第3話「描きかけの女の子」
朝七時。夜勤明けの体は、いつも鉛のように重い。
引き継ぎの準備を終え、バックヤードで私物をまとめていたところに支配人が顔を出した。
「中村さん、おはようございます。今日もお疲れさまでした」
「あ、おはようございます」
支配人の西村ソウイチは、五十代半ばの穏やかな人だった。声を荒らげるところなど見たことがない。誰に対しても敬語を崩さず、アルバイトのアズサにも変わらず丁寧に接していた。
夜勤スタッフの入れ替わりが激しいこのホテルで、六年勤めているアズサをいつも気にかけてくれていた。
「あの、この前のお話なんですが」
その一言で、アズサの動きが止まった。
「正社員の件、考えていただけましたか」
やっぱりその話か、と思った。もう何度目になるだろう。
「中村さんは、もう六年ですからね。夜勤も慣れていますし、お客様の評判もいい。うちとしては、ぜひ社員として来ていただきたいんです」
西村の声には、少しの押しつけがましさもなかった。ただ純粋にアズサを買ってくれている。それがわかるからこそ、余計に胃の奥が重たくなる。
「……ありがとうございます」
やっとのことで声を絞り出した。
「でも、まだ……」
そこで止まった。
まだ、なんだろう。
語尾は自分でも聞き取れないほど細くなり、消えていった。
「急ぎませんので。ゆっくり考えてください」
西村はそう言って、あっさりと引き下がった。責めるでもなく、急かすでもない。その優しさが、なぜか一番つらかった。
断る理由をアズサは持っていなかった。安定した収入、社会保険、退職金。二十六歳。世間から見れば、それは十分すぎるほど恵まれた話だ。
断る理由があるとすれば、それは――まだ諦めたくないから。ただそれだけだった。
けれど、その「まだ諦めたくない」という気持ちは、六年間何一つ結果を出せていない自分が口にするには、あまりにも重すぎた。
だからいつも、語尾が消える。
制服から着替えてホテルを出ると、朝日がまぶしかった。
* * *
電車に揺られ、部屋にたどり着いた頃にはもう九時を回っていた。
六畳一間のワンルーム。散らかっているわけではないが、生活感だけが染みついた部屋。カーテンを閉めても、隙間から朝の光が漏れてくる。
シャワーを浴び、そのままベッドに倒れ込んだ。眠らなければ。今日は午後からレッスンがある。
けれど、目は妙に冴えていた。
寝返りを打った拍子に机の隅が視界に入る。積み上げられた台本の横には、一台のノートパソコンが置かれていた。
その脇に、一枚の板。
ペンタブレット。表面の塗装は擦れて白っぽくなり、ペンのグリップはとうに手の形に馴染んでいる。専門学校に入る前――イラストレーターになるか、声優になるかでまだ迷っていた頃から使っているものだ。
そこにつながるノートパソコンは、バイト代を貯めて買った。当時の自分にとっては、清水の舞台から飛び降りるような買い物だった。
結局、アズサは声優の道を選んだ。
選んだけれど、描くのをやめたことは一度もない。
どんなに疲れていても、一日のどこかで必ずペンを握る。六年間、それだけは欠かしたことがなかった。誰に見せるわけでもない。仕事になるわけでもない。ただ、そうしないと一日が終わらない気がした。
アズサは体を起こして机に向かった。ノートパソコンを開き、ソフトを立ち上げる。
ペンを握り、真っ白なキャンバスにゆっくりと線を引いていく。
特に描きたいものがあったわけではない。ただ、なんとなく手を動かしたかった。
最初は歪んでいた線が、少しずつまとまっていく。輪郭ができ、目が入り、髪の流れが生まれる。頭の中に浮かんだ、名前も設定もない、誰でもない女の子。
楽しい。
何度繰り返しても、そこだけは変わらなかった。締め切りも、評価も、オーディションの結果も関係なく、ただ手を動かしているだけの時間。誰にも急かされない。誰にも否定されない。自分だけの世界。
気づけば三十分が経っていた。
ふと我に返り、アズサは時計を見上げる。
寝なきゃ。午後にはレッスンがある。今夜も夜勤だ。ここで寝ておかないと、確実にレッスンに支障が出る。
「……はぁ」
小さくため息をつき、描きかけの絵を保存した。まだ髪も途中で、色も塗っていない。未完成のままの女の子が、画面の中で静かにこちらを見ている。
ノートパソコンを閉じる。隣のペンタブレットには、うっすらと手の跡が残っていた。
ベッドに戻って目を閉じても、頭の中にはまだ描きかけの線の続きが浮かんでいた。
――続きは、また今度。
いつもの言い訳を胸の中で唱えながら、アズサはようやく眠りに落ちた。
* * *
スマホの着信音に、意識を引き戻された。
枕元を手探りして画面を見る。時刻は十三時過ぎ。表示されている名前は、白川マネージャーだった。
寝起きの掠れた声を整える間もなく、通話ボタンを押した。
「……はい、中村です」
『アズサちゃん、ごめん、寝てた? 夜勤明けだったよね』
「あ、大丈夫です。もう起きるところだったので」
半分は嘘だ。あと三十分は寝ていたかった。
『よかった。あのさ、今日レッスンだよね。その前に、ちょっとだけ時間もらえないかな』
「はい、大丈夫ですけど」
『じゃあ、サードアベニューカフェ。事務所の裏の、青い看板のとこ』
アズサの手が止まった。
事務所ではなく、カフェ。
白川さんから呼び出されるのは、いつも事務所だった。オーディションの資料を渡されるのも、結果を聞かされるのも、あの狭い打ち合わせスペースだ。わざわざ外を指定されたことなど、六年間で一度もない。
考えるより先に、体温が下がっていくのがわかった。
(……切られるのかな)
驚くほどすんなりと出てきた考えだった。
ここ何年も、まともな役を一つも取れていない。オーディションは落ち続け、レッスンに通っているだけの日々。事務所の立場になって考えれば、いつそう言われてもおかしくなかった。
むしろ、よく六年も置いてくれたと思う。
事務所の中でその話をしないのは、たぶん周りに聞かせたくないからだ。白川さんは、そういう気の遣い方をする人だった。
「……わかりました。何時に行けばいいですか」
自分の声は、思ったより平坦だった。
『二時頃で大丈夫? 詳しいことは、会ってから話すね』
「はい」
通話が切れた。
カーテンの隙間から午後の光が細く差し込んでいる。机の上には閉じたままのノートパソコン。その中には、描きかけの女の子が眠っている。
アズサは小さく息を吐き、ベッドから立ち上がった。




