第43話「アリアって呼んでください」
デビュー配信当日。
アリアが暮らすマンションには、配信開始を控えた佐伯と森川が訪れていた。
建物は築年数こそ経っているものの、間取りは2LDKと、1人で暮らすには十分な広さがある。そのうちの1室が、アリアの配信部屋として使われていた。
本格的な防音室ではない。壁には四角い防音用のシートが並び、床には厚手のカーペット、窓には遮音カーテンが取り付けられている。
室内には先日、新井が設置した配信機材が並んでいた。
配信開始まで、残り1時間を切っている。
森川は配信機材の前に座り、マイクの音量やカメラの認識、アバターのトラッキングを順番に確認していた。
「西山さん、少しだけ顔を左右に動かしてもらえますか?」
「はい」
アリアがゆっくりと首を動かす。それに合わせて、モニターの中の彩瀬アリアも同じ動きを見せた。
「次は笑ってください」
言われたとおりに笑顔を作ると、アバターの表情も自然な笑顔へ切り替わる。
「大丈夫そうですね」
森川が確認項目に印をつける。
アリアはしばらくその手元を眺めていたが、やがて何気ない口調を装って尋ねた。
「あの、森川さん」
「はい?」
「新井さん、何か言ってましたか?」
森川の指が止まった。
また新井か。
心の中でそう呟きながら、森川はアリアへ顔を向ける。
「何か、というのは?」
「今日のデビュー配信についてです。応援してるとか、頑張ってとか……そういうこと、言ってませんでした?」
「特には聞いてないですね」
「そうですか……」
分かりやすく沈んだ声を聞いて、森川の胸にほんの少しだけいたずら心が芽生えた。
「ただ、最近はマリナチームの配信部屋が居心地いいって言ってましたよ」
「えっ?」
アリアが勢いよく森川を見る。
「配信部屋自体が広くて、新井専用の寝心地がいいソファーもあるとか言ってたなぁ」
「新井さん専用のソファー……?」
「それに、プロデューサーのおごりで寿司も出るらしいですよ。羨ましいですね」
森川は何食わぬ顔で、再び確認項目へ目を落とした。
嘘は言っていない。
ただ、今ここで伝える必要があったかと聞かれれば、まったくなかった。
「梓、ずるい……」
アリアが恨めしそうに呟く。
「まあ、新井のことが気になるのは分かりますけど。イケメンですし」
森川は手元の機材を操作しながら、アリアへ視線を向けた。
「でも、今は本番前です。確認作業に集中してください」
「分かってますよ~」
アリアが少し不貞腐れたように答える。
モニターの中の彩瀬アリアも、不満そうに口を尖らせていた。
「それなら大丈夫です」
そう答えながらも、森川は小さくため息をついた。
「音声もトラッキングも問題ありません。開始まではまだ少し時間がありますから、一度リビングへ戻りましょう」
「はい」
2人が配信部屋を出る。
リビングでは、佐伯がテーブルの上にノートパソコンと進行表を広げていた。
「あ、確認、終わりましたか?」
「問題ありません。あとは本番前に、もう一度マイクを確認するくらいですね」
森川はそう答えながら、佐伯の隣に腰を下ろした。
アリアも向かい側のソファーへ座る。
「その……西山さん、緊張していますか?」
「少しは。でも、まだ始まる感じがしないんですよね」
アリアは配信部屋の方へ目を向けた。
「本番になったら、あの部屋に1人なんですよね」
「は、はい。でも、私と森川さんはここで配信を確認していますから」
佐伯は一度言葉を切り、アリアの顔を窺うように見る。
「何かあったら、すぐに対応します。ですから、その……1人ではありません」
「新井さんはいないけど?」
「西山さん……」
佐伯が困ったように眉を下げ、窘めるように名前を呼んだ。
「冗談ですよ~」
アリアは笑いながら両手を上げる。
その向かいで、森川が何とも言えない顔をしていた。
「大丈夫です。森川さんがちゃんと見てくれることは、もう分かってますから」
「今のところ、あまり信用されている実感はないですけどね」
「これからですよ、これから」
「西山さんが言うんですか?」
森川が苦笑する。
佐伯は2人を交互に見たあと、少しだけ安心したように息を吐いた。
「これから、よろしくお願いしますね。奈緒ちゃん、森川さん」
「は、はい。こちらこそ……」
佐伯は反射的に答えかけ、途中で目を瞬かせた。
「な、奈緒ちゃん?」
「同い年なんだから、いいじゃないですか~」
アリアは当然のように笑う。
「私のことも、アリアって呼んでくださいよ。そのうち敬語もなしにしましょう」
「そ、それはさすがに……」
「じゃあ、まずは呼び方からですね」
アリアが期待するように身を乗り出す。
佐伯は困ったように視線を泳がせたあと、意を決したように小さく息を吸った。
「は、はい……アリアさん」
「うん。今はそれでいいです」
満足そうに頷くアリアと、早くも振り回され始めている佐伯。
森川はそんな2人のやり取りを、微笑ましそうに眺めていた。




