第1話「満ちる者」「渇く者」
現代×VTuber×声優業界を舞台にした人間ドラマです。
Xにて、登場キャラクターのビジュアルを公開しています。
プロフィールからご覧いただけますので、小説とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。
初配信の開始時刻を迎えていた。
待機画面の向こうでは、すでに大勢の視聴者が配信の始まりを待っていた。
マイクの前に座る女性は、モニターに流れていくコメントを静かに見つめていた。
もっと緊張すると思っていた。
何度も時計を確認し、喉の調子を気にして、落ち着かなくなる。そんな自分を想像していた。
鼓動は少し速い。
それでも、不思議と緊張していなかった。
女性は静かに息を吸い、配信開始のボタンを押した。
待機画面が切り替わった。
画面の中で、紅い髪が揺れた。
閉じられていた金色の瞳が、ゆっくりと開いた。
「こんばんは。マリナです」
女性の声に合わせて、画面の中の女の子の唇が動いた。
一気にコメントが流れ始めた。
:きたあああああ
:待ってた!!
:広告見て来ました!
:声いいな
:良い声すぎる!!
:声ひっく! 好き
想像していたよりも、ずっと速い。
女性が思わず笑うと、画面の中の女の子も同じように目を細めた。
「来てくれてありがとう」
紅い髪の女の子――マリナが、視聴者へ微笑みかけた。
「……おかえり。今日もお疲れさま」
――この物語は、とある男に訪れた偶然から始まる。
***
福岡県の小さな町。その一角にある6畳一間のアパートで、神代ユウイチは手にした宝くじを何度も見返していた。
テレビ画面には、先ほどから当せん番号が繰り返し映し出されている。手元の紙に書かれた数字と、一つずつ照らし合わせていく。
一致していた。
1等、12億円。
「……は?」
思わず声が漏れた。もう一度番号を確認する。何度確かめても間違いない。
「はぁぁぁあああ!? マジかよ、マジかよ!」
立ち上がると、狭い部屋の中をぐるぐると歩き回る。宝くじを両手で握りしめたまま、ユウイチは天井に向かって叫んだ。
「俺は自由だぁ―――!!」
叫びは、部屋の壁にむなしく跳ね返った。それでも、腹の底から込み上げてくる高揚感は止められない。
毎朝、北九州の工場まで片道1時間かけて通う日々。満員に近い電車、単調なライン作業、変わらない給料明細。そのすべてから、たった1枚の紙切れで解放された。まだ実感は追いつかず、体だけが震えていた。
翌日、ユウイチは10年近く勤めた工場に退職の意思を伝えた。上司や同僚は驚いたが、当の本人は妙に晴れやかな気分だった。
***
当せん金を受け取ったユウイチは、狭いアパートの部屋で、通帳の数字を前に一人腕を組んでいた。
「……で、これ、どうすっかな」
呟きが、静かな部屋に落ちる。
派手に使う気はない。かといって、銀行に眠らせておくだけというのも、なんだかもったいない気がした。
「よし」
ユウイチは、一つ頷いた。
「半分の6億は、俺の生活のための元手にしよう。無理せず暮らせる分だけ運用に回して、あとは堅実に」
残る半分の使い道を、しばらく考える。
「残りの6億は……増やす方に回すか」
口に出すと、少し笑みがこぼれた。
「投資とか、やったことねぇけどな」
やってみたい。せっかく手に入った金だ。眠らせておくだけでは、自分自身まで無駄にしてしまうような気がした。
「生活用と、運用用。分けて管理すりゃいいか」
その日、ユウイチは初めて、自分の人生を自分で選んだような気がした。誰かに指示されるでもなく、流れ作業のように決められるでもなく、自分の意志で。
***
資産運用会社「NEST」を設立したのは、当せんから半年ほど経った頃だった。会社といっても、社員はユウイチ1人。地元の小さな町にある雑居ビルの一室を借り、そこで自分の資産を運用する生活が始まった。
最初の1年は、税金や会社運営の勉強に追われ、あっという間に過ぎていった。慣れない書類仕事や制度の理解に頭を悩ませたものの、1年が経つ頃には、それなりに板についていた。
朝、オフィスに出社して株価のチャートを眺める。昼は資料に目を通し、夕方には必要な連絡を済ませて退社する。誰かに指示されることも、急かされることもない。静かで平坦な毎日だった。
ユウイチは椅子の背にもたれ、モニターに並ぶ数字をぼんやりと眺めながら、ふと思う。
(暇だな……)
なんとなくブラウザを開くと、画像生成AIのサービスが目に留まった。最近、そういうものが流行っているらしい。試しに使うだけなら金もかからない。
――暇つぶしには、ちょうどいいか。
軽い気持ちで入力欄に文字を打ち込んでみる。
「えーっと……女性、アニメ調、赤い髪、と……」
数秒後、モニターに何枚かの画像が表示された。ユウイチは眉を寄せ、身を乗り出す。
「うーん……赤は赤だけど、なんか違うな。もっとこう、深い赤っていうか」
指がキーボードを叩く。深紅、ロングヘア、高い位置で結んだポニーテール。言葉を足しては生成し、表示された画像を見ながら、また入力し直す。
「あー、これこれ。こっちの方がシュッとして見えるね」
誰に聞かせるでもない独り言が静かなオフィスに響く。気づけば株価の画面はとっくに閉じていた。
「あとは目だな。目が大事だ。……金色。うん、金色の瞳がいい」
再び生成された画像を見て、ユウイチは思わず前のめりになった。
「……おお」
深紅の髪。黄金の瞳。少し切れ長で、こちらをまっすぐに、けれどどこか静かに見つめ返してくるような眼差し。
「いいね。いいね、これ」
マウスを握る手に力がこもる。まだ細かいところは違う。服装も、もう少し詰めたい。アクセサリーも、何か一つ印象に残るものが欲しい。
「なんか楽しくなってきたぞ」
口元が緩む。株価のチャートを眺めるだけの毎日では、久しく感じることのなかった高揚だった。
「服は……もうちょい、ラフな感じがいいな。着飾ってる感じじゃなくて、自然体な……」
試しては直し、直しては試す。生成ボタンを押すたび、頭の中にあったぼんやりとした像が、少しずつ輪郭を持って現れてくる。
いつの間にか窓の外は暗くなり、オフィスの明かりだけがユウイチの横顔を照らしていた。時計を見ることも忘れ、ただモニターの中の彼女と向き合い続けた。
***
「ありがとうございました」
審査員に向かって深く一礼し、アズサはスタジオを後にした。
ドアを閉めて廊下に出た瞬間、張り詰めていたものが一気に抜けていく。静けさの中、ビルの空調音だけがやけに大きく響いた。
やれることはやった。そう思う。けれど――。
(……あの人、たしか……)
控室ですれ違った女性の顔が浮かぶ。名前は知らない。けれど、その声は深夜アニメの脇役やゲームのキャラクターで、何度も耳にしていた。芸歴も、自分よりずっと長いはずだった。
今日の役は、落ち着いた大人の女性。低く艶のある声が求められていた。
アズサの声が、いちばん活きるはずの役。
エレベーターのボタンを押しながら、アズサは小さく息を吐いた。
一次は通った。音源審査は、いつも通る。
問題はいつも、その先だった。
***
ホテルに着いたのは、夜の九時過ぎだった。
ロッカーで制服に着替え、髪をポニーテールにまとめる。鏡の中の自分は、つい先ほどまでマイクの前に立っていた人間には見えなかった。
「中村さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
引き継ぎを受け、フロントに立つ。チェックインの客をさばき、鍵を渡し、館内を案内する。6年も続けていれば、体が勝手に動いた。
バイト、オーディション、レッスン、ボイトレ。
事務所のレッスンだけでは足りない気がして、2年目から自費でボイストレーニングにも通い始めた。月に2万。安くはない。それでも続けているのは、やめた瞬間に何かが終わる気がしたからだ。
深夜1時を回る頃、ロビーは静まり返っていた。
カウンターの内側で、アズサはぼんやりと宙を見つめる。
デビューしてすぐの頃は、端役をもらえることもあった。アニメの通行人やゲームの村人。小さな役ではあったけれど、自分の声が世に出ている実感は確かにあった。
そんな仕事も年々少なくなり、気づけばここ数年は、オーディションを受けては落ちることの繰り返しだった。
地声は低めで、少し掠れたような艶がある。声質だけは何度も褒められてきた。
けれど、褒められた先で待っている結果は、いつも同じだった。
この声が求められる役には、似た声を何年も使いこなしてきた人たちがいる。同じ土俵に立った瞬間、経験の差がそのまま結果に表れる。二次選考の場で、アズサはいつもその壁にぶつかった。
だから、少年役にも挑戦した。この声域なら活かせるはずだと思った。
それでも結果は変わらない。役はいつも、別の誰かが持っていった。
自分の何が足りないのか、6年考えてきた。
けれど考えれば考えるほど、足りないものの正体が「時間」でしかない気がしてくる。
技術なら磨ける。声質は変えられない。経験を重ねるには、続けるしかない。
(……続けてるうちに、26になっちゃったな……)
エレベーターの動く音が、遠くで小さく響いた。
***
数日後の昼過ぎ、夜勤明けの部屋でスマホが鳴った。
画面には白川の名前。
寝転がったまま少し迷って、アズサは体を起こしてから通話ボタンを押した。
「はい」
『アズサちゃん、お疲れ様。今大丈夫?』
「大丈夫です」
一瞬の間があった。その長さで、もう答えは分かった。
『……この前のオーディション、残念だけど、不合格でした』
「分かりました」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。もう何度目か分からない不合格の報告に、いちいち崩れていては身が持たない。そんな慣れが、悲しいことに、もうしっかりと根付いていた。
『音源はすごく良かったって聞いてる。ただ、今回は経験のある方を選びたいって話で』
「……そうですか」
いつもと同じ理由だった。責める言葉はどこにもない。誰も悪くない。
だからこそ、どうしようもなかった。
『気を落とさないでね。またチャンスはあるから』
その言葉に嘘がないことを、アズサは知っている。白川は6年間、ずっとそう言い続けてくれた人だ。事務所の中で、まだアズサの名前を口にしてくれる、たぶん最後の1人だった。
「はい。ありがとうございます」
『……うん。またオーディションの情報入ったら連絡するね』
電話が切れた。
アズサはスマホを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
カーテンの隙間から、昼下がりの光が細く差し込んでいる。
(このまま長野に帰ろうかな……)
実家での暮らしが、ふと頭をよぎる。夜勤明けでふらふらになりながらレッスンに向かうこともない。オーディションに落ち続け、そのたびに心をすり減らすこともない。きっと今より安定した生活が送れる。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなる自分がいた。
けれど、同時に。
(……いや、まだ分かんないじゃん。チャンスはあるかもしれないし……)
使い古された慰めの言葉だと分かっていても、それを信じたい自分が、まだどこかに残っていた。
諦める理由も、続ける理由も、いつも同じだけの重さでアズサの中にあった。
答えの出ないまま、窓から差し込む光だけが、少しずつ傾いていった。




