第2話「見切る者」「見出す者」
ヴォイス・リンクのオフィスは、夜になると静かになる。
白川アケミはデスクに向かい、明日の会議に出す資料を作っていた。
次のクールで事務所として押していくタレント候補の名前を並べ、実績を書き添え、今後の展開案をまとめる。それだけの書類だ。
候補欄に四人の名前を入れ終えたところで、手が止まった。
五行目では、カーソルだけが点滅を続けている。
通らないだろうな。
それは予感というより、ほとんど確信に近い。押す理由を並べるより先に、押さない理由の方が向こうから出てくる。この六年、何度も見てきた光景だった。
それでも白川は、五行目に名前を打ち込んだ。
中村アズサ。
実績の欄に書けることは、ほとんどない。直近三年、レギュラーなし。単発の端役が数本。オーディション一次通過は数え切れないほどあるが、そんなものを書ける欄ではなかった。
しばらく画面を眺め、備考欄に一文を書き足した。
『音源審査の通過率、所属タレント内で最も高い』
数字として出せるのは、これしかなかった。
* * *
あの子の何がいいのか、と聞かれたら。
白川はいつも、同じ場面を思い出す。
三年ほど前だっただろうか。ある作品のオーディション課題が回ってきた。資料は薄く、キャラクター設定は二行。セリフも三つしかない。
担当していた若手数人に、同じ課題を送った。
その日の夜には、一件だけ返ってきていた。
中村アズサ。
早い。早すぎる。
正直に言えば、そのとき白川の頭をよぎったのは期待ではなく疑いだった。適当に流したのではないか。バイトで時間が取れず、とりあえず一回録って送ってきたのではないか。
そんなことを考えながら、再生ボタンを押した。
三十秒後には、手元の書類から顔を上げていた。
セリフはたった三つ。設定も二行しかない。
なのに、そこには一人の人間がいた。
どういう育ち方をして、何を諦め、今どんな顔でその言葉を口にしているのか。そのすべてが声の中に入っていた。たった二行から、そこまで組み立ててきたのだ。
白川はすぐに電話をかけた。
「アズサちゃん、あの音源。いつ録ったの」
『え、資料もらってすぐですけど』
当たり前のことを聞かれたような声だった。
『……あの、まずかったですか。もう一回録り直しましょうか』
「ううん。そのままでいい」
そう答えるのが精一杯だった。
それから数日かけて、他の子の音源が順に届いた。
どれも悪くはなかった。丁寧で、癖がなく、無難。誰が聞いても及第点をつけるだろう。
けれど、どれ一つとして、あの三十秒には届かなかった。
速い。
役の正解にたどり着くまでの速さが、他の子とは群を抜いていた。時間をかけて完成度を上げる子はいる。けれどアズサは、最初の一手で正解の方向を掴む。
それは教えられて身につくものではないと、白川は思っていた。
あの子には才能がある。
白川にとって、それは疑いようのない事実だった。
* * *
けれど、才能があるだけでは、この業界では何も起きない。
役が決まる場所は、オーディションだけではなかった。
前の現場で一緒だった子。打ち上げで話した子。勉強会で顔を合わせた子。音響監督やプロデューサーの頭の中にある名前は、いつもそういう順番で並んでいる。
アズサには、その並びに入る機会がなかった。
デビューしたての頃には、若手が集まる場も多く、何度も誘いを受けていた。
けれど、その時間はほとんど夜勤に入っていた。
行きたくないわけではなかっただろう。断るときのあの子は、いつも申し訳なさそうに頭を下げていた。それでも家賃と食費とレッスン代は、誰も出してくれない。
六年のあいだに、差はどうしようもなく開いてしまった。
二次選考まで残ると、そこで並ぶ相手のほとんどが、すでに何年も現場を経験してきた役者になる。アズサの声が活きる役ほど、同じ声域を武器にしてきたベテランが候補に残る。演技の方向性が並べば、最後にものを言うのは経験と実績だ。
そのうえ、片方は現場で顔を知られている役者で、もう片方は実績の乏しいアズサ。どちらを選ぶかなど、考えるまでもない。
あの子は、選ばれる前の段階で、もう外に立たされていた。
* * *
翌日。新宿にある事務所ビルの一室。
長机を囲んで幹部たちが並び、手元には白川が作った資料が配られていた。
「次のクールで、うちから誰を押していくか。そろそろ決めないと」
上座に座る男が、そう切り出した。
「候補は、この五人です」
「……中村ね」
眼鏡をかけた男が、資料をめくり直しながら言った。
「悪いけど、あの子はもう伸びしろがないよ」
白川の指が、資料の上で止まる。
「六年やって、この結果だ。ここから急に化けるとは思えない」
「音源審査の通過率は、うちで一番です」
「通るだけでしょう。二次で落ちてるってことは、そこに理由があるってことだよ」
別の一人が腕を組んだ。
「うちも限られた枠でやってるんだ。同じ手間をかけるなら、これから伸びる子に使いたい。もっと若い子の方が、現場のウケもいいしね」
「二十六歳だっけ。今の業界だと、もう若手枠でもないよね」
白川は口を開きかけたが、言葉にはしなかった。
言いたいことはいくつもある。
六年間、腐らずレッスンを続けてきたこと。自費でボイトレにまで通っていること。二次で落ちるのは、実力の問題じゃないこと。あの声を活かせる役が、まだこの子に回ってきていないだけだということ。
役の正解にたどり着くまでの、あの速さのこと。
けれど、この場でそれを並べたところで、通る空気ではなかった。
「……わかりました。今回は、この四人で」
白川がそう言うと、上座の男は短く頷いた。
「じゃあ、その方向で。次、宣伝の件だけど――」
議題は、あっさりと次へ移っていく。
それきり、中村アズサという名前がこの部屋で口にされることはなかった。
昨夜、白川が何時間もかけて仕上げた資料の五行目は、ものの一分で消えた。
* * *
会議室を出ても、さっきの言葉が頭の中に残っていた。
伸びしろがない。
違う。あの子の声は、まだ何も使われていない。ただ、それだけだ。
けれど事務所が押さないと決めた以上、これから回ってくる案件はさらに減っていく。オーディションの情報も後回しになる。半年もすれば、名前を出す機会すらなくなるだろう。
(……このままだと、本当に終わっちゃう)
六年間、ずっと見てきた。落ちるたびに「わかりました」と頭を下げる姿も、それでも次の週にはレッスンに来ている姿も。
(潰したくない)
自分にできることは、もう多くない。それでも、まだ何かあるはずだ。
* * *
デスクに戻ると、白川はメールを開いた。
未読の中には、以前一度だけ名刺交換をした制作会社からのメールが混じっていた。
『新規VTuberプロジェクト オーディション開催のご案内』
VTuber。正直、専門外だ。声優の仕事とは畑が違う。普段なら、目も通さずに閉じていたかもしれない。
それでも、添付ファイルを開いた。
画面に表示されたのは、一枚の三面図だった。
深紅の長い髪。高い位置で結ばれたポニーテール。ラフに羽織ったシャツ。そして――金色の切れ長の瞳。
白川は、その絵から目を離せなくなった。
(……この子)
頭の中で、勝手に声が乗った。
低く、少し掠れた、艶のある声。
六年間、何百回と音源を聞いてきた、あの声だった。
(合う。この子は、アズサちゃんに合う)
募集要項に目を走らせる。年齢制限はない。所属事務所からの応募も可能。声質の指定は――ない。
白川はしばらく画面を見つめていた。
根拠と呼べるものは、何もない。
これがどれだけの規模のプロジェクトなのか、わからない。声優の仕事としてキャリアになるのかも、正直わからない。
うまくいく保証など、どこにもない。
それでも、この六年で身についたものがあるとすれば、それは数字や理屈では測れない感覚だった。
合う、と思ったなら、たぶん合う。
白川はスマホを取り出し、通話履歴からアズサの名前を探した。




