになった。
私は紙を見て、男を見て、もう一度紙を見る。
「……こちらのデザインは、どちらの制作会社に」
「自分で作りました」
「は」
素の声が出た。
「画像生成AIで作りました。暇な時間にいじっていたら、こういうのが出てきまして」
男は照れたように口の端を上げた。
私はもう一度、紙に目を落とす。
配色が整っている。シルエットも立っている。三面図としても破綻がない。
少なくとも、素人が遊びで出したものには見えなかった。
「制作費と運用費は、こちらで全額持ちます。出資とは別枠で」
「別枠、ですか」
「はい。この子にかかる分で、御社に負担が出るのは筋が違うと思いますので」
私は口を閉じた。
五億が入る。議決権の要求はない。経営にも口を出さない。新しいタレントが一人増えて、その経費はこちらの財布から一円も出ない。
断る理由が、ビジネス上ひとつも見当たらなかった。
そのことが、逆に落ち着かなかった。
「失礼ですが」
私は言葉を選んだ。
「なぜ、そこまでしてこの子をデビューさせたいんですか」
男はしばらく黙っていた。
それから答えた。
「楽しそうだから、ですかね」
「……は」
「この子を作ってる時間が、めちゃくちゃ楽しかったんです。それで思って。これ、動いたらもっと面白いんじゃないかって」
あっけらかんとした声だった。
私は待った。
この後に何か続くはずだった。事業としての勝算。市場の分析。回収の見込み。何か一つくらいは出てくるはずだった。
何も出てこなかった。
男は言い終えると、それきり黙っていた。
――何を言っているんだ、この人は。
顔には出さない。長年やってきた仮面がある。
だが、頭の中では判断材料が一つずつ消えていくのがわかった。
要求があれば読める。狙いがあれば警戒できる。裏があるなら探せばいい。
何もないと言われると、何もできない。
「……少し、お時間をいただけますか」
そう言うのが精一杯だった。
「社内で検討させていただきます」
「もちろんです」
男は頷いた。
「東京には、いつまでご滞在ですか」
「三週間ほどはこちらにいます」
即答だった。
「株主総会がいくつか入っていまして。それが終わるまでは」
「では、その間にご返事を差し上げます」
「急ぎませんので」
男は軽く手を振った。
「特に予定が詰まっているわけでもないですし。なんなら延ばしてもいいですよ」
私は返す言葉を探した。
交渉の場で相手に時間の制約がないというのは、厄介だった。こちらが駆け引きに使える焦りが、向こうにはひとつもない。
急かされないことが、これほど落ち着かないとは思わなかった。
「あ、それと」
私が立ち上がりかけたところで、声がかかった。
「条件を飲めないということでしたら、それはそれで構いません。他を当たりますので」
私は動きを止めた。
振り返ると、男は変わらない顔で座っていた。
脅している調子ではなかった。駆け引きをしているようにも見えない。ただ事実を告げただけという顔だった。
「……そうですか」
短く答え、扉に手をかけた。
廊下に出て扉を閉めてから、息を吐いた。
この規模の話を断る事務所があるとは思えない。
つまり、選ばれているのはこちらの方だ。
私は資料を持ち直した。
紙の中で、深紅の髪の女の子が静かにこちらを見ていた。
* * *
Nexus Liveを訪れてから、数日が過ぎた。
ホテルの部屋は、思っていたより狭かった。
窓の外はビルばかりで、空がほとんど見えない。俺はネクタイを緩め、ベッドの端に腰を下ろした。
午前中は株主総会に出ていた。
保有している銘柄のうち、いくつかはこの時期に集中する。せっかく東京にいるのだから、顔を出しておこうと思った。
会場は広かった。壇上では誰かが業績を説明していた。数字が読み上げられ、質問が出て、回答があり、拍手が起きる。
途中から、俺は何も聞いていなかった。
スマホを開き、あの子の三面図を眺めていた。
こういう場に俺がいることは、たぶん間違っていない。
まとまった金を投じている以上、会社が何を考え、これから何をしようとしているのかを知っておく意味はある。
とはいえ、正直なところ面白くはなかった。
会社が利益を出しているうちは持つ。数字が崩れれば、切る。
経営について俺が意見したところで、所詮は外から眺めている素人の考えだ。
それよりも、頭の中にあったのはマリナのことだった。
振り向いたとき、長い髪はどんなふうに揺れるのか。どんな顔で笑い、どんな声で喋るのか。
そっちを考えている方が、よほど楽しかった。
株主総会が終わったあと、せっかく東京まで来たのだからと、秋葉原まで足を伸ばした。
二十代の頃に、一度だけ来たことがある。
あの頃は、細い路地にパソコンの部品や正体のわからない電子機器が並び、店を覗くだけで時間が潰れた。
けれど、駅を出てしばらく歩いたところで、俺は足を止めた。
派手な衣装を着た女の子が、通りのあちこちで看板を掲げている。
「……こんなに多かったか?」 見渡せば、アニメやゲームの看板も、専門店も変わらず並んでいる。
昔とまったく違う街になったわけではない。
ただ、あの頃はメイドカフェと呼ばれていたものが、今はコンカフェという名前で、以前より街の表へ出てきたように見えた。
歩き疲れたところで、少し遅い昼を取るため、人形町へ向かった。
目当ては、以前グルメドラマで見た天丼の店だった。せっかく東京まで来たのだから、こういう機会でもなければ行かない店に行ってみようと思った。
運ばれてきた天丼を見て、思わず目を丸くする。
衣が、黒い。
海老も野菜も濃い色のたれをまとい、丼からはみ出すように盛られている。見た目ほど味は重くなく、香ばしいたれが飯によく合った。
「うまいな。見た目より、全然くどくない」
独り言が漏れた
もう一口かき込む。
わざわざ人形町まで来た甲斐はあった。東京の飯も、やっぱりうまいが・・・
(まあ、飯なら福岡も負けとらんな)
* * *
ホテルの部屋に戻ってから、俺はノートパソコンを開いた。
調べたかったことがあった。
絵を動かすには、モデラーという職種の人間が要るらしい。イラストをパーツごとに分け、関節を作り、動く仕組みを組み込む。同じ絵でも、誰が触るかで別物になるという話だった。
サンプル動画をいくつも再生した。
どれも上手いのだと思う。素人目には、違いがよくわからなかった。
三十本ほど見たところで、手が止まった。
髪だった。
振り向いたときに、髪が遅れて追いついてくる。止まる直前に、ほんの少し戻る。
その一瞬だけ、絵が絵ではなくなった。
俺は動画を巻き戻し、もう一度再生した。何度も繰り返した。
制作者の名前を探す。
矢野ユタカ。フリーランス。所属なし。
過去の実績を追ってみると、名前を聞いたことのあるタレントが何人も並んでいた。この人が触ったモデルは、業界でもかなり評価されているらしい。
連絡先は、サイトの隅に小さく書かれていた。
俺はメールを打った。
依頼したい仕事があること。まだ何も決まっていないこと。それでも一度会って、話を聞いてほしいこと。
送信ボタンを押す直前、少し考えて三面図を添付した。
返事は翌朝に来た。
短い文面だった。
――これ、生成AIで作ったものですよね?
俺は少し笑った。
見る人が見れば、分かるものなのか。
そう思いながら、返信を打った。




