第5話「この子の声」
「お待たせしました。ブレンドでございます」
店員がテーブルに二つのカップを置いていった。
湯気とともに香りが立ち上る。ひと息吸い込むだけで、少し頭が冴える気がした。
「ありがとうございます」
カップを引き寄せながら、アズサは白川の手元を見た。
白川がノートパソコンを開き、画面をこちらへ向ける。
「これなんだけどね」
アズサは、カップに伸ばしかけた手を止めた。
画面に映っていたのは、一人の女の子だった。
三面図。正面、横、背面。
深紅の長い髪を、高い位置でポニーテールに結い上げている。黒のキャミソールに、ラフに羽織ったベージュのシャツ。飾り気はほとんどない。
そして、金色の瞳。
「……あ」
声が漏れた。
目が離せなくなった。
最初に来たのは、色だった。赤と金。ともすれば喧嘩しそうな組み合わせなのに、間に黒が挟まることで全体が落ち着いている。
チョーカーだ。細い黒のチョーカーが、首元で全体を締めている。
あれがなかったら、たぶん散らかって見えていた。
次に、髪。
ポニーテールの束が、ただ垂れているのではなく、根元から毛先へかけて重心が移っている。動いた直後の形をしていた。この子はさっきまで振り向いていたのか、歩いていたのか。とにかく、静止していない。
一枚の絵だけで、そこまで伝わってくる。
そして、目。
アズサは思わず、画面に少し顔を近づけた。
切れ長で、まつ毛は多くない。媚びる形をしていない。それなのに、視線はこちらへまっすぐ向けられている。感情の温度はわからない。
笑っていない。怒ってもいない。ただ、見ている。
(……この子、何を考えてるんだろう)
考えた瞬間、指先が勝手に動いた。
ペンを握るときの動きだった。テーブルの上で、意味もなく人差し指が線を引いていた。慌てて手を引っ込める。
描きたい、と思ってしまった。
毎日誰にも見せない絵を描いてきた手が、勝手にそう反応していた。
見た人の手まで動かしてしまう絵を、アズサはあまり知らなかった。
「すごい……」
気づけば、そう言っていた。
「この子、誰が描いたんですか」
「さあ。そこまでは書いてなかったな」
白川がカップに口をつけながら答える。
アズサはもう一度、画面に目を戻した。何度見ても、目のところで引き止められる。
誰なんだろう、この子は。どんな声で喋るんだろう。
名前は。年齢は。何をしている子なんだろう。
頭の中では、勝手に人物像の組み立てが始まっていた。いつもの癖だった。
そのとき、視界の端に文字が入った。
画像の上、資料のヘッダー部分。
『新規VTuberプロジェクト オーディション開催のご案内』
アズサの思考が止まった。
「……VTuber?」
「そう」
白川は、あっさりと頷いた。
「新規のプロジェクトで、中の人を募集してるの。一般からプロまで、広く」
「一般から、ですか」
「うん。経歴も年齢も問わないって」
アズサはもう一度、画面の中の女の子を見た。
さっきまで頭の中で進んでいた組み立てが、ぴたりと途切れた。
VTuber。名前くらいは知っている。というより、知らないわけがない。ここ数年、その存在感は無視できないほど大きくなっている。
けれど、それを自分がやることとして考えたことは、一度もなかった。
白川はカップを置き、少しだけ姿勢を正した。
「……あのね、正直に言うとね」
その言い方に、アズサは顔を上げた。
「これ、声優の仕事じゃないと思ってる」
はっきりした声だった。
「畑が違う。うちの事務所も扱わない。これを受けたところで、アズサちゃんの経歴に一行も足されない」
言い訳をする気配は、まるでなかった。
白川さんはいつも、都合の悪いところから先に話す。六年間、この人はずっとそうだった。
「じゃあ、どうして」
アズサがそう聞くと、白川はほんの少し黙った。
それから、画面の中の女の子を指さした。
「この子を見たときにね」
「はい」
「アズサちゃんの声で再生されたの。私の頭の中で」
アズサは瞬きをした。
「……え」
「勝手にね。この子が喋る声、アズサちゃんの声だったのよ」
白川は少し笑った。照れているような笑い方だった。
「それだけ。理由なんて、それだけなの」
そう言って、まっすぐにアズサを見た。
「それだけだけど」
一拍置いて。
「受けてみない?」
アズサは、すぐに答えられなかった。
カップの中で、コーヒーがまだ湯気を立てている。
断る理由なら、いくつも浮かんだ。畑が違う。経歴にならない。事務所も扱わない。今日のレッスンだって、この後に控えている。
理屈で説明できる受ける理由は、一つもなかった。
それなのに、視線が勝手に画面へ戻る。
金色の瞳が、まだこちらを見ていた。
「……少し、考えさせてください」
やっと出てきたのは、その言葉だった。
「うん。いいよ」
白川はあっさりと頷き、ノートパソコンを閉じた。
「受けても受けなくても、私はアズサちゃんを責めないから。それだけは言っておく」
「はい」
「これね、マネージャーとしてじゃなくて、私個人が持ってきた話だから」
白川はカップを両手で包むように持ち、少し笑った。
「だから、断ってもらって全然かまわないの。何も変わらないし、明日からも普通に仕事するし」
アズサは頷きながら、その言葉が少し不思議だった。
マネージャーとしてじゃなく。
白川さんがそんな区別の仕方をしたのは、初めてだった気がする。
けれど深く考える前に、白川は腕時計に目をやった。
「あ、そろそろレッスンの時間じゃない?」
「あ、ほんとだ」
慌ててカップに手を伸ばす。残りを一息で飲み干し、少しむせた。
* * *
店を出ると、日はまだ高かった。
「じゃ、私こっちだから」
「はい。今日はありがとうございました」
「返事はいつでもいいからね。急がなくていいから」
そう言い残して、白川は事務所の方へ歩いていった。
その背中が角を曲がって消えるまで、アズサはなんとなく見送っていた。
急がなくていいから。
今朝も、同じ言葉を聞いた気がする。
* * *
深夜二時のロビーは、静まり返っていた。
チェックインの波はとっくに引いていた。あとは朝まで、たまに酔った客が帰ってくるくらいだろう。
アズサはカウンターの内側に立ったまま、正面の自動ドアをぼんやり眺めていた。
考えているのは、昼間のことだった。
あの三面図が、消えてくれない。
目を閉じても浮かぶ。深紅の髪。黒いチョーカー。それから、あの金色の瞳。
仕事のことで、こんなふうに頭がいっぱいになるのは久しぶりだった。
(……でも)
冷静になれば、話はそう単純ではない。
白川さんは正直だった。声優の仕事じゃない。経歴にならない。事務所も扱わない。全部、先に言ってくれた。
つまり、受かったところで、声優としての経歴は何も変わらないということだ。
いや、変わらないどころではない。もし受かったら、そちらに時間を取られる。オーディションの回数は減る。夜勤も削らなければならないかもしれない。
声優として何かを掴むために、声優ではない仕事を選ぶ。
筋が通っていない。
(それに、私が今やるべきことって)
正社員の話がある。返事も待たせている。
二十六歳。この年で、確実な方を選ばないことが、どれだけ許されるのか。
アズサはカウンターの端を指でなぞった。
六年間、ずっと同じことを考えてきた気がする。考えても結論が出なくて、それでも次の週にはレッスンへ行っている。
今回も、たぶんそうなる。
――そのはずだった。
なのに。
なぜか、まぶたの裏にあの子が戻ってくる。
名前も知らない。誰が描いたのかもわからない二次元の女の子。
(どんな声で、喋るんだろう)
その問いだけが、朝までずっと消えなかった。
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