第4話「Third Avenue Café」
午後の電車は、予想していたより空いていた。
ドア横の手すりに寄りかかり、アズサは流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
窓に映る自分の顔は、思ったより疲れて見えた。夜勤明けに三時間しか寝ていないのだから、当たり前だった。それにしても今日は、いつもより顔色が悪い気がする。
サードアベニューカフェ。
白川さんの声が、頭の中で何度も再生されていた。
考えないようにするほど、勝手に考えてしまう。
もし、本当に切られるのだとしたら。
事務所を離れることになる。どこにも所属せず、フリーの声優として活動できなくはない。だが、現実的にどうなのか。
オーディションの情報は、事務所を通して回ってくる。個人で受けられる案件もあるにはあるが、数は限られている。何より、六年やって何の実績もない二十六歳を、わざわざ拾ってくれる人がどれだけいるのか。
他の事務所に移るという手もある。
アズサは頭の中で、自分の経歴書を書いてみた。
所属六年。レギュラーなし。主要キャストとしての出演なし。単発の端役が数本。オーディションの一次通過は数え切れないほど。
(……一次通過って、実績になるのかな)
ならないだろうな、とすぐに答えが出た。
通過したかどうかを見る人はいない。受かったかどうかしか見られない。
そんなことは、六年前から知っていた。
電車が緩やかに減速し、再び動き出す。
窓の外を、見慣れたビルの列が流れていく。
――中村さんは、もう六年ですからね。
今朝の西村さんの声が不意によみがえった。
安定した収入。社会保険。退職金。世間から見れば、十分すぎるほど恵まれた話。
あの話を受ければ、来月から生活は変わる。夜勤明けにふらふらしながらレッスンへ行くこともなくなる。オーディションの結果を待ち、そのたびに落ち込むこともない。
毎月決まった日に、決まった額が振り込まれる。
それがどれほど楽なことか、想像するだけでわかってしまう。
わかってしまう自分が、少し嫌だった。
(……いや)
アズサは小さく首を振った。
まだ諦めたくない。
その気持ちだけは、六年間、一度も消えたことがなかった。
落ちるたびに削られ、もうずいぶん薄くなっているはずなのに。それでも次の週になると、なぜかレッスンへ向かう足が動いている。ボイトレの月謝も払い続けている。
説明のつかない話だと思う。
結果が出ないなら、やめた方がいい。誰に聞いてもそう言うだろう。実際、同期はほとんど辞めていった。まっとうな判断だと思う。
それでもアズサは、まだやめていない。
やめられない理由が、はっきりあるわけではなかった。
ただ、初めてマイクの前に立ったときの感覚を今も覚えている。
自分の声が、自分ではない誰かの言葉になる瞬間。あの感覚を、他のどこでも味わったことがない。
それだけだった。その感覚だけを、六年間ずっと抱えている。
(今日、なんて言われるんだろう)
覚悟しておこう、と思った。
落ち着いて聞こう。取り乱さないようにしよう。六年間お世話になりましたと、きちんと頭を下げよう。
白川さんに面倒をかけないように。
そこまで考えて、アズサは息を吐いた。
結局、自分がどうしたいのかは、まだ何も決まっていなかった。
電車が駅へ滑り込んでいく。
アズサは手すりから体を離し、扉の前に立った。
* * *
改札を抜けると、午後の日差しが目に刺さった。
見慣れた道だった。この六年、何百回と歩いた道。駅を出て大通りを渡り、三つ目の角を曲がれば事務所のビルが見えてくる。
今日はその手前で右に折れる。
歩きながら、また同じことを考えていた。
正社員の話を受けるなら、いつ返事をすればいいんだろう。あまり待たせるのも悪い。西村さんは急がないと言ってくれたけれど、それはいつまでも待ってくれるという意味ではないはずだ。
いや、その前に他の事務所を当たってみるべきなのかもしれない。小さなところなら、拾ってくれる可能性もゼロではない。けれど、そこで何が変わるのか。事務所が変わったところで、二次で落ち続ける理由が消えるわけではない。
(……実家、か)
長野の家が頭に浮かんだ。
帰れば、部屋はまだ空いている。母は何も言わずに迎えてくれるだろう。父は少し複雑な顔をするかもしれないが、それも数日で収まる。
向こうで仕事を探して、普通に暮らす。
それはたぶん、悪い人生ではない。
悪い人生ではないのに、想像すると足が重くなるのはなぜなんだろう。
答えは出ないまま、思考はまた最初へ戻る。正社員、新しい事務所、実家。三つの選択肢を順番に並べ替えているだけだった。
見慣れた道を歩きながら、アズサは同じ考えをぐるぐると巡らせていた。
角を曲がる。
細い通りの先に、青い看板が見えた。
『Third Avenue Café』
いつからそこにあるのかは知らない。事務所の裏だから何度も前を通っているはずなのに、入ったことは一度もなかった。
店の前で、アズサは立ち止まった。
深呼吸をひとつ。
落ち着いて聞こう。取り乱さないようにしよう。ちゃんとお礼を言おう。
自分に言い聞かせてから、扉を押した。
鈴の音が頭の上で小さく鳴る。
店内には豆を挽く音と、控えめな音楽が流れていた。昼下がりということもあり、思ったより静かだった。
「いらっしゃいませ。一名様ですか」
女性の店員が、笑顔で近づいてくる。
「あ、いえ。待ち合わせで」
そう答えながら、アズサは店内を見渡した。
窓際の席で、白川がこちらに手を振っていた。
* * *
「ごめんね、夜勤明けなのに」
「いえ、大丈夫です」
向かいの席に座ると、店員がすぐに水とおしぼりを置いていった。
白川はアズサの顔を見て、少し首をかしげた。
「アズサちゃん、なんか顔色悪いけど。どうかしたの」
言われて、思わず頬に手をやった。
言うつもりはなかった。落ち着いて聞こうと決めてきたはずだった。
それなのに、口が勝手に動いた。
「あの……いつもの事務所じゃなくて、こういうところに呼ばれたので」
「うん」
「もしかして、契約解除のお話なのかなって」
言い終わってから、顔が熱くなった。
白川がぱちぱちと瞬きをする。
それから、吹き出した。
「アズサちゃん、思い込みすぎ」
「え」
「違うわよ。そんな話じゃない」
白川は笑いながら、手をひらひらと振った。
「オーディションの話を持ってきたの」
アズサは、しばらく理解が追いつかなかった。
肩から力が抜けていく。あとに残ったのは、恥ずかしさだった。
「……もう。それなら電話で言ってくださいよ」
思わず口をついて出た。
「ここに来るまでの間、私、すごく考えちゃったんですから」
「あはは、ごめんごめん」
「実家に帰った方がいいのかなとか、そこまで考えました」
「そこまで!?」
白川が声を上げて笑った。近くの席の客が、ちらりとこちらを見る。
「ごめんって。詳しいことは、会って話した方がいいと思ったのよ」
「……絶対、面白がってましたよね」
「面白がってない、面白がってない」
そう言いながら、白川はまだ笑っていた。
アズサは小さくため息をつく。けれど、さっきまでの重苦しさはもう消えていた。
こんなやりとりをするようになって、もう六年になる。
白川はメニューを開き、こちらに向けた。
「とりあえず何か頼も。ここ、コーヒー美味しいらしいよ」
差し出されたメニューに目を落とす。
最初に見てしまったのは、値段の方だった。ブレンドが五百二十円。カフェラテが六百八十円。
六百八十円あれば、スーパーで二日分の食材が買える。
そんな計算が、勝手に頭の中を走る。もう癖になっていた。
「……ブレンドで」
「私も同じの。すみません、ブレンド二つ」
店員が下がっていく。
「あ、ここは私が出すから。気にしないで」
「えっ、いえ、そんな」
「呼び出したのは私だし、夜勤明けに来てもらってるんだから。それくらいはさせて」
言い返す間もなく、話は終わっていた。
白川は水を一口飲み、それから少しだけ声を落とした。
「これね、事務所を通さずに個人で受けられるオーディションなの」
「事務所を通さずに、ですか」
「うん。だから事務所の中で話すのもなんだしと思って、こっちにしたの」
アズサは、その言葉を頭の中で二度繰り返した。
事務所を通さずに受けるオーディション。そんな話を白川さんが持ってくるのは、初めてだった。
顔を上げると、白川は鞄からノートパソコンを取り出しているところだった。




