第8話「Voice」
翌日の昼過ぎ、アズサはノートパソコンで資料を開き直した。
昨夜はスマホの小さな画面で、名前と姿を追うだけで精いっぱいだった。大きな画面で見ると、三面図の細部までよくわかる。
左側には、プロフィール欄があった。
身長。年齢。誕生日。血液型。職業。
20歳。160cm。7月11日生まれ。A型。フリーランスのデザイナー。
その下に、もう一つだけ枠がある。
性格。
そこだけが空欄だった。
「……嘘でしょ」
思わず声が漏れた。
資料を最後まで送る。色番号の一覧。瞳の拡大図。チョーカーの展開図。細部まで作り込まれているのに、性格については一文字もない。
メールの本文も、昨夜見た通りだった。
音声表現を音源データにて提出。締め切りは一週間後。
それだけ。
台本すらない。
「……セリフもないの?」
六年間、オーディションは何十回も受けてきた。資料が薄いことも、キャラクターシートが一枚しかないこともあった。
それでも、読むための台本は用意されていた。
今回は、何を喋るかから自分で決めろということらしい。
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
しばらくしてから体を起こすと、画面の中の女の子は変わらずこちらを見ていた。
情報がないなら、絵から読むしかない。
絵からなら、読める。
(……むしろ)
それは、声と同じくらい長く続けてきたことだった。
* * *
アズサは机にコピー用紙を広げ、三面図を横に置いた。
鉛筆を持つと、頭より先に手が動き始める。
まず、髪。
背中の下まで届く長さを、高い位置で束ねている。下ろしたまま机に向かえば、毛先は邪魔になる。手元にも落ちてくる。
だから上げている。
見せるための髪型ではない。
次に、服。
黒のキャミソールに、肩から落ちたベージュのシャツ。デニム。裸足。
どれも体を締めつけず、飾り立ててもいない。誰かに見られるために選んだ格好には見えなかった。
けれど、一つだけ違うものがある。
首元の黒いチョーカー。
中央には金の意匠があり、資料には寸法や留め具の位置、広げた状態の展開図まで載っている。
この子の持ち物の中で、これだけが明確に選ばれていた。
(無頓着なんじゃない)
必要なものしか持たない。その代わり、必要だと決めたものには手を抜かない。
紙の上に少しずつ線が増えていく。
最後に、目を描いた。
黄金色の、少し切れ長な瞳。まっすぐこちらを向いている。
鉛筆が止まる。
怒っているわけでも、笑っているわけでもない。冷たいとも違う。
何かを訴えるでもなく、ただ見ている。
* * *
その夜、アズサはいつも通りホテルのフロントに立っていた。
チェックインをさばき、鍵を渡し、館内を説明する。体は慣れた手順を繰り返しているのに、頭の半分は画面の中の女の子から離れない。
深夜一時を回り、ロビーが静かになる。
カウンターの内側で、備品の発注に使うメモ帳の余ったページを開いた。
この子なら、何を言うだろう。
群れない。必要なものしか持たない。
配信をするなら、誰に向かって喋るのだろう。
鉛筆を動かしかけたところで、自動ドアが開いた。
「……すみません。チェックイン、お願いします」
三十代くらいのスーツ姿の男性だった。鞄を提げた腕が、重さに負けたように下がっている。
「いらっしゃいませ。お名前をお伺いできますか」
笑顔を作り、いつものように応対する。
手続きの間、男性はほとんど喋らなかった。カウンターに肘をつき、ぼんやりと掲示物を眺めている。
「こちらが鍵になります。エレベーターは右手奥です」
「……どうも」
男性は背中を丸めたまま、エレベーターへ消えていった。
アズサは、その背中をしばらく見送った。
あの人に、この子なら何を言うだろう。
頑張ってください、ではない。お疲れ様です、でもない。
もっと短くて、相手に何も求めない言葉。
浮かびかけたものは、まだ形にならなかった。
結局、その夜に書けたのは五本分のセリフだった。
どれも、それらしくはあった。
夜勤を終えて部屋へ戻ると、アズサはカーテンを閉め切った。
六畳一間のワンルームに、防音設備などあるはずもない。それでも朝の八時なら、住人の大半は出勤したあとで、この部屋は一日の中でも静かになる。
クローゼットを開け、中の服を左右へ押しやった。
空いた隙間に丸椅子を置く。膝の上には、長く使い続けてきたノートパソコン。手には、六年前から使い続けているコンデンサーマイク。
布に囲まれた空間は、簡易的な吸音室になる。専門学校の先生が冗談めかして教えてくれた、金のない人間の防音術だった。
扉を内側から引き寄せると、画面の明かりだけが狭い暗闇に残った。
アズサは録音ボタンを押す。
「こんばんは。マリナです」
低く、抑えた声。
二十歳の女性。落ち着いていて、群れず、必要なものしか持たない子。
その像に合わせて声を作る。
六年間、何度も繰り返してきた作業だった。
三十分ほどで、五本を録り終えた。
悪くない。むしろ、かなりうまく録れたと思う。
ところが、その日の夕方に聞き返すと、三本目で指が止まった。
最初から流し直す。
声は狙い通りに出ている。抑揚も間も崩れていない。オーディション用の音源としては、自分の中でも上位に入る出来だった。
なのに。
(……なんか違う)
ヘッドホンを外しても、何が違うのかはわからなかった。
* * *
次の日も、その次の日も録り直した。
もう少し低く。もう少し力を抜いて。語尾を落とし、間を長く取る。
どれもうまく録れた。
そして、どれも同じだった。
四日目の夜。
アズサはクローゼットの中で丸椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。
空気がこもり、額には汗が滲んでいる。締め切りまで、あと三日。
このまま出しても、たぶん一次は通る。
音源審査は、いつも通る。
(……そうじゃなくて)
扉を押し開けると、部屋の空気が一気に流れ込んできた。
机へ戻り、また鉛筆を持つ。
行き詰まった時は、いつもそうしてきた。
紙の上に、あの子を描く。
束ねた髪の根元。落ちてくる毛先。肩の線。シャツの襟。
最後に瞳の中へ光を置いたところで、手が止まった。
役の輪郭は、もう見えている。
何を選び、どんな目で人を見るのか。そこは最初の日から迷っていない。
なのに、声だけが決まらなかった。
近づこうとするほど、遠ざかっていく。
不意に、白川さんの声がよみがえった。
――アズサちゃんの声で再生されたの。私の頭の中で。
続いて、あの時の少し照れたような笑顔まで浮かぶ。
――勝手にね。この子が喋る声、アズサちゃんの声だったのよ。
(私の、声……)
低く作った声ではない。マリナらしく聞かせるために整えた声でもない。
白川さんは、一度もそんなことを言っていなかった。
ただ、アズサの声だと言った。
アズサは紙を見つめたまま、これまでの音源を思い返した。
あれは全部、聞かせようとしていた。
この声で、この抑揚で、この間で。きちんと届くように、うまく伝わるように。
六年かけて身につけた技術を、すべて乗せていた。
どれも上手く録れていた。落ち着いた低音で、抑揚を抑え、隙のないクールな女性を演じている。
けれど、そこには優しさがなかった。
正確には、優しく聞かせようとする気配だけがあった。
(……違う)
この子は、優しいことを言おうとはしない。
ただ見ている。見て、気づいたことを、そのまま口にする。
だから静かでも、突き放してはいない。
冷たくない静けさ。踏み込みすぎない優しさ。
その声を、新しく作る必要なんてなかった。
自分の声の中から、余計なものを取り除けばいい。
アズサは、書いていたセリフに線を引いた。
新しい紙へ、短く、飾らず、言い切りすぎない言葉を書いていく。
二行目で手が止まった時、あの夜の男性の丸い背中が浮かんだ。
形にならなかった言葉が、今度はするりと出てきた。
三十分ほどで、五本分が埋まった。
翌朝、アズサは再びクローゼットへ入った。
扉を引き寄せ、目を閉じて息を吐く。
声を作らない。
ただし、何もしないわけではない。
張らず、飾らず、相手を励まそうともしない。
自分の声のまま、マリナなら残す温度だけを選ぶ。
感情を足すのではなく、余計なものを削る。
残ったものだけを、そのまま出す。
録音ボタンを押した。
「こんばんは。マリナです」
自分でも驚くほど静かな声だった。
作っていない。地声とほとんど変わらない。
それなのに、これまでのどの音源とも違って聞こえた。
「今日、疲れた顔してるね」
誰か一人へ向けたわけでもない言葉が、狭い暗闇に落ちる。
それでも、その先には確かに誰かがいる気がした。
「夜中まで頑張った」
褒めてはいない。ただ、そうだったと認めているだけ。
「とりあえず、おやすみ」
声が、服に囲まれた小さな空間を静かに満たしていく。
誰も聞いていない。誰も見ていない。防音設備もない六畳一間の、狭い箱の中。
それでも、アズサは確かにそこにいた。
深紅の髪の女の子と、二人きりで。
五本を録り終え、最初から聞き返した。
今度は最後まで止めなかった。
(……これだ)
ヘッドホンを外し、椅子の背にもたれる。
クローゼットの中は、すっかり蒸していた。
まだ何かが足りない気はする。
けれど、それが何なのかは、いくら考えてもわからなかった。
* * *
提出フォームを開いたのは、締め切りの前日だった。
夜勤の準備をする前、まだ乾ききっていない髪のまま、ノートパソコンの前に座る。
一週間かけ、何十回も録り直した中から選んだ五本を、一つずつ添付していく。
カーソルを送信ボタンへ重ねたところで、指が止まった。
落ちても、何も変わらない。
今まで通り夜勤に入り、レッスンへ通う。それだけだ。
わかっているのに、押せなかった。
画面の隅では、三面図の女の子が静かにこちらを見ている。
――何も言わなくていい。
そんな声が聞こえた気がした。
「……はは」
自分で書き、自分で録った声だ。当たり前だった。
それでも、少しだけ楽になる。
「……行くよ」
誰にともなく呟いて、アズサは送信ボタンを




