第6話「続けるということ」
窓の外が、少しずつ白み始めていた。
夜勤の終わりが近づくと、ロビーの空気が変わる。清掃スタッフが入り、朝食会場の準備が始まり、眠っていた建物がゆっくりと動き出す。
アズサは引き継ぎの書類をまとめながら、何度も同じ行を読み返していた。
頭が、まだ昨日のところにいる。
結局、朝になっても答えは出ていない。
自動ドアが開き、朝の空気が流れ込んでくる。
「おはようございます」
支配人の西村だった。いつも通り、朝早い出勤だ。
「おはようございます」
アズサは書類から顔を上げ、頭を下げた。
西村はカウンターの前で足を止めると、少し首をかしげた。
「おや。中村さん、何かお悩みですか」
思わず手が止まった。
「……いえ。大したことではないです」
「そうは見えませんが」
あっさりと返された。
責める調子ではない。ただ事実を確認しただけという言い方だった。
アズサは何か言おうとしたものの、言葉が見つからず曖昧に笑った。
西村はそれ以上、踏み込んでこなかった。
「何にお悩みかはわかりませんが」
鞄を持ち直しながら、そう言った。
「続けるということは、大事なことですよ」
アズサは顔を上げた。
何と答えればいいのかわからなかった。
西村はほんの少し間を置き、付け加えた。
「もちろん、先日の件とは別のお話ですよ」
アズサの喉が詰まった。
「では、失礼します」
西村は軽く会釈をして、そのまま事務所の扉の向こうへ消えていった。
扉が閉まる音が、静かなロビーに小さく響く。
アズサはしばらく、その扉を見つめていた。
あの人は、何も知らないはずだった。
昨日の三面図のことも、白川さんのことも、オーディションのことも、何ひとつ話していない。
それなのに、まるでわかっているような顔で行ってしまった。
しかも――正社員として来てほしいと言っている当の本人が、自分の側へ引き寄せるような言葉をひとつも口にしなかった。
その意味を、アズサはまだうまく言葉にできなかった。
気づけば、足が動いていた。
書類を抱えたまま、事務所の扉を軽くノックする。
「はい、どうぞ」
扉を開けると、西村は上着を脱いでハンガーにかけているところだった。
「おや。中村さん、どうされました」
「あの」
言いかけて、少し詰まった。
何を言いに来たのか、自分でもよくわかっていなかった。
「……正社員の件、なんですけど」
西村の手が止まる。
「まだ、考えています」
言ってしまってから、アズサは慌てて付け足した。
「すみません。こんなに待たせてしまって」
部屋の空気が、ふっと静かになった。
西村はハンガーを掛け終えると、こちらに向き直った。
そして、にこりと笑った。
「ゆっくり考えてください」
いつもと、まったく同じ言葉だった。
「……はい」
アズサは深く頭を下げ、扉を閉めた。
ロビーに戻ると、朝の光がガラス越しに床を照らしていた。
結論は、まだ何も出ていない。
それなのに、胸のあたりが少しだけ軽くなっていた。
* * *
朝の電車は混んでいた。
夜勤明けの体で吊り革につかまりながら、アズサは窓の外を眺めていた。これから一日が始まる人たちの中に、一日を終えた人間が一人だけ混ざっている。六年間、ずっとこの感じだった。
頭の中では、さっきの言葉が回り続けていた。
――続けるということは、大事なことですよ。
続ける。
その一言だけが、妙に頭に残っていた。
思えば、続けてきただけだった。
一次を通っては二次で落ち、それでもまた次のオーディションに応募する。役を年下の子に持っていかれても、また応募する。事務所での扱いが薄くなっていくのを黙って見ながら、それでも応募する。
何かを掴んだことなんて、一度もない。
ただ、やめなかっただけだ。
(それだけで、いいのかな)
アズサは目を閉じた。
白川さんは、はっきりそう言った。
――これ、声優の仕事じゃないと思ってる。
そうだろうな、と思う。畑が違う。経歴にもならない。VTuberをやったからといって、次の二次選考で勝てるわけでもない。
それでも、まぶたの裏には昨日の三面図が浮かんだ。
色を見て、髪を見て、目を見た。指が勝手に線をたどろうとした、あの感覚。
けれど、朝まで消えなかったのは、仕事になるかどうかでも、経歴になるかどうかでもなかった。
(どんな声で、喋るんだろう)
それだけだった。
(……私、まだ諦めてないんだ)
電車が揺れ、誰かの鞄が肩に当たった。「すみません」と小さく言われ、「いえ」と返した。
まだ、声のことを考えている。
それなら。
(もう、仕事を選べる立場でもないし)
自分の中で、そう言い切ってみる。
卑屈になったわけではなかった。ただの事実確認だった。今の自分に選択肢が並んでいるわけではない。目の前に来た一つを、受けるか受けないか。それだけだ。
なら、これも続けることの一つなのかもしれない。
(やるだけ、やってみよう)
決めてしまうと、あっけないほど静かだった。
電車が駅に着いた。ドアが開き、人が流れ出していく。
アズサはその流れに押され、ホームに降りた。
* * *
部屋に戻り、シャワーを浴びた。
髪も乾かさないまま、ベッドに倒れ込む。
(あ。白川さんに、連絡……)
そこまで考えたところで、意識が途切れた。
昨日は、あんなに目が冴えていたのに。
その日、アズサは泥のように眠った




