第7話「彼女の名前」
目を覚ますと、昼を過ぎていた。
カーテンの隙間から、まだ高い太陽の光が差し込んでいる。
アズサはしばらく、天井を見つめたまま動かなかった。
頭の中は驚くほど静かだった。昨夜までの迷いが、嘘のように消えている。
スマホを手に取る。通知欄は空白だった。白川さんからの連絡も届いていなかった。
当然だ。返事を急かされているわけではない。
(急がなくていいから)
白川さんの声が、耳の奥によみがえる。
だからこそ、自分から動くしかなかった。
アズサはベッドの上に座り直し、メッセージアプリを開いた。
白川さんとのやり取りには、シフトの確認やレッスンの日程変更など、事務的な文面ばかりが並んでいる。
一番下の入力欄に指を置いた。
――受けます。
打った文字を何度か見返す。
短すぎるだろうかと一瞬迷ったけれど、ほかに付け足す言葉が見つからなかった。
送信ボタンを押す。すぐに既読がつき、数秒後には電話がかかってきた。
* * *
「もしもし」
「アズサちゃん、ほんとにいいの?」
電話越しの声には、少し前のめりな響きがあった。
「はい」
「よし」
短い一言に、安堵のようなものが混じっていた。
「じゃあ、こっちで出しとくね。あとは向こうから連絡来ると思うから」
「お願いします」
「うん。じゃ、また」
通話が切れても、アズサはスマホを両手で持ったまま動けなかった。
自分から動いたのは、これだけ。
あとは待つしかない。
* * *
それから数日、何もなかった。
いつも通りシフトに入り、いつも通りレッスンに通い、いつも通り絵を描いて眠った。
スマホを気にする回数だけが、少しずつ増えていく。
五日目の夜、通知が鳴った。
白川さんからのメッセージだった。
――一次の案内来たよ。転送するね。
続けて、事務的な件名のメールが転送されてきた。
開こうとしたところで、画面が着信表示に切り替わった。
「もしもし」
「見た?」
「今、開くところです」
「一次は音源提出のみよ。アズサちゃん得意でしょ」
軽い調子だった。
「……得意、なんですかね」
「得意でしょ。ずっと通ってるんだから」
通ってはいる。けれど、その先ではいつも落ちているだけだ。
言い返そうとして、やめた。
「締め切りは一週間後。あとは中身読んで」
「はい」
「じゃ、頑張って」
今回も、通話はあっさり終わった。
* * *
アズサは転送されたメールを開いた。
件名は「一次選考についてのご案内」。
本文は数行しかなかった。
下記キャラクターの音声表現を、音源データにてご提出ください。
締め切りは一週間後。
書かれていたのは、職業だけだった。
フリーランスのデザイナー。
ほかには、画像が一枚添付されていた。
アズサはそれをタップした。
深紅の髪が、画面いっぱいに広がる。
高い位置で結ばれたポニーテールは、毛先が背中の下まで流れている。
黄金色の瞳。
首元には黒いチョーカー。中央には、金の目の意匠が据えられている。
黒のキャミソールに、ベージュのシャツを肩から落として羽織っている。ボトムはデニム。飾り気のない、ラフな格好だった。
正面、側面、背面。同じ人物が、三つの角度から並んでいる。
画面の下に、名前が記されていた。
「マリナ」
アズサは、もう一度彼女の顔を見た。
その名前が、目の前の彼女に静かに重なった。




