第41話「神城マリナ」
マシュマロ配信の翌朝。
目を覚ました梓のスマートフォンに、桐生から連絡が入っていた。
『今日、朝一でNexus Liveの会議室に来て』
用件までは書かれていなかった。
けれど、梓には思い当たることがひとつだけあった。
昨夜の配信中、思いつきで口にしてしまった名前。
――神城マリナ。
スマートフォンでXを開くと、その名前はすでに切り抜きとともに広がり始めていた。
『マリナに苗字が生えた』
『神城マリナ、普通に似合ってる』
『最初に神代って言いかけたのは聞かなかったことにする』
『今日から神城マリナ推しです』
昨夜は好意的な反応を嬉しく思っていたはずなのに、今はひとつ増えるたびに胸が落ち着かなくなる。
指定された時間に会議室へ入ると、すでに神代、桐生、藤田、新井が揃っていた。
テーブルの向かい側には黒瀬と、取締役の橘修司が座っていた。梓が橘と直接顔を合わせるのは、これが初めてだった。
「神代さん、直接お会いするのは初めてですね」
会議が始まる前、橘は席を立って神代へ頭を下げた。
「これまでご挨拶が画面越しばかりになってしまい、申し訳ありません」
「いえ。何度もオンラインで話しているので、初対面という感じもしませんけどね」
「そうですね。画面越しに、食事へ行く約束までしていましたから」
「その約束、まだ有効ですよね?」
「もちろんです。今日は難しいですが、近いうちにぜひ」
「懇親会の相談は、会議のあとにしていただけますか」
黒瀬の冷静な声が割って入る。
「「すみません」」
神代と橘の声が、きれいに重なった。
息の合った謝罪に新井が思わず吹き出すと、藤田がすかさず肘でその脇腹を小突く。
新井は口元を押さえ、何事もなかったように姿勢を正した。
神代と橘も、それぞれ席へ戻った。
黒瀬は無言のまま、会議室のモニターを操作した。
映し出されたのは、昨夜のマシュマロ配信だった。
『神代かな。神代マリナ……』
『……あ、神城の方ね。お城の「城」』
そこで映像が止まる。
自分の声が消えた会議室で、梓は膝の上に置いた両手を握った。
「中村さん」
「はい」
「神城マリナとは、なんですか?」
「……苗字です」
「それは分かっています」
黒瀬の返答に、梓は小さく肩を縮めた。
「どうして、活動名に関わることを配信中に決めたんですか」
「マシュマロで苗字がないのかと聞かれて……その場で思いついてしまいました。すみません」
「思いついたこと自体を責めているわけではありません」
黒瀬は一度言葉を切り、マリナチームを順番に見た。
「私が確認したいのは、そのあとです。なぜ誰も止めなかったんですか」
「配信中だったので、あそこで止める方が不自然ですよ」
神代が答えた。
「変に止めれば、何か問題があるのかと余計に騒がれると思ったんです」
「その判断自体は分かります」
黒瀬はすぐに認めた。
「では、配信が終わったあとに報告するべきだったのでは?」
黒瀬の口調は変わらない。しかし、声の奥には普段よりも明らかに硬いものがあった。
「以前にも、こちらの判断が必要なことを先に進め、事後報告にするのは避けてくださいと通達したはずですが」
「……はい。そこは俺の判断ミスです。すみません」
神代が素直に頭を下げる。
「私もです。自分から言い出したのに、そのままにしてしまって……申し訳ありませんでした」
梓も続けて頭を下げた。
「現場責任者である私の落ち度です。申し訳ありませんでした」
桐生も黒瀬へ頭を下げる。
「……藤田さん。あれ、マジで切れてますやん」
新井が隣の藤田へ、声を潜めて囁いた。
「見れば分かるわよ。黙ってて!」
藤田も顔を前へ向けたまま、小声で返す。
聞こえてしまった梓は、握った両手へさらに力を込めた。
「活動名は、配信上の呼び方だけではありません」
黒瀬は怒鳴ることなく、静かな口調のまま続ける。
「チャンネル、SNS、契約、広告、グッズ。今後の活動すべてに関わります。同じ名前で活動している方がいれば、その方へ迷惑をかける可能性がある。すでに商標として登録されていれば、こちらが使えない場合もあります」
誰も口を挟まない。
「一度リスナーの間に広まれば、切り抜きやSNSを通して、こちらの手が届かないところまで定着します。あとから問題が見つかっても、簡単には引き戻せません」
モニターには、すでに何度も使われている『神城マリナ』の文字が映っていた。
「配信中の会話まで制限するつもりはありません。むしろ、自由に話してもらいたいと思っています」
黒瀬は梓へ視線を戻した。
「ただ、その自由な活動を守るために、私たちがいます。活動名や権利に関わることが起きたら、すぐに共有してください」
「はい。今後は必ず報告します」
桐生が代表して答えると、黒瀬は小さく頷いた。
「とりあえず、同じ名前で活動しているライバーがいないか確認します。商標の方もです」
「じゃあ、その仕事はこっちで請け負おう」
それまで黙って話を聞いていた橘が口を開いた。
「活動名の重複は広報に確認させます。商標については法務から専門家へ回しておきます」
「お願いします」
「結果が出たら、こちらから共有します」
橘はそう答えると、梓へ視線を向けた。
「中村さん。ひとつ確認してもいいですか」
「はい」
「『神城マリナ』という名前を、今後も使いたいと思っていますか?」
梓はすぐには答えず、隣に座る神代を見た。
神代は何も言わなかった。ただ、梓自身の答えを待っている。
「……使えるのであれば、使いたいです」
梓は黒瀬と橘へ向き直った。
「配信中の思いつきではありましたけど、マリナに合っている気がします。それに……リスナーの皆さんも、気に入ってくれているみたいなので」
「分かりました」
橘が頷き、黒瀬を見る。
「まあ、同じ名前で活動している人もいなくて、商標にも問題がなければ、そのまま採用でいいんだろ?」
「……本人が正式に希望しているのであれば、反対する理由はありません」
「じゃあ、決まりですね」
藤田が明るい声を出す。
「まだ決まっていません」
黒瀬が即座に訂正した。
「問題がないことを確認できれば、です。それまではチャンネル名やプロフィールを変更しないでください。配信でも、積極的にその名前を使うことは控えてください」
「でも、もうリスナーの間ではかなり使われてますよ」
藤田がモニターを見ながら言った。
「だからこそ、広まりきる前に報告してください。それを既成事実にしないための報告です。『もう使われています』で済ませないでください」
「……はい」
藤田は姿勢を正し、小さく返事をした。
「神代さん」
橘が、今度は神代へ穏やかに話しかける。
「こういうことは、配信をやっていればどうしても起こります。そのために、私たち管理部門がいるんです。今回の確認はこちらで引き取ります」
「ありがとうございます」
「ただ、名前が広く定着してから問題が見つかると、こちらでも手が付けられなくなることがあります。早い段階で報告してほしいという黒瀬の言い分も、分かってやってください」
「はい。黒瀬さんの言っていることは分かっています。今回は完全に俺の落ち度です」
橘はその返答を聞いてから、黒瀬へ顔を向けた。
「問題がなければ正式に採用する。それでいいんだろ、黒瀬?」
「はい。中村さん本人も希望していますから、問題がなければ『神城マリナ』を正式名称として採用します」
「分かった。では、すぐに確認へ回す」
橘は書類を手に取って席を立った。
「私は先に失礼します」
会議室を出ていく橘を見て、神代も椅子から立ち上がる。
「すみません。少しだけ」
神代はそう断り、橘のあとを追って廊下へ出た。
閉じた扉を見つめながら、梓はまた自分のせいで神代に頭を下げさせてしまうのではないかと、胸の奥が重くなるのを感じた。
◇
「橘さん」
呼び止められた橘が振り返る。
「どうしました?」
「本当にすみませんでした。余計な仕事を増やしてしまって」
神代が深く頭を下げると、橘は思わず笑った。
「頭を上げてください。神代さんは、うちの会社の大口出資者なんですよ。もう少し堂々としていてください」
「出資者でも、迷惑をかけたら謝りますよ」
「それは立派ですが、神代さんは少し謝りすぎです」
神代が顔を上げると、橘は穏やかに続けた。
「黒瀬は以前、道楽だと言っていましたが、私にはそうは見えませんでした」
「これは、神代さんの夢なんでしょう?」
「……俺の夢」
「画面越しでも分かりましたよ。マリナのことを話す神代さんは、本当に楽しそうでしたから」
神代は少しだけ考えてから、頷いた。
「そうですね。ただ、今はもう、俺だけの夢じゃないですけどね」
「でしたら、なおさら堂々としていてください。夢を追っている人が、毎回申し訳なさそうにしていては困ります」
そう言ってから、橘はわずかに口元を緩めた。
「まあ、大口出資者の神代さんが、うちの黒瀬にあそこまできっちり怒られているのを見るのは、少し面白かったですけどね」
「橘さんまで楽しんでたんですか」
「すみません。ただ、相手の出資額で態度を変えないのは、黒瀬のいいところです」
「それは分かっています。だから任せているんですけどね」
「でしたら、これからも怒られてやってください」
「それは、できれば遠慮したいですね」
2人の間に小さな笑いがこぼれる。
「では、近いうちに銀座で一杯やりましょう」
橘があらためて手を差し出した。
「ぜひ。そのときはNESTの方で持たせてください」
「いいんですか?」
「もちろんです。そのときはEPではなく、NESTの代表としてご一緒させてください」
「分かりました。では、遠慮なくご馳走になります」
握手を交わしたあと、橘は管理部門へ連絡を入れるため、そのまま廊下の奥へ歩いていった。
その背中を見送ってから、神代は会議室へ戻った。
◇
会議室の扉が開き、神代が戻ってきた。
梓がその表情を窺うかたわらで、黒瀬が尋ねる。
「何を話していたんですか」
「今回のことを謝って、それから近いうちに銀座で飲もうって約束をしてきました」
「橘さんとは、以前からお知り合いだったんですか?」
藤田が目を丸くした。
「前からオンラインでは何度も話してるよ。直接会ったのが今日初めてだっただけで」
「神代様!」
黒瀬の声で、緩みかけた空気が再び引き締まった。
「はい」
「繰り返しますが、調査結果が出るまでは『神城マリナ』は正式名称ではありません。チャンネルやプロフィールの変更はしないでください」
「分かりました」
「配信中にリスナーから呼ばれることまで止める必要はありません。ただし、こちらから定着させるような発言は控えてください」
黒瀬はマリナチーム全員を見渡した。
「今後、同じようなことがあった場合は、配信終了後すぐに共有してください」
「はい」
全員の返事を聞き、黒瀬は席を立った。
「私からは以上です」
それだけ告げて、黒瀬は会議室を出ていく。
扉が閉まると、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
「神代さん」
梓は隣に座る神代へ向き直った。
「やっぱり、私のことで橘さんに頭を下げに行ったんですよね?」
「まあ、橘さんには余計な仕事を増やしてるからね。EPとしては当然のことで――」
「すみませんでした」
神代の言葉を遮り、梓は深く頭を下げた。
「いやいや、梓ちゃんが謝ることじゃないよ」
神代は慌てたように手を振る。
「橘さんとは気が合うからね。梓ちゃんが気にすることはないよ」
「そのついでに、銀座で飲む約束まで取りつけてきはりましたけどね」
新井が横から口を挟む。
「それはついでじゃないよ」
「謝りに行って飲みの約束して帰ってくるんですから、十分仲ええですよ」
神代は否定しきれず、困ったように笑った。
それを見ても、梓の胸に残った重さは消えなかった。
「皆さん、本当にすみませんでした」
梓は改めて、チーム全員へ頭を下げる。
「私が配信中に勝手なことを言ってしまったせいで……」
「梓ちゃんだけのせいじゃないわよ」
桐生はすぐにそう言って、梓の肩へ手を置いた。
「あの場で止めなかったのも、配信が終わってから報告しなかったのも、私たち全員でしょう。今回はチーム全体の落ち度よ」
「でも、言い出したのは私ですから……」
「それを言うなら、報告しないままにした責任は俺にある」
神代が静かに引き取った。
「俺が責任者なんだから、梓ちゃんが一人で背負うことじゃないよ」
「私も、Xで盛り上がっているのを完全に面白がってましたし……」
藤田が申し訳なさそうに手を挙げる。
「俺も気づいとったのに、何も言わんかったですからね」
新井もそれに続いた。
「だから、全員で反省。次からはすぐ報告。それで終わり」
桐生は梓の肩を軽く叩いた。
「まだ正式に使えないって決まったわけでもないんだから、今からそんな顔しないの」
「……はい」
梓は顔を上げたものの、まだどこか申し訳なさそうな表情を残していた。
「問題がなければ、正式に採用するって黒瀬さんも言ってたでしょ」
神代がそう言うと、梓は小さく頷いた。
「神城マリナ……使えるといいですね」
「きっと大丈夫だよ」
神代が穏やかに頷く。
「神代さんが言うと、根拠なくても大丈夫な気がしてくるんですよね」
藤田の言葉に、神代が眉を上げた。
「藤田さん、それ褒めてる?」
「半分くらいは」
張り詰めていた空気に、ようやく小さな笑いが戻った。
◇
それから数日後。
『神城マリナ』に関する調査結果を伝えるということで、マリナチーム全員がNexus Liveの会議室へ呼ばれていた。
梓たちは先に席へ着いていたが、結果を説明する黒瀬と橘はまだ姿を見せていない。
問題が見つかれば、神城マリナという名前は使えなくなる。
そう分かっているからか、待っている時間がいつもより長く感じられた。
梓は膝の上で両手を重ね、何度目かも分からないくらい会議室の扉へ目を向けた。
落ち着かない沈黙に耐えきれず、梓は隣に座る美咲へ顔を向けた。
「桐生さん、結局どうなったんですか?」
「分からないわ。今日、結果を伝えると言われただけだし」
美咲も、それ以上のことは聞かされていないらしい。梓は重ねていた指先へ、わずかに力を込めた。
美咲は少し考えたあと、今度は神代へ視線を移した。
「神代さんは、橘さんから何か聞いていないんですか?」
「いやあ、3日くらい前に橘さんと飲みに行った時に聞いたけど、まだ調査中だって言われたからね。俺も何も知らないよ」
「もう飲みに行ったんですか」
藤田が目を丸くする。
「約束してたからね。ただ、銀座はめちゃくちゃ高かった……」
神代は思い出しただけで財布が軽くなるような顔をした。
その声があまりにも深刻だったため、梓は張り詰めていた気持ちが少しだけ緩むのを感じた。
「でも、盛り上がったんでしょう?」
新井が尋ねると、神代の表情が一転して明るくなる。
「めちゃくちゃ盛り上がったよ。久しぶりに二日酔いになるくらい飲んだ」
先ほどまでの悲しそうな表情はどこへ行ったのか、神代は楽しそうに笑っている。
「調査結果を待ってる間に、何してるんですか」
美咲が呆れたように息を吐く。
「約束してたし、ちょうど橘さんの都合がついたのがその日だったんだよ。何日か経ってたから、今回のことも聞いてみたけど、まだ調査中だった。それだけだよ」
神代が弁明していると、会議室の扉が開いた。
黒瀬と橘が、揃って会議室へ入ってくる。
梓の胸に、先ほどまでの緊張が一気に戻ってきた。
5人が姿勢を正す中、橘は神代を見つけると、穏やかに頭を下げた。
「神代さん、先日はどうも。ごちそうさまでした」
「いえいえ。こちらこそ楽しかったです」
「翌日は大丈夫でしたか?」
「午前中は少しつらかったですね。神代さんは?」
「俺も久しぶりに二日酔いになりました」
「結果報告の前に、銀座の感想会を始めないでいただけますか」
黒瀬の冷静な声が、再会を喜ぶ2人の間へ割って入った。
「「すみません」」
神代と橘の声が、またしてもきれいに重なった。
梓は思わず笑いそうになったが、これから告げられる結果を思い出し、慌てて口元を引き締めた。
黒瀬と橘が向かい側の席へ着く。
全員の視線が集まったところで、黒瀬が口を開いた。
「まず、『神城マリナ』についての調査結果をお伝えします」
梓は膝の上で両手を握り、黒瀬の次の言葉を待った。
「同じ名前で活動しているライバーは確認されませんでした。商標についても、現時点で使用上の問題は見つかっていません」
胸の奥に張りつめていたものが、ほどけていく。
けれど、まだ声を上げるのが怖くて、梓は黒瀬を見つめたまま動けなかった。
「中村さん本人も希望していますので、本日から『神城マリナ』を正式な活動名として使用して構いません」
「……本当にいいんですか?」
「そのために確認したんです」
黒瀬の返答を聞いた瞬間、梓の顔にようやく笑みが広がった。
「ありがとうございます!」
「よかったね、梓ちゃん」
神代が、自分のことのように嬉しそうな笑顔を向けてくる。
「よかったですね、中村さん」
「これで、正式に名前を出せますね」
新井と藤田も続き、美咲は梓の肩を軽く叩いた。
「これで一安心ね」
「はい!」
マリナチームの表情が一斉に明るくなる。その笑顔を見ているうちに、梓の胸に残っていた不安も消えていった。
その喜びに浸りかけたところで、黒瀬の鋭い声が飛んだ。
「ただし――事後報告は、今回までにしてください!!」
「「「「「はい!」」」」」
マリナチーム全員の返事が、会議室に響き渡った。
黒瀬はまだ言いたいことがありそうな顔をしていたが、橘に促され、書類を手に席を立った。
2人が会議室を出ようとしたところで、橘が扉の前で足を止める。
「神代さん、また行きましょう。今度は俺がご馳走しますよ」
「本当ですか?」
神代の声が、分かりやすく弾んだ。
「ええ。先日の店、気に入りました。今度は別のクラブにも行ってみましょう」
それだけ言い残し、橘は黒瀬とともに会議室を出ていった。
閉じた扉をしばらく見つめていた新井が、神代へ顔を向ける。
「神代さん。ちなみに、ああいうクラブってどのくらいかかるんですか?」
「ああ……」
神代は少し遠い目をすると、片手を上げて5本の指を広げた。
「5万円っすか?」
「銀座だよ。50万……」
「50万……」
新井の表情が固まった。
そのやり取りを聞いていた梓が、不思議そうに首をかしげる。
「あの、クラブって何をするところなんですか?」
「女の人に席についてもらって、お酒を飲みながら話すところだよ」
「それだけで50万円もするんですか?」
「いやあ、俺も酔ってたからさ。『何かいいボトル入れて』って言っちゃったのよ」
神代は気まずそうに頬をかいた。
「それでボトルを2本入れたら、すごいことになったね……」
「完全に自分で値段上げてますやん」
「まあ、橘さんも喜んでくれたし、会社同士の付き合いだと思えば安いかな?」
「50万を安いで片づけんといてください」
「橘さん、こういうお店が好きなんですか?」
梓が尋ねると、神代は頷いた。
「好きみたいだね。『黒瀬はこういう店には来たがらないから、神代さんが付き合ってくれて嬉しい』って言ってたよ」
「ああ……黒瀬さんは絶対に来なさそうですね」
藤田が妙に納得した顔をする。
「誘う前から断ってそうですもんね」
「『仕事の話なら会議室で十分です』とか言いそうやな……」
新井が黒瀬の口調を真似ると、全員の頭に同じ姿が浮かんだのか、小さな笑いが広がった。
「あ、ちなみに、これがその時の領収書ね」
神代は財布から折り畳まれた紙を取り出し、新井へ差し出した。
受け取った新井が領収書を開く。
金額欄には、はっきりと『¥500,000―』と記されていた。
「ほんまに50万や……」
呆然と呟いた新井が領収書を裏返す。
「『Nexus Live・橘修司氏。業務提携および今後の活動に関する意見交換。参加者2名』……」
「店を出たあと、忘れないうちに書いておいたんだよ」
「酔うてはったのに、領収書はきっちりもろて、裏にメモまで残してはるところが神代さんらしいですね」
「そりゃ、これを経費で落とせなかったら泣くからね!」
神代が急に真剣な表情で言い切ると、梓は思わず笑ってしまった。
「はい。銀座の話はそのくらいにして、こちらも正式に動かしますね」
藤田は会話を打ち切ると、ノートパソコンを開いた。
「公式サイトと所属ライバー一覧、それから各プロフィールの表記変更は、私から担当部署へ依頼します。SNSの告知も今日中に準備しますね」
「結構、変更するところがあるんですね……」
梓が思わず呟くと、藤田はキーボードを打ちながら笑った。
「名前が変わるって、そういうことよ。告知文ができたら、梓ちゃんにも確認してもらうから」
「はい。お願いします」
「新井君は、配信画面や待機画面に名前が入っているところを確認してもらえる?」
「分かりました。使ってる素材も含めて、一通り見ときます」
「美咲さんは、今後のスケジュールと外部へ出している資料の確認をお願いします」
「分かったわ。関係先への連絡も、変更が必要なところを洗い出しておく」
藤田の指示に応じて、それぞれがすぐに動き始める。
「あれ、俺は?」
神代が自分を指差すと、藤田は手を止めずに答えた。
「神代さんは、正式採用を一緒に喜んであげてください」
「それでいいの?」
「今のところは」
藤田にそう言われ、神代は少しだけ困ったように笑ってから、梓へ向き直った。
「じゃあ、改めて。神城マリナ、正式採用おめでとう」
「おめでとうございます」
「おめでとう、梓ちゃん」
新井と美咲も続き、藤田もノートパソコン越しに笑顔を向けてくれる。
「ありがとうございます」
梓は照れくささを感じながらも、今度はまっすぐに頭を下げた。
配信中の思いつきから生まれた名前を、今はチームのみんなが自分の名前として受け入れ、そのために動いてくれている。
――神城マリナ。
胸の中で呼んでみると、その名前はもう、ずっと前から自分のものだったように自然に響いた。
こうして、神城マリナとしての活動が正式に始まった。




