↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第一章 それぞれの選択
PR
6/45

第6話「続けるということ」

 窓の外が、少しずつ白み始めていた。


 夜勤の終わりが近づくと、ロビーの空気が変わる。清掃スタッフが入り、朝食会場の準備が始まり、眠っていた建物がゆっくりと動き出す。


 アズサは引き継ぎの書類をまとめながら、何度も同じ行を読み返していた。


 頭が、まだ昨日のところにいる。


 結局、朝になっても答えは出ていない。


 自動ドアが開き、朝の空気が流れ込んでくる。


「おはようございます」


 支配人の西村だった。いつも通り、朝早い出勤だ。


「おはようございます」


 アズサは書類から顔を上げ、頭を下げた。


 西村はカウンターの前で足を止めると、少し首をかしげた。


「おや。中村さん、何かお悩みですか」


 思わず手が止まった。


「……いえ。大したことではないです」


「そうは見えませんが」


 あっさりと返された。


 責める調子ではない。ただ事実を確認しただけという言い方だった。


 アズサは何か言おうとしたものの、言葉が見つからず曖昧に笑った。


 西村はそれ以上、踏み込んでこなかった。


「何にお悩みかはわかりませんが」


 鞄を持ち直しながら、そう言った。


「続けるということは、大事なことですよ」


 アズサは顔を上げた。


 何と答えればいいのかわからなかった。


 西村はほんの少し間を置き、付け加えた。


「もちろん、先日の件とは別のお話ですよ」


 アズサの喉が詰まった。


「では、失礼します」


 西村は軽く会釈をして、そのまま事務所の扉の向こうへ消えていった。


 扉が閉まる音が、静かなロビーに小さく響く。


 アズサはしばらく、その扉を見つめていた。


 あの人は、何も知らないはずだった。


 昨日の三面図のことも、白川さんのことも、オーディションのことも、何ひとつ話していない。


 それなのに、まるでわかっているような顔で行ってしまった。


 しかも――正社員として来てほしいと言っている当の本人が、自分の側へ引き寄せるような言葉をひとつも口にしなかった。


 その意味を、アズサはまだうまく言葉にできなかった。


 気づけば、足が動いていた。


 書類を抱えたまま、事務所の扉を軽くノックする。


「はい、どうぞ」


 扉を開けると、西村は上着を脱いでハンガーにかけているところだった。


「おや。中村さん、どうされました」


「あの」


 言いかけて、少し詰まった。


 何を言いに来たのか、自分でもよくわかっていなかった。


「……正社員の件、なんですけど」


 西村の手が止まる。


「まだ、考えています」


 言ってしまってから、アズサは慌てて付け足した。


「すみません。こんなに待たせてしまって」


 部屋の空気が、ふっと静かになった。


 西村はハンガーを掛け終えると、こちらに向き直った。


 そして、にこりと笑った。


「ゆっくり考えてください」


 いつもと、まったく同じ言葉だった。


「……はい」


 アズサは深く頭を下げ、扉を閉めた。


 ロビーに戻ると、朝の光がガラス越しに床を照らしていた。


 結論は、まだ何も出ていない。


 それなのに、胸のあたりが少しだけ軽くなっていた。



  * * *



 朝の電車は混んでいた。


 夜勤明けの体で吊り革につかまりながら、アズサは窓の外を眺めていた。これから一日が始まる人たちの中に、一日を終えた人間が一人だけ混ざっている。六年間、ずっとこの感じだった。


 頭の中では、さっきの言葉が回り続けていた。


 ――続けるということは、大事なことですよ。


 続ける。


 その一言だけが、妙に頭に残っていた。


 思えば、続けてきただけだった。


 一次を通っては二次で落ち、それでもまた次のオーディションに応募する。役を年下の子に持っていかれても、また応募する。事務所での扱いが薄くなっていくのを黙って見ながら、それでも応募する。


 何かを掴んだことなんて、一度もない。


 ただ、やめなかっただけだ。


(それだけで、いいのかな)


 アズサは目を閉じた。


 白川さんは、はっきりそう言った。


 ――これ、声優の仕事じゃないと思ってる。


 そうだろうな、と思う。畑が違う。経歴にもならない。VTuberをやったからといって、次の二次選考で勝てるわけでもない。


 それでも、まぶたの裏には昨日の三面図が浮かんだ。


 色を見て、髪を見て、目を見た。指が勝手に線をたどろうとした、あの感覚。


 けれど、朝まで消えなかったのは、仕事になるかどうかでも、経歴になるかどうかでもなかった。


(どんな声で、喋るんだろう)


 それだけだった。


(……私、まだ諦めてないんだ)


 電車が揺れ、誰かの鞄が肩に当たった。「すみません」と小さく言われ、「いえ」と返した。


 まだ、声のことを考えている。


 それなら。


(もう、仕事を選べる立場でもないし)


 自分の中で、そう言い切ってみる。


 卑屈になったわけではなかった。ただの事実確認だった。今の自分に選択肢が並んでいるわけではない。目の前に来た一つを、受けるか受けないか。それだけだ。


 なら、これも続けることの一つなのかもしれない。


(やるだけ、やってみよう)


 決めてしまうと、あっけないほど静かだった。


 電車が駅に着いた。ドアが開き、人が流れ出していく。


 アズサはその流れに押され、ホームに降りた。



  * * *



 部屋に戻り、シャワーを浴びた。


 髪も乾かさないまま、ベッドに倒れ込む。


(あ。白川さんに、連絡……)


 そこまで考えたところで、意識が途切れた。


 昨日は、あんなに目が冴えていたのに。


 その日、アズサは泥のように眠った

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。