第38話「すぐに駆け付けますんで!」
西山アリアのデビューに向けて用意された部屋には、大小さまざまな段ボールが積み上げられていた。
配信に使う部屋のデスクはまだ空っぽで、壁際には開封されていないモニターやパソコンの箱が並んでいる。
リビングでは、アリアと黒瀬、高木、佐伯の4人が、残りのメンバーが到着するのを待っていた。
やがて、玄関の呼び鈴が鳴った。
「来たみたいですね。僕が出ます」
高木が立ち上がる。
「あ、私も行きます」
アリアは高木の後ろについて玄関へ向かった。
扉を開けると、先頭に立っていた藤田が軽く手を上げた。
「お待たせ、アリアちゃん」
「お疲れさまです」
藤田の後ろには、大きな機材バッグを肩へ掛けた、すらりと背の高い男性が立っていた。
黒いパーカーに、白いTシャツと細身の黒いパンツ。ラフに崩した金髪の下から、黒く刈り上げられたサイドと、小さなリングピアスが覗いている。
男性は肩に掛けたバッグの位置を直しながら、少しうつむいていた。長めの前髪に隠れ、まだ目元までは見えない。
「お疲れさまです」
短く挨拶しながら、男性が顔を上げる。
その動きに合わせて金色の前髪が揺れ、隠れていた淡い琥珀色の瞳が現れた。
すっと通った鼻筋に、引き締まった輪郭。真剣な表情をしているせいか、整った顔立ちが余計に際立って見える。
不意に視線が重なった。
(……かっこいい)
あまりにも素直な感想が浮かび、アリアは慌てて打ち消した。
まだ名前すら知らない相手だ。
「どうぞ。皆さん、リビングで待ってます」
高木が2人を中へ通す。
全員がリビングへ集まったところで、黒瀬が口を開いた。
「では、全員揃いましたので、改めて顔合わせを始めましょう」
黒瀬は藤田と、先ほど玄関で会った男性へ向き直った。
「まず、私がNexus Live代表の黒瀬凌太です。アリアさんのデビューに向けた全体の統括を行います」
続いて、アリアへ視線を向ける。
「こちらが、西山アリアさんです。今後は彩瀬アリアとして活動してもらいます」
「西山アリアです。よろしくお願いします!」
アリアが勢いよく頭を下げた。
「正式な担当プロデューサーは、高木慎吾です。活動方針や企画、各部署との調整を担当します」
「高木です。よろしくお願いします」
高木が軽く頭を下げる。
「担当マネージャーは、佐伯奈緒です。今後は西山さんの活動に関する連絡や、日々のスケジュール管理を担当します」
名前を呼ばれた佐伯が、緊張した様子で背筋を伸ばした。
「佐伯です。よ、よろしくお願いします」
そのとき、向かい側に座っていた男性が佐伯と目を合わせた。
口元をわずかに緩め、肩のあたりで小さく手を振る。
佐伯は一瞬だけ目を見開いた。
黒瀬がまだ話している最中だからだろう。
応じるべきか迷った末に、胸元でほんの少しだけ手を動かして返している。
(……知り合いなんだ)
アリアが2人を見比べている間にも、黒瀬の紹介は続いていた。
「続いて、企画と宣伝を担当する藤田由香です。配信企画や告知、SNSを中心に関わってもらいます」
「よろしくね、アリアちゃん」
「よろしくお願いします!」
「そして、本日の配信技術と機材を担当する、新井颯大です。今日は配信環境の立ち上げと、各種設定を行ってもらいます」
先ほど玄関で見た男性が、軽く頭を下げる。
「あ、すんません。新井颯大です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
「はい。よろしくお願いします」
黒瀬が口にした「本日の」という言葉を、アリアは深く気に留めなかった。
配信技術と機材を担当する新井。
その部分だけが、アリアの中に残っていた。
ひととおりの紹介が終わると、新井は改めて佐伯へ顔を向けた。
「奈緒ちゃん、久しぶり」
「お、お久しぶりです。新井さん」
先ほど手を振り返したときと同じように、佐伯は少し困ったような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべている。
「よかったやん。新しい担当決まって。しかも立ち上げからやろ?」
「はい。新人の方を最初から担当させていただくのは初めてなので、まだ少し不安ですけど……」
「奈緒ちゃんなら大丈夫やって。前の担当では、相手とちょっと馬が合わんかっただけやろ」
「……ありがとうございます」
新井の表情は、先ほどまでよりも少しだけ柔らかい。佐伯も照れたように目を伏せていた。
(……奈緒ちゃん?)
アリアの耳には、2人の会話の内容よりも、その親しげな呼び方の方が強く残った。
「ほんなら、先に機材を見させてもらいますね」
そう告げると、新井は機材バッグを持って配信部屋へ向かった。
アリアも少し遅れて、その後を追う。
新井はすでに床へ膝をつき、箱に記された型番と手元の資料を見比べていた。
「あの、新井さん」
「はい?」
「私も何か手伝います」
「いや、大丈夫ですよ。結構重いもんもありますし」
「でも、これ全部ひとりでやるんですよね?」
「まあ、そうですけど」
「箱を開けるくらいなら、私にもできます」
アリアが食い下がると、新井は積み上がった段ボールと彼女の顔を交互に見た。
「ほんなら、箱を開けてもらってもええですか?」
「はい!」
「刃はあんまり出さんようにしてくださいね。中のケーブルまで切ったら大変なんで」
「分かりました」
新井からカッターを受け取り、アリアは近くの段ボールの前へしゃがみ込んだ。
短く刃を出し、段ボールを留めているテープへ慎重に当てる。
その途中で、先ほどリビングで見た光景を思い出した。
「あの、新井さん」
「はい?」
「佐伯さんと、仲がいいんですか?」
新井が段ボールの型番を確認しながら、顔を上げる。
「ああ、奈緒ちゃんですか?」
また、ごく自然にその呼び方が出てきた。
「現場でよう会ってましたからね。担当してるライバーは違いましたけど、一緒になることが多かったんですよ」
「そうなんですね」
「あの子、頑張り屋なんですけどね。ちょっと気ぃ遣いすぎるところがあるんで」
新井は何でもないことのように話しながら、開封された箱からケーブルを取り出していく。
「まあ、仲良くやってくださいよ」
「……はい。もちろんです」
アリアはそう答えながら、手元の段ボールへ視線を落とした。
新井が佐伯のことをよく知っている。
そのことだけは、十分に伝わってきた。
アリアが最初の箱へカッターの刃を入れている間に、リビングでは今後の配信スケジュールについての話が始まっていた。
しばらくすると、佐伯が配信部屋の扉から控えめに顔を覗かせる。
「西山さん、本当に無理はしなくて大丈夫ですからね」
心配そうに念を押す佐伯へ、アリアは笑顔を返した。
「大丈夫です。これくらいならできます!」
「あの……怪我だけはしないようにしてくださいね」
「はい!」
元気よく返事をして、アリアは次の箱へ手を伸ばす。
佐伯がリビングへ戻ると、配信部屋にはアリアと新井の2人だけが残された。
新井は特に気にした様子もなく、開封した箱から機材を取り出している。緩衝材を外し、付属品を確認してから、デスクの上へ順番に並べていった。
ほとんど会話はない。
けれど、気まずさは感じなかった。
新井の手元を見ていれば、次にどの箱を開ければいいのか、なんとなく分かる。アリアが先回りして箱を開けておくと、新井は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ。このくらいしかできませんけど」
「十分ですよ。1人やと、箱開けるだけでも地味に時間かかるんで」
褒められたわけでもないのに、アリアの口元がわずかに緩む。
もう少し役に立ちたい。
そんなことを考えながら、新しい箱へカッターを滑らせた。
「あっ――」
刃先がテープから外れ、そのまま左手の人差し指をかすめた。
ほんの一瞬、鋭い痛みが走る。
「痛っ!」
小さく声を上げると、新井がすぐに振り返った。
「西山さん?」
「大丈夫です。ちょっと切っただけですから」
アリアは指先を隠すように手を握った。
傷は浅い。少し血がにじんでいるだけで、大騒ぎするほどではない。
しかし、新井は手にしていたケーブルを置くと、すぐにアリアのそばへやってきた。
「いや、あかんですよ。見せてもらってええですか?」
「本当に大丈夫ですって」
「大丈夫かどうか確認するんで、手ぇ出してください」
穏やかな口調ではあるが、有無を言わせない。
アリアがおとなしく左手を差し出すと、新井はその指先を覗き込んだ。
「深くはなさそうですね。ちょっと待っててください」
新井は自分のバッグへ戻り、小さなポーチを取り出した。
「絆創膏、持ってるんですか?」
「こういう作業してると、たまに切るんですよ。俺も前に何回かやってるんで」
新井は絆創膏の包装を破りながら、アリアの前へ再びしゃがみ込む。
「手、出してもらってええですか?」
「……はい」
差し出した手を、新井の指がそっと支えた。
傷口へガーゼの部分を合わせ、ずれないように絆創膏を巻いていく。
ただ、それだけだった。
新井は傷を見ているだけで、アリアの顔など見てもいない。
それなのに、指先から伝わる感触を意識した途端、鼓動が急に速くなった。
(なにこれ……)
絆創膏を巻いてもらっているだけだ。
分かっているのに、指輪でもはめてもらっているような気分になる。
(いやいや、なに考えてるの、私)
「これで大丈夫やと思います」
新井が手を離す。
わずかに残った温度を惜しいと思ってしまい、アリアは慌てて絆創膏の巻かれた指を胸元へ引き寄せた。
「ありがとうございます……」
「ほな、カッターはもう俺がやりますわ」
「えっ。でも――」
「あきません。また切ったら困るんで」
新井は床に落ちていたカッターを拾い上げると、そのまま自分の工具入れへしまった。
「西山さんは、開けた箱から緩衝材出してもらってええですか? 刃物使わん作業だけお願いします」
「……分かりました」
完全に子ども扱いされている気がする。
少し不満はあるものの、心配されたことが嬉しくもあり、強く言い返せなかった。
アリアは絆創膏の巻かれた指を見つめる。
白くて、ごく普通の絆創膏だった。
それでも、しばらく剥がしたくないと思った。
それからアリアは言われたとおり、箱から緩衝材を取り出し、空になった段ボールを部屋の隅へ運んだ。
新井はその間にも、パソコン本体へケーブルをつなぎ、2台のモニターをデスクへ並べていく。
「そっちの箱、次に使います?」
「いや、それは最後で大丈夫です。先に足元にある細長いやつ、取ってもらえます?」
「これですね」
「そうです。ありがとうございます」
作業を始めてから、新井が口にするのは必要な指示と礼くらいだった。
それでも冷たい印象はない。
アリアが重そうな箱を持ち上げようとすれば、どこから見ていたのかすぐに手を伸ばしてくる。
「それ重いんで、置いといてください」
「これくらい持てますよ」
「落としたら危ないですから」
「新井さん、私のこと結構か弱いと思ってません?」
「さっきカッターで指切った人に言われても、説得力ないですよ」
「うっ……」
言い返せず、アリアは箱から手を離した。
新井はその箱を軽々と持ち上げ、デスクの横へ運んでいく。
(そういう言い方するんだ……)
仕事中はずっと真面目で寡黙な人だと思っていた。
けれど、話しかければ意外と返してくれる。少しだけ意地悪な返しをするところも、アリアには好ましく思えた。
機材の設置があらかた終わる頃には、殺風景だったデスクの上に配信環境が出来上がっていた。
2台のモニターに、キーボードとマウス。少し離れた位置には、アリアの動きを読み取るための機材も置かれている。
新井はモニターの角度を確認したあと、椅子の背もたれへ手を置いた。
「西山さん、ちょっとええですか?」
「はい!」
「椅子の高さ合わせたいんで、座ってもらってええです?」
「分かりました」
アリアが椅子へ腰を下ろすと、新井はその横へ立った。
「一回、普通に画面見てもらえます?」
「こうですか?」
「はい。その姿勢のままでお願いします」
新井が椅子の下へ手を伸ばし、高さを少しずつ調整していく。
続いて、アリアの視線に合わせてモニターを動かすため、すぐ横から身を乗り出した。
(……近い)
新井の顔が、アリアのすぐ横にある。
機材に触れる腕が視界を横切り、わずかに身じろぎするだけで肩が触れてしまいそうだった。
「これくらいの高さで見にくくないですか?」
「……はい」
「首、しんどくないです?」
「……はい」
「西山さん?」
「はい!」
急に名前を呼ばれ、アリアの声が裏返った。
新井が不思議そうに顔を向ける。
近い。
先ほどよりも、さらに近い。
「いや、見にくくないですかって聞いたんですけど」
「あっ、見やすいです! すっごく見やすいです!」
「そうですか?」
新井は少し首を傾げたものの、それ以上は追及せず、再びモニターへ向き直った。
「椅子の調整は大事なんで、ちゃんと聞いてくださいね。長時間座るのは西山さんなんですから」
「……はい」
注意されているのに、新井が自分の身体を気遣ってくれたことが、少しだけ嬉しかった。
「こっちが配信画面で、もう1台がコメント確認用です。最初はこの配置で使ってみてください。慣れてきたら、自分のやりやすいように変えてもろたらええんで」
「はい」
「配信を始めるときは、まずこっちのソフトを起動して――」
新井の説明は続いている。
内容を覚えなければならないことは分かっていた。
しかし、すぐそばから聞こえる声と、視界の端にある横顔が気になって、言葉がほとんど頭に入ってこない。
「ここの数値は触らんようにしてください。変わるとトラッキングがずれることあるんで」
「はい……」
「それと、音が入らんときは――」
「はい……」
「西山さん、聞いてます?」
「あっ、はい!? 聞いてます!」
「ほんまですか?」
「聞いてました!」
「ほな、音が入らんときはどうします?」
「えっ」
アリアの口が止まった。
新井は数秒待ってから、小さく息を吐く。
「……もう一回説明しますね」
「すみません……」
「覚えること多いんで、最初はしゃあないですよ」
新井はアリアが聞いていなかった理由など、まるで気づいていない。
そのことに安心しながらも、少しだけ残念に思ってしまう自分がいた。
アリアは今度こそ説明へ集中しようと、モニターをまっすぐ見つめた。
「新井さんって、梓のところにも行ってるんですよね?」
集中すると決めたばかりなのに、口から出たのは操作とは関係のない質問だった。
「梓? ああ、中村さんですか?」
「はい。マリナの」
「はい。あっちの機材も見てますよ」
「そうなんですね」
「新人の立ち上げが重なってるんで、今が一番忙しい時期ですわ」
梓は、新井にとって担当している演者の1人にすぎない。
そう分かっているのに、アリアの胸の奥に小さな引っかかりが残った。
「中村さんとは、お知り合いなんですか?」
新井がモニターを操作しながら尋ねる。
「はい。声優のオーディションで何度も一緒になってて。連絡先も交換してます」
「そうやったんですね」
「梓、そっちではどんな感じですか?」
「どんな感じ……と言われても、普通ですよ」
「普通?」
「機材の説明はちゃんと聞いてくれます」
アリアの胸に言葉が刺さった。
「それ、私がちゃんと聞いてないって言いたいんですか?」
「いや、そこまでは言うてませんけど」
「今、絶対思いましたよね?」
「……次、説明してもええですか?」
「誤魔化した」
アリアが頬を膨らませると、新井は困ったように笑った。
「でも、覚えるのは早いですね。勘がいいと言うか」
新井はモニターを操作しながら、何かを思い出したように口元を緩める。
「この間、中村さんの担当マネージャーさんと少し言い合いになって、中村さんに怒鳴られましたけど」
そう続けると、新井は今度こそ声を上げて笑った。
初めて見る、はっきりとした笑顔だった。
ずっと真剣な横顔を見ていたアリアには、その無邪気な笑顔も不意打ちだった。
「ちゃんと聞いてくださいよ。西山さんが1人で配信するときに困るんですから」
「……はい」
「また聞いてへんでしょ」
「聞いてます!」
そう答えながらも、今度は笑った顔が頭から離れない。
新井は疑わしそうにアリアを見たあと、デスクの横に置かれた機材を指差した。
「このボタンが配信開始です。ただし、押す前に必ずマイクとモデルが動いてるか確認してください。終了するときも、画面が完全に切れたのを確認してから話すようにしてくださいね」
「切ったつもりで残ってたら大変ですもんね」
「そういう事故、普通にありますから」
「分かりました。そこは絶対に確認します」
「今のはちゃんと聞いてましたね」
「最初からちゃんと聞いてます!」
「音が入らんときの対処は?」
「それはもういいじゃないですか!」
アリアが抗議すると、新井はまた小さく笑った。
今度は見逃さなかった。
やはり、無愛想な人ではない。ただ仕事へ集中すると、周りが見えなくなるだけなのだろう。
ひととおり説明を終えると、新井はアリアを椅子から立たせ、トラッキングの確認に移った。
アリアが顔を左右へ動かすたび、モニターに映った彩瀬アリアも同じように動く。口を開けば唇が開き、目を細めれば表情まで自然に変化した。
「すごい……」
「動き、かなり綺麗ですね」
「ですよね! 私も初めて見たとき、びっくりしたんです」
「矢野さんのモデルは、このへんの精度がほんまに高いんですよ」
新井の声が、急に弾んだ。
「髪の揺れ方もそうですけど、顔を横に向けたときの輪郭が崩れへんのがすごいんです。普通は角度がつくと、どうしても――」
先ほどまで寡黙だったのが嘘のように、次々と言葉が出てくる。
アリアは説明の半分も理解できなかったが、楽しそうに話す新井を見ているのは嫌ではなかった。
「新井さん、こういう話になると結構しゃべるんですね」
「え?」
「ずっと静かな人なのかと思ってました」
「すんません。興味ないですよね」
「そんなこと言ってません。もっと聞きたいです」
「ほんまですか?」
「はい。新井さんが楽しそうなので」
新井が少し目を見開いた。
アリア自身も、口にしてから少し恥ずかしくなる。
「いや、その……私も自分のモデルのことは知っておきたいですし」
「ああ、そういうことですか」
(そういうことにしておこう……)
新井は何も気づかないまま、再びモニターへ向き直った。
しばらくして配信テストまで終わると、リビングで打ち合わせをしていた黒瀬たちが戻ってきた。
「新井さん、進み具合はいかがですか?」
佐伯が配信部屋の中を見回しながら、遠慮がちに尋ねる。
「機材関係はもう終わったで。配信テストも問題なし」
「もう終わったんですね。西山さん、操作は大丈夫そうですか?」
「はい。たぶん」
「たぶんなんですか?」
「だ、大丈夫です!」
新井の小さな呟きを拾い、アリアは慌てて言い直した。
佐伯の視線が、アリアの人差し指に止まる。
「あの、西山さん。指、どうされたんですか?」
「ちょっとカッターで切っちゃって」
「だから、無理はしなくて大丈夫だとお伝えしたのに……」
「でも新井さんが、すぐに絆創膏を貼ってくれたので大丈夫です」
アリアはそう言いながら、なぜか絆創膏を見せるように指を持ち上げた。
「新井さん、絆創膏まで持ち歩いているんですか?」
「俺も作業中に切ることあるから、入れっぱなしにしてるだけやで」
新井にとっては、それだけのことらしい。
佐伯も「用意がいいんですね」と小さく頷き、それ以上は気に留めなかった。
「配信まわりで何かあったら、奈緒ちゃんか、担当の機材班の人に連絡してください」
新井は工具をバッグへ戻しながら、アリアへ声をかけた。
「俺が空いてたら、すぐに駆けつけますんで」
「……すぐに?」
「はい?」
「あっ、いえ。分かりました」
俺が空いていたら。
その条件も、ちゃんと聞こえていた。
けれど、アリアの頭の中に残ったのは、そのあとの言葉だけだった。
◇
その日の夜。
自宅へ戻ったアリアは、ベッドの上に寝転びながらスマートフォンを眺めていた。
左手の人差し指には、まだ新井に貼ってもらった絆創膏が残っている。
傷はもうほとんど痛まない。
シャワーを浴びるときに濡れてしまったため、本当なら貼り替えた方がいいのだろう。それでも剥がす気にはなれなかった。
(新井颯大さん……)
連絡先は、今日の機材設置に関する確認用として、担当マネージャーから共有されている。
もちろん、用もないのに連絡するわけにはいかない。
「機材、壊れないかな……」
口に出した直後、アリアは勢いよく起き上がった。
「いやいや、壊れたらダメでしょ!」
デビュー前の大事な機材である。
自分でも何を考えているのか分からない。
誰かに話して整理したかった。
アリアは連絡先を開き、見慣れた名前を押す。
数回の呼び出し音のあと、梓が電話に出た。
『もしもし、アリアちゃん?』
「梓ー。今、大丈夫?」
『うん。どうしたの?』
聞き慣れた声に、アリアの肩からわずかに力が抜けた。何から話そうか迷いながら、絆創膏の端を親指でそっとなぞる。
「今日ね、配信部屋の機材を設置してもらったんだけど」
『ああ、今日だったんだ。もう使えるようになった?』
「なった。モニターも2台あって、トラッキングもすごく綺麗だったよ」
『よかったじゃん』
「それでね、設置に来てくれた人が、新井さんっていう人で」
『新井さん?』
梓の口から自然に名前が出た。
初めて聞いた名前を確かめるような響きではなかった。アリアはベッドの上で膝を抱え、少しだけ唇を尖らせる。
「やっぱり知ってるんだ」
『そりゃ知ってるよ。マリナの配信も担当してくれてるし』
「そういえば梓、新井さんのこと怒鳴ったの?」
『えっ?』
「新井さんが言ってた。担当マネージャーさんと言い合いになって、中村さんに怒鳴られたって」
電話の向こうで、梓が小さく息を詰める。思い当たる出来事があるらしい。
『あれは、新井さんと美咲さんがずっと言い合ってたから、止めようとしただけで……』
「でも、怒鳴ったんだ?」
『……ちょっと大きな声を出しただけ』
「新井さん、思い出しながら笑ってたよ」
『もう……』
困りきった声を聞いているうちに、アリアの胸に小さないたずら心が芽生えた。
「ふーん……」
『なに、その反応』
「別に。それで、新井さんってめっちゃかっこいいよねー」
電話の向こうが静かになった。
「梓?」
『うん。聞いてる』
短い返事に促されるように、アリアの口から今日見た新井の姿が次々とこぼれ出した。
「仕事してるときも、すっごい寡黙でさ。ずっと黙って機材組み立ててるの。手際もいいし、分からないこと聞いたらちゃんと教えてくれるし」
『へえー』
「でも、機材の話になると急にいっぱいしゃべるんだよ。普段静かなのに、好きなことになると楽しそうに話すの。そういうところもいいなって」
『うんうん』
「あと私が指切ったら、すぐに気づいて絆創膏貼ってくれて――」
そこまで話したところで、アリアはようやく違和感に気づいた。
「……梓、なんでずっと笑ってるの?」
『笑ってないよ』
「笑ってる。絶対笑ってるでしょ」
『だってアリアちゃん、分かりやすいんだもん』
「なにが?」
『惚れたんだなって』
「惚れてない!!」
アリアは反射的に叫び、抱えていた膝へ顔を伏せた。否定した声の大きさが、かえって梓の確信を深めてしまった気がする。
『そんな大きな声出さなくても聞こえてるって』
「ただ、かっこいい人だったって話してるだけ!」
『うん。かっこよくて、仕事ができて、無口だけど好きなことになると楽しそうに話して、指に絆創膏を貼ってくれた人ね』
「そう!」
『それを惚れたって言うんじゃないの?』
「言わない!」
梓が電話の向こうでくすくすと笑っている。どうやら何を言っても、今は否定の材料にはならないらしい。
アリアは熱くなった頬を、抱えていた膝へ押しつけた。
『でも新井さん、神代さんによく懐いてるよ』
「神代さん?」
『今日も神代さんがいなくて、ちょっと寂しそうだったし。神代さんも新井さんがいなくて気にしてた』
「えっ……両想い?」
『どうだろうねー』
「神代さんって誰? マリナの関係者?」
『うん。マリナのプロデューサー』
「女の人?」
『いや。41歳のおじさんだけど』
「……おじさん?」
『うん』
「なんだ……」
胸の奥に引っかかっていたものがほどけ、思わず安堵の息が漏れた。
直後、梓の声が少し弾む。
『今、安心した?』
「してない!!」
『したよね?』
「してないってば!」
『アリアちゃん、分かりやすいんだもん。ぷぷ~』
「梓ぁ!」
完全に遊ばれている。
このままでは一方的にからかわれるだけだ。アリアは話題を変えようとして、今日ずっと気になっていた呼び方を口にした。
「それに、新井さん……うちの担当マネージャーのこと、奈緒ちゃんって呼んでたし」
『へえ。親しそうだった?』
「顔合わせの途中で手を振ってた。前からよく知ってるみたいで……」
『そこも気になるんだ?』
「気になってない。ただ、奈緒ちゃんって呼んでたから」
否定しながらも、アリアの声にはわずかな不満が滲んでいた。
それでも電話を切れないのは、もっと新井のことを聞きたい気持ちが残っているからだった。
「……新井さん、梓のところにはよく行くの?」
『機材の設定とか、配信のときには来るよ』
「ふーん……」
『また気にしてる』
「気にしてないってば! 新井さんは新人2人の担当なんだから、梓のところにも行くでしょ」
『じゃあ、新井さんのことは別にどうでもいいんだ?』
「どうでもよくはないけど……」
『へえー』
「梓、その言い方やめて!」
梓は楽しそうに笑っている。
アリアは枕を抱き寄せ、そこへ顔を埋めた。
『でもアリアちゃん、マネージャーさんから恋愛禁止って言われなかった?』
「まだ何も始まってないから!」
言い返した瞬間、電話の向こうから笑い声が消えた。
妙に長く感じる沈黙のなかで、アリアは自分が何を口にしたのか気づき、ゆっくりと顔を上げた。
『始める気はあるんだ?』
「……違う」
『今、自分で言ったよね?』
「言ってない」
『まだ何も始まってないって』
「言ってない!」
『聞こえてたよ』
「梓ぁぁぁ!!」
恥ずかしさを誤魔化すように叫ぶと、梓は声を上げて笑った。
ひとしきり笑ったあと、少しだけ柔らかな声で言う。
『まあ、新井さんはいい人だと思うよ』
「……そうなの?」
『うん。仕事は真面目だし、困ったときはすぐに来てくれるし』
からかう調子の消えた梓の言葉に、アリアは枕から顔を上げた。
今日、新井から言われた言葉が蘇る。
――空いてたら、すぐに駆けつけますんで。
「やっぱり、すぐに来てくれるんだ……」
『ただし、かなり鈍そうだけど』
「鈍い?」
『ううん。こっちの話』
「なにそれ。気になる」
『アリアちゃんにはまだ関係ないよ』
「教えてよ」
『そのうち自分で分かるんじゃない?』
梓は最後まで教えてくれなかった。
通話を終えたあと、アリアは再びベッドへ横になる。
スマートフォンを胸元へ置き、天井を見上げた。
今日会ったばかりの相手だ。
まだ何も知らない。
好きになったわけでも、何かを始めると決めたわけでもない。
ただ、また会いたい。
今のところは、それだけだった。
アリアは左手を持ち上げ、絆創膏の巻かれた人差し指を眺める。
「……剥がしたくないな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、アリアは枕へ顔を埋めた。
◇
数日後。
新井はマリナの配信機材を確認するため、NEST東京オフィスを訪れていた。
梓が見守るなか、パソコンの画面を開き、配信ソフトやトラッキングの状態を順番に確認していく。
「今のところ問題なさそうですね。イラスト配信のあと、カメラの位置は動かしてません?」
「はい。新井さんに動かさない方がいいと言われたので、そのままにしてます」
「なら大丈夫です。手元を映すときも、前に説明したキーだけ押してもらえれば切り替わりますんで」
「分かりました」
返事を聞いた新井は、画面に表示された数値をもう一度確認した。
「そういや中村さん、西山さんとは声優のオーディションでよう一緒になってたんですよね」
「はい。今でも時々、電話します」
梓は答えながら、数日前の電話を思い出した。本人を前にすると、アリアが気にしていた呼び方が急におかしく思えてくる。
「そういえば新井さん。奈緒ちゃんって誰ですか?」
「はい?」
梓がいたずらっぽく尋ねると、新井は画面から顔を上げ、怪訝そうに眉を寄せた。
「なんで中村さんが、奈緒ちゃんのこと知ってはるんですか?」
「アリアちゃんから聞きました」
梓は答えながら、意味ありげに口元を緩めた。
「もうそこまで情報共有してはるんですか。怖いわあ……」
「それで、どういう関係なんですか?」
「妹みたいなもんですよ。真面目すぎて、何でも1人で抱え込んでまうんです。危なっかしくて、なんか放っとけへんのですよね」
(アリアちゃん、これはちょっと分が悪いかも……)
「なんなんすか。西山さんも中村さんも、奈緒ちゃんのこと聞いてきますね」
不思議そうな新井の視線を受け、梓は何事もなかったように表情を戻した。
「なんでもありません」
梓はそのまま話を切り替えるように、以前から気になっていたことを尋ねた。
「新井さん、そういえばアリアちゃんのところも兼任してるんですか?」
「兼任してませんよ」
新井は不思議そうに眉を上げた。
「あのときは、西山さんを担当してる機材班の人が休みやったんで、俺が代わりに行っただけです」
「え?」
梓の口元から笑みが消えた。先ほどまでのからかう気分も、一瞬でどこかへ飛んでいく。
「アリアちゃん、新井さんが担当だって言ってましたよ。新人2人の担当だって」
「え?」
今度は新井が目を瞬かせた。
「しかも、何かあったらすぐに駆けつけるって言ったんでしょ?」
「言いましたけど……『俺が空いてたら』すぐに駆けつけますよ、って言いましたよ」
新井は戸惑いながらも、当日のやり取りを思い返す。
「それに、何かあったら西山さんの担当マネージャーの奈緒ちゃんか、担当の機材班の人に連絡してくださいねって」
「「……え?」」
梓と新井の声が重なった。互いの顔を見つめたまま、どちらも次の言葉が出てこない。
梓は電話で聞いたアリアの言葉を、新井は当日の自分の説明を、それぞれ頭の中でたどり直していた。
「西山さん、めっちゃ天然なんすか?」
「そんなことはないと思いますけど……」
梓が困惑しながら答えると、新井は記憶を確かめるように視線を上げた。
「いや、黒瀬さんも最初に俺を紹介するとき、『本日の配信技術と機材を担当する新井です』って言ってましたし……」
新井は納得がいかない様子で首を傾げる。
「西山さんの担当とは、一言も言ってなかったですよ」
「……アリアちゃん、聞きたいところだけ聞いてたのかもしれませんね」
梓には、その“聞きたいところ”が何だったのか、なんとなく分かってしまった。
「俺が担当やったら、なんかええことあるんすか?」
「……」
純粋に疑問を抱いているらしい新井の顔を、梓はしばらく見つめた。アリアの気持ちだけでなく、新井の鈍さも相当なものらしい。
(アリアちゃん、大丈夫かな。色々と……)




