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売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第二章 VTuber・マリナ、始動。
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第38話「すぐに駆け付けますんで!」

西山アリアのデビューに向けて用意された部屋には、大小さまざまな段ボールが積み上げられていた。


 配信に使う部屋のデスクはまだ空っぽで、壁際には開封されていないモニターやパソコンの箱が並んでいる。


 リビングでは、アリアと黒瀬、高木、佐伯の4人が、残りのメンバーが到着するのを待っていた。


 やがて、玄関の呼び鈴が鳴った。


「来たみたいですね。僕が出ます」


 高木が立ち上がる。


「あ、私も行きます」


 アリアは高木の後ろについて玄関へ向かった。


 扉を開けると、先頭に立っていた藤田が軽く手を上げた。


「お待たせ、アリアちゃん」


「お疲れさまです」


 藤田の後ろには、大きな機材バッグを肩へ掛けた、すらりと背の高い男性が立っていた。


 黒いパーカーに、白いTシャツと細身の黒いパンツ。ラフに崩した金髪の下から、黒く刈り上げられたサイドと、小さなリングピアスが覗いている。


 男性は肩に掛けたバッグの位置を直しながら、少しうつむいていた。長めの前髪に隠れ、まだ目元までは見えない。


「お疲れさまです」


 短く挨拶しながら、男性が顔を上げる。


 その動きに合わせて金色の前髪が揺れ、隠れていた淡い琥珀色の瞳が現れた。


 すっと通った鼻筋に、引き締まった輪郭。真剣な表情をしているせいか、整った顔立ちが余計に際立って見える。


 不意に視線が重なった。


(……かっこいい)


 あまりにも素直な感想が浮かび、アリアは慌てて打ち消した。


 まだ名前すら知らない相手だ。


「どうぞ。皆さん、リビングで待ってます」


 高木が2人を中へ通す。


 全員がリビングへ集まったところで、黒瀬が口を開いた。


「では、全員揃いましたので、改めて顔合わせを始めましょう」


 黒瀬は藤田と、先ほど玄関で会った男性へ向き直った。


「まず、私がNexus Live代表の黒瀬凌太です。アリアさんのデビューに向けた全体の統括を行います」


 続いて、アリアへ視線を向ける。


「こちらが、西山アリアさんです。今後は彩瀬アリアとして活動してもらいます」


「西山アリアです。よろしくお願いします!」


 アリアが勢いよく頭を下げた。


「正式な担当プロデューサーは、高木慎吾です。活動方針や企画、各部署との調整を担当します」


「高木です。よろしくお願いします」


 高木が軽く頭を下げる。


「担当マネージャーは、佐伯奈緒です。今後は西山さんの活動に関する連絡や、日々のスケジュール管理を担当します」


 名前を呼ばれた佐伯が、緊張した様子で背筋を伸ばした。


「佐伯です。よ、よろしくお願いします」


 そのとき、向かい側に座っていた男性が佐伯と目を合わせた。


 口元をわずかに緩め、肩のあたりで小さく手を振る。


 佐伯は一瞬だけ目を見開いた。


 黒瀬がまだ話している最中だからだろう。


 応じるべきか迷った末に、胸元でほんの少しだけ手を動かして返している。


(……知り合いなんだ)


 アリアが2人を見比べている間にも、黒瀬の紹介は続いていた。


「続いて、企画と宣伝を担当する藤田由香です。配信企画や告知、SNSを中心に関わってもらいます」


「よろしくね、アリアちゃん」


「よろしくお願いします!」


「そして、本日の配信技術と機材を担当する、新井颯大です。今日は配信環境の立ち上げと、各種設定を行ってもらいます」


 先ほど玄関で見た男性が、軽く頭を下げる。


「あ、すんません。新井颯大です。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします!」


「はい。よろしくお願いします」


 黒瀬が口にした「本日の」という言葉を、アリアは深く気に留めなかった。


 配信技術と機材を担当する新井。


 その部分だけが、アリアの中に残っていた。


 ひととおりの紹介が終わると、新井は改めて佐伯へ顔を向けた。


「奈緒ちゃん、久しぶり」


「お、お久しぶりです。新井さん」


 先ほど手を振り返したときと同じように、佐伯は少し困ったような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべている。


「よかったやん。新しい担当決まって。しかも立ち上げからやろ?」


「はい。新人の方を最初から担当させていただくのは初めてなので、まだ少し不安ですけど……」


「奈緒ちゃんなら大丈夫やって。前の担当では、相手とちょっと馬が合わんかっただけやろ」


「……ありがとうございます」


 新井の表情は、先ほどまでよりも少しだけ柔らかい。佐伯も照れたように目を伏せていた。


(……奈緒ちゃん?)


 アリアの耳には、2人の会話の内容よりも、その親しげな呼び方の方が強く残った。


「ほんなら、先に機材を見させてもらいますね」


 そう告げると、新井は機材バッグを持って配信部屋へ向かった。


 アリアも少し遅れて、その後を追う。


 新井はすでに床へ膝をつき、箱に記された型番と手元の資料を見比べていた。


「あの、新井さん」


「はい?」


「私も何か手伝います」


「いや、大丈夫ですよ。結構重いもんもありますし」


「でも、これ全部ひとりでやるんですよね?」


「まあ、そうですけど」


「箱を開けるくらいなら、私にもできます」


 アリアが食い下がると、新井は積み上がった段ボールと彼女の顔を交互に見た。


「ほんなら、箱を開けてもらってもええですか?」


「はい!」


「刃はあんまり出さんようにしてくださいね。中のケーブルまで切ったら大変なんで」


「分かりました」


 新井からカッターを受け取り、アリアは近くの段ボールの前へしゃがみ込んだ。


 短く刃を出し、段ボールを留めているテープへ慎重に当てる。


 その途中で、先ほどリビングで見た光景を思い出した。


「あの、新井さん」


「はい?」


「佐伯さんと、仲がいいんですか?」


 新井が段ボールの型番を確認しながら、顔を上げる。


「ああ、奈緒ちゃんですか?」


 また、ごく自然にその呼び方が出てきた。


「現場でよう会ってましたからね。担当してるライバーは違いましたけど、一緒になることが多かったんですよ」


「そうなんですね」


「あの子、頑張り屋なんですけどね。ちょっと気ぃ遣いすぎるところがあるんで」


 新井は何でもないことのように話しながら、開封された箱からケーブルを取り出していく。


「まあ、仲良くやってくださいよ」


「……はい。もちろんです」


 アリアはそう答えながら、手元の段ボールへ視線を落とした。


 新井が佐伯のことをよく知っている。


 そのことだけは、十分に伝わってきた。


 アリアが最初の箱へカッターの刃を入れている間に、リビングでは今後の配信スケジュールについての話が始まっていた。


 しばらくすると、佐伯が配信部屋の扉から控えめに顔を覗かせる。


「西山さん、本当に無理はしなくて大丈夫ですからね」


 心配そうに念を押す佐伯へ、アリアは笑顔を返した。


「大丈夫です。これくらいならできます!」


「あの……怪我だけはしないようにしてくださいね」


「はい!」


 元気よく返事をして、アリアは次の箱へ手を伸ばす。


 佐伯がリビングへ戻ると、配信部屋にはアリアと新井の2人だけが残された。


 新井は特に気にした様子もなく、開封した箱から機材を取り出している。緩衝材を外し、付属品を確認してから、デスクの上へ順番に並べていった。


 ほとんど会話はない。


 けれど、気まずさは感じなかった。


 新井の手元を見ていれば、次にどの箱を開ければいいのか、なんとなく分かる。アリアが先回りして箱を開けておくと、新井は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。助かります」


「いえ。このくらいしかできませんけど」


「十分ですよ。1人やと、箱開けるだけでも地味に時間かかるんで」


 褒められたわけでもないのに、アリアの口元がわずかに緩む。


 もう少し役に立ちたい。


 そんなことを考えながら、新しい箱へカッターを滑らせた。


「あっ――」


 刃先がテープから外れ、そのまま左手の人差し指をかすめた。


 ほんの一瞬、鋭い痛みが走る。


「痛っ!」


 小さく声を上げると、新井がすぐに振り返った。


「西山さん?」


「大丈夫です。ちょっと切っただけですから」


 アリアは指先を隠すように手を握った。


 傷は浅い。少し血がにじんでいるだけで、大騒ぎするほどではない。


 しかし、新井は手にしていたケーブルを置くと、すぐにアリアのそばへやってきた。


「いや、あかんですよ。見せてもらってええですか?」


「本当に大丈夫ですって」


「大丈夫かどうか確認するんで、手ぇ出してください」


 穏やかな口調ではあるが、有無を言わせない。


 アリアがおとなしく左手を差し出すと、新井はその指先を覗き込んだ。


「深くはなさそうですね。ちょっと待っててください」


 新井は自分のバッグへ戻り、小さなポーチを取り出した。


「絆創膏、持ってるんですか?」


「こういう作業してると、たまに切るんですよ。俺も前に何回かやってるんで」


 新井は絆創膏の包装を破りながら、アリアの前へ再びしゃがみ込む。


「手、出してもらってええですか?」


「……はい」


 差し出した手を、新井の指がそっと支えた。


 傷口へガーゼの部分を合わせ、ずれないように絆創膏を巻いていく。


 ただ、それだけだった。


 新井は傷を見ているだけで、アリアの顔など見てもいない。


 それなのに、指先から伝わる感触を意識した途端、鼓動が急に速くなった。


(なにこれ……)


 絆創膏を巻いてもらっているだけだ。


 分かっているのに、指輪でもはめてもらっているような気分になる。


(いやいや、なに考えてるの、私)


「これで大丈夫やと思います」


 新井が手を離す。


 わずかに残った温度を惜しいと思ってしまい、アリアは慌てて絆創膏の巻かれた指を胸元へ引き寄せた。


「ありがとうございます……」


「ほな、カッターはもう俺がやりますわ」


「えっ。でも――」


「あきません。また切ったら困るんで」


 新井は床に落ちていたカッターを拾い上げると、そのまま自分の工具入れへしまった。


「西山さんは、開けた箱から緩衝材出してもらってええですか? 刃物使わん作業だけお願いします」


「……分かりました」


 完全に子ども扱いされている気がする。


 少し不満はあるものの、心配されたことが嬉しくもあり、強く言い返せなかった。


 アリアは絆創膏の巻かれた指を見つめる。


 白くて、ごく普通の絆創膏だった。


 それでも、しばらく剥がしたくないと思った。


 それからアリアは言われたとおり、箱から緩衝材を取り出し、空になった段ボールを部屋の隅へ運んだ。


 新井はその間にも、パソコン本体へケーブルをつなぎ、2台のモニターをデスクへ並べていく。


「そっちの箱、次に使います?」


「いや、それは最後で大丈夫です。先に足元にある細長いやつ、取ってもらえます?」


「これですね」


「そうです。ありがとうございます」


 作業を始めてから、新井が口にするのは必要な指示と礼くらいだった。


 それでも冷たい印象はない。


 アリアが重そうな箱を持ち上げようとすれば、どこから見ていたのかすぐに手を伸ばしてくる。


「それ重いんで、置いといてください」


「これくらい持てますよ」


「落としたら危ないですから」


「新井さん、私のこと結構か弱いと思ってません?」


「さっきカッターで指切った人に言われても、説得力ないですよ」


「うっ……」


 言い返せず、アリアは箱から手を離した。


 新井はその箱を軽々と持ち上げ、デスクの横へ運んでいく。


(そういう言い方するんだ……)


 仕事中はずっと真面目で寡黙な人だと思っていた。


 けれど、話しかければ意外と返してくれる。少しだけ意地悪な返しをするところも、アリアには好ましく思えた。


 機材の設置があらかた終わる頃には、殺風景だったデスクの上に配信環境が出来上がっていた。


 2台のモニターに、キーボードとマウス。少し離れた位置には、アリアの動きを読み取るための機材も置かれている。


 新井はモニターの角度を確認したあと、椅子の背もたれへ手を置いた。


「西山さん、ちょっとええですか?」


「はい!」


「椅子の高さ合わせたいんで、座ってもらってええです?」


「分かりました」


 アリアが椅子へ腰を下ろすと、新井はその横へ立った。


「一回、普通に画面見てもらえます?」


「こうですか?」


「はい。その姿勢のままでお願いします」


 新井が椅子の下へ手を伸ばし、高さを少しずつ調整していく。


 続いて、アリアの視線に合わせてモニターを動かすため、すぐ横から身を乗り出した。


(……近い)


 新井の顔が、アリアのすぐ横にある。


 機材に触れる腕が視界を横切り、わずかに身じろぎするだけで肩が触れてしまいそうだった。


「これくらいの高さで見にくくないですか?」


「……はい」


「首、しんどくないです?」


「……はい」


「西山さん?」


「はい!」


 急に名前を呼ばれ、アリアの声が裏返った。


 新井が不思議そうに顔を向ける。


 近い。


 先ほどよりも、さらに近い。


「いや、見にくくないですかって聞いたんですけど」


「あっ、見やすいです! すっごく見やすいです!」


「そうですか?」


 新井は少し首を傾げたものの、それ以上は追及せず、再びモニターへ向き直った。


「椅子の調整は大事なんで、ちゃんと聞いてくださいね。長時間座るのは西山さんなんですから」


「……はい」


 注意されているのに、新井が自分の身体を気遣ってくれたことが、少しだけ嬉しかった。


「こっちが配信画面で、もう1台がコメント確認用です。最初はこの配置で使ってみてください。慣れてきたら、自分のやりやすいように変えてもろたらええんで」


「はい」


「配信を始めるときは、まずこっちのソフトを起動して――」


 新井の説明は続いている。


 内容を覚えなければならないことは分かっていた。


 しかし、すぐそばから聞こえる声と、視界の端にある横顔が気になって、言葉がほとんど頭に入ってこない。


「ここの数値は触らんようにしてください。変わるとトラッキングがずれることあるんで」


「はい……」


「それと、音が入らんときは――」


「はい……」


「西山さん、聞いてます?」


「あっ、はい!? 聞いてます!」


「ほんまですか?」


「聞いてました!」


「ほな、音が入らんときはどうします?」


「えっ」


 アリアの口が止まった。


 新井は数秒待ってから、小さく息を吐く。


「……もう一回説明しますね」


「すみません……」


「覚えること多いんで、最初はしゃあないですよ」


 新井はアリアが聞いていなかった理由など、まるで気づいていない。


 そのことに安心しながらも、少しだけ残念に思ってしまう自分がいた。


 アリアは今度こそ説明へ集中しようと、モニターをまっすぐ見つめた。


「新井さんって、梓のところにも行ってるんですよね?」


 集中すると決めたばかりなのに、口から出たのは操作とは関係のない質問だった。


「梓? ああ、中村さんですか?」


「はい。マリナの」


「はい。あっちの機材も見てますよ」


「そうなんですね」


「新人の立ち上げが重なってるんで、今が一番忙しい時期ですわ」


 梓は、新井にとって担当している演者の1人にすぎない。


 そう分かっているのに、アリアの胸の奥に小さな引っかかりが残った。


「中村さんとは、お知り合いなんですか?」


 新井がモニターを操作しながら尋ねる。


「はい。声優のオーディションで何度も一緒になってて。連絡先も交換してます」


「そうやったんですね」


「梓、そっちではどんな感じですか?」


「どんな感じ……と言われても、普通ですよ」


「普通?」


「機材の説明はちゃんと聞いてくれます」


 アリアの胸に言葉が刺さった。


「それ、私がちゃんと聞いてないって言いたいんですか?」


「いや、そこまでは言うてませんけど」


「今、絶対思いましたよね?」


「……次、説明してもええですか?」


「誤魔化した」


 アリアが頬を膨らませると、新井は困ったように笑った。


「でも、覚えるのは早いですね。勘がいいと言うか」


 新井はモニターを操作しながら、何かを思い出したように口元を緩める。


「この間、中村さんの担当マネージャーさんと少し言い合いになって、中村さんに怒鳴られましたけど」


 そう続けると、新井は今度こそ声を上げて笑った。


 初めて見る、はっきりとした笑顔だった。


 ずっと真剣な横顔を見ていたアリアには、その無邪気な笑顔も不意打ちだった。


「ちゃんと聞いてくださいよ。西山さんが1人で配信するときに困るんですから」


「……はい」


「また聞いてへんでしょ」


「聞いてます!」


 そう答えながらも、今度は笑った顔が頭から離れない。


 新井は疑わしそうにアリアを見たあと、デスクの横に置かれた機材を指差した。


「このボタンが配信開始です。ただし、押す前に必ずマイクとモデルが動いてるか確認してください。終了するときも、画面が完全に切れたのを確認してから話すようにしてくださいね」


「切ったつもりで残ってたら大変ですもんね」


「そういう事故、普通にありますから」


「分かりました。そこは絶対に確認します」


「今のはちゃんと聞いてましたね」


「最初からちゃんと聞いてます!」


「音が入らんときの対処は?」


「それはもういいじゃないですか!」


 アリアが抗議すると、新井はまた小さく笑った。


 今度は見逃さなかった。


 やはり、無愛想な人ではない。ただ仕事へ集中すると、周りが見えなくなるだけなのだろう。


 ひととおり説明を終えると、新井はアリアを椅子から立たせ、トラッキングの確認に移った。


 アリアが顔を左右へ動かすたび、モニターに映った彩瀬アリアも同じように動く。口を開けば唇が開き、目を細めれば表情まで自然に変化した。


「すごい……」


「動き、かなり綺麗ですね」


「ですよね! 私も初めて見たとき、びっくりしたんです」


「矢野さんのモデルは、このへんの精度がほんまに高いんですよ」


 新井の声が、急に弾んだ。


「髪の揺れ方もそうですけど、顔を横に向けたときの輪郭が崩れへんのがすごいんです。普通は角度がつくと、どうしても――」


 先ほどまで寡黙だったのが嘘のように、次々と言葉が出てくる。


 アリアは説明の半分も理解できなかったが、楽しそうに話す新井を見ているのは嫌ではなかった。


「新井さん、こういう話になると結構しゃべるんですね」


「え?」


「ずっと静かな人なのかと思ってました」


「すんません。興味ないですよね」


「そんなこと言ってません。もっと聞きたいです」


「ほんまですか?」


「はい。新井さんが楽しそうなので」


 新井が少し目を見開いた。


 アリア自身も、口にしてから少し恥ずかしくなる。


「いや、その……私も自分のモデルのことは知っておきたいですし」


「ああ、そういうことですか」


(そういうことにしておこう……)


 新井は何も気づかないまま、再びモニターへ向き直った。


 しばらくして配信テストまで終わると、リビングで打ち合わせをしていた黒瀬たちが戻ってきた。


「新井さん、進み具合はいかがですか?」


 佐伯が配信部屋の中を見回しながら、遠慮がちに尋ねる。


「機材関係はもう終わったで。配信テストも問題なし」


「もう終わったんですね。西山さん、操作は大丈夫そうですか?」


「はい。たぶん」


「たぶんなんですか?」


「だ、大丈夫です!」


 新井の小さな呟きを拾い、アリアは慌てて言い直した。


 佐伯の視線が、アリアの人差し指に止まる。


「あの、西山さん。指、どうされたんですか?」


「ちょっとカッターで切っちゃって」


「だから、無理はしなくて大丈夫だとお伝えしたのに……」


「でも新井さんが、すぐに絆創膏を貼ってくれたので大丈夫です」


 アリアはそう言いながら、なぜか絆創膏を見せるように指を持ち上げた。


「新井さん、絆創膏まで持ち歩いているんですか?」


「俺も作業中に切ることあるから、入れっぱなしにしてるだけやで」


 新井にとっては、それだけのことらしい。


 佐伯も「用意がいいんですね」と小さく頷き、それ以上は気に留めなかった。


「配信まわりで何かあったら、奈緒ちゃんか、担当の機材班の人に連絡してください」


 新井は工具をバッグへ戻しながら、アリアへ声をかけた。


「俺が空いてたら、すぐに駆けつけますんで」


「……すぐに?」


「はい?」


「あっ、いえ。分かりました」


 俺が空いていたら。


 その条件も、ちゃんと聞こえていた。


 けれど、アリアの頭の中に残ったのは、そのあとの言葉だけだった。


  ◇


 その日の夜。


 自宅へ戻ったアリアは、ベッドの上に寝転びながらスマートフォンを眺めていた。


 左手の人差し指には、まだ新井に貼ってもらった絆創膏が残っている。


 傷はもうほとんど痛まない。


 シャワーを浴びるときに濡れてしまったため、本当なら貼り替えた方がいいのだろう。それでも剥がす気にはなれなかった。


(新井颯大さん……)


 連絡先は、今日の機材設置に関する確認用として、担当マネージャーから共有されている。


 もちろん、用もないのに連絡するわけにはいかない。


「機材、壊れないかな……」


 口に出した直後、アリアは勢いよく起き上がった。


「いやいや、壊れたらダメでしょ!」


 デビュー前の大事な機材である。


 自分でも何を考えているのか分からない。


 誰かに話して整理したかった。


 アリアは連絡先を開き、見慣れた名前を押す。


 数回の呼び出し音のあと、梓が電話に出た。


『もしもし、アリアちゃん?』


「梓ー。今、大丈夫?」


『うん。どうしたの?』


 聞き慣れた声に、アリアの肩からわずかに力が抜けた。何から話そうか迷いながら、絆創膏の端を親指でそっとなぞる。


「今日ね、配信部屋の機材を設置してもらったんだけど」


『ああ、今日だったんだ。もう使えるようになった?』


「なった。モニターも2台あって、トラッキングもすごく綺麗だったよ」


『よかったじゃん』


「それでね、設置に来てくれた人が、新井さんっていう人で」


『新井さん?』


 梓の口から自然に名前が出た。


 初めて聞いた名前を確かめるような響きではなかった。アリアはベッドの上で膝を抱え、少しだけ唇を尖らせる。


「やっぱり知ってるんだ」


『そりゃ知ってるよ。マリナの配信も担当してくれてるし』


「そういえば梓、新井さんのこと怒鳴ったの?」


『えっ?』


「新井さんが言ってた。担当マネージャーさんと言い合いになって、中村さんに怒鳴られたって」


 電話の向こうで、梓が小さく息を詰める。思い当たる出来事があるらしい。


『あれは、新井さんと美咲さんがずっと言い合ってたから、止めようとしただけで……』


「でも、怒鳴ったんだ?」


『……ちょっと大きな声を出しただけ』


「新井さん、思い出しながら笑ってたよ」


『もう……』


 困りきった声を聞いているうちに、アリアの胸に小さないたずら心が芽生えた。


「ふーん……」


『なに、その反応』


「別に。それで、新井さんってめっちゃかっこいいよねー」


 電話の向こうが静かになった。


「梓?」


『うん。聞いてる』


 短い返事に促されるように、アリアの口から今日見た新井の姿が次々とこぼれ出した。


「仕事してるときも、すっごい寡黙でさ。ずっと黙って機材組み立ててるの。手際もいいし、分からないこと聞いたらちゃんと教えてくれるし」


『へえー』


「でも、機材の話になると急にいっぱいしゃべるんだよ。普段静かなのに、好きなことになると楽しそうに話すの。そういうところもいいなって」


『うんうん』


「あと私が指切ったら、すぐに気づいて絆創膏貼ってくれて――」


 そこまで話したところで、アリアはようやく違和感に気づいた。


「……梓、なんでずっと笑ってるの?」


『笑ってないよ』


「笑ってる。絶対笑ってるでしょ」


『だってアリアちゃん、分かりやすいんだもん』


「なにが?」


『惚れたんだなって』


「惚れてない!!」


 アリアは反射的に叫び、抱えていた膝へ顔を伏せた。否定した声の大きさが、かえって梓の確信を深めてしまった気がする。


『そんな大きな声出さなくても聞こえてるって』


「ただ、かっこいい人だったって話してるだけ!」


『うん。かっこよくて、仕事ができて、無口だけど好きなことになると楽しそうに話して、指に絆創膏を貼ってくれた人ね』


「そう!」


『それを惚れたって言うんじゃないの?』


「言わない!」


 梓が電話の向こうでくすくすと笑っている。どうやら何を言っても、今は否定の材料にはならないらしい。


 アリアは熱くなった頬を、抱えていた膝へ押しつけた。


『でも新井さん、神代さんによく懐いてるよ』


「神代さん?」


『今日も神代さんがいなくて、ちょっと寂しそうだったし。神代さんも新井さんがいなくて気にしてた』


「えっ……両想い?」


『どうだろうねー』


「神代さんって誰? マリナの関係者?」


『うん。マリナのプロデューサー』


「女の人?」


『いや。41歳のおじさんだけど』


「……おじさん?」


『うん』


「なんだ……」


 胸の奥に引っかかっていたものがほどけ、思わず安堵の息が漏れた。


 直後、梓の声が少し弾む。


『今、安心した?』


「してない!!」


『したよね?』


「してないってば!」


『アリアちゃん、分かりやすいんだもん。ぷぷ~』


「梓ぁ!」


 完全に遊ばれている。


 このままでは一方的にからかわれるだけだ。アリアは話題を変えようとして、今日ずっと気になっていた呼び方を口にした。


「それに、新井さん……うちの担当マネージャーのこと、奈緒ちゃんって呼んでたし」


『へえ。親しそうだった?』


「顔合わせの途中で手を振ってた。前からよく知ってるみたいで……」


『そこも気になるんだ?』


「気になってない。ただ、奈緒ちゃんって呼んでたから」


 否定しながらも、アリアの声にはわずかな不満が滲んでいた。


 それでも電話を切れないのは、もっと新井のことを聞きたい気持ちが残っているからだった。


「……新井さん、梓のところにはよく行くの?」


『機材の設定とか、配信のときには来るよ』


「ふーん……」


『また気にしてる』


「気にしてないってば! 新井さんは新人2人の担当なんだから、梓のところにも行くでしょ」


『じゃあ、新井さんのことは別にどうでもいいんだ?』


「どうでもよくはないけど……」


『へえー』


「梓、その言い方やめて!」


 梓は楽しそうに笑っている。


 アリアは枕を抱き寄せ、そこへ顔を埋めた。


『でもアリアちゃん、マネージャーさんから恋愛禁止って言われなかった?』


「まだ何も始まってないから!」


 言い返した瞬間、電話の向こうから笑い声が消えた。


 妙に長く感じる沈黙のなかで、アリアは自分が何を口にしたのか気づき、ゆっくりと顔を上げた。


『始める気はあるんだ?』


「……違う」


『今、自分で言ったよね?』


「言ってない」


『まだ何も始まってないって』


「言ってない!」


『聞こえてたよ』


「梓ぁぁぁ!!」


 恥ずかしさを誤魔化すように叫ぶと、梓は声を上げて笑った。


 ひとしきり笑ったあと、少しだけ柔らかな声で言う。


『まあ、新井さんはいい人だと思うよ』


「……そうなの?」


『うん。仕事は真面目だし、困ったときはすぐに来てくれるし』


 からかう調子の消えた梓の言葉に、アリアは枕から顔を上げた。


 今日、新井から言われた言葉が蘇る。


 ――空いてたら、すぐに駆けつけますんで。


「やっぱり、すぐに来てくれるんだ……」


『ただし、かなり鈍そうだけど』


「鈍い?」


『ううん。こっちの話』


「なにそれ。気になる」


『アリアちゃんにはまだ関係ないよ』


「教えてよ」


『そのうち自分で分かるんじゃない?』


 梓は最後まで教えてくれなかった。


 通話を終えたあと、アリアは再びベッドへ横になる。


 スマートフォンを胸元へ置き、天井を見上げた。


 今日会ったばかりの相手だ。


 まだ何も知らない。


 好きになったわけでも、何かを始めると決めたわけでもない。


 ただ、また会いたい。


 今のところは、それだけだった。


 アリアは左手を持ち上げ、絆創膏の巻かれた人差し指を眺める。


「……剥がしたくないな」


 誰に聞かせるでもなく呟いてから、アリアは枕へ顔を埋めた。


  ◇


 数日後。


 新井はマリナの配信機材を確認するため、NEST東京オフィスを訪れていた。


 梓が見守るなか、パソコンの画面を開き、配信ソフトやトラッキングの状態を順番に確認していく。


「今のところ問題なさそうですね。イラスト配信のあと、カメラの位置は動かしてません?」


「はい。新井さんに動かさない方がいいと言われたので、そのままにしてます」


「なら大丈夫です。手元を映すときも、前に説明したキーだけ押してもらえれば切り替わりますんで」


「分かりました」


 返事を聞いた新井は、画面に表示された数値をもう一度確認した。


「そういや中村さん、西山さんとは声優のオーディションでよう一緒になってたんですよね」


「はい。今でも時々、電話します」


 梓は答えながら、数日前の電話を思い出した。本人を前にすると、アリアが気にしていた呼び方が急におかしく思えてくる。


「そういえば新井さん。奈緒ちゃんって誰ですか?」


「はい?」


 梓がいたずらっぽく尋ねると、新井は画面から顔を上げ、怪訝そうに眉を寄せた。


「なんで中村さんが、奈緒ちゃんのこと知ってはるんですか?」


「アリアちゃんから聞きました」


 梓は答えながら、意味ありげに口元を緩めた。


「もうそこまで情報共有してはるんですか。怖いわあ……」


「それで、どういう関係なんですか?」


「妹みたいなもんですよ。真面目すぎて、何でも1人で抱え込んでまうんです。危なっかしくて、なんか放っとけへんのですよね」


(アリアちゃん、これはちょっと分が悪いかも……)


「なんなんすか。西山さんも中村さんも、奈緒ちゃんのこと聞いてきますね」


 不思議そうな新井の視線を受け、梓は何事もなかったように表情を戻した。


「なんでもありません」


 梓はそのまま話を切り替えるように、以前から気になっていたことを尋ねた。


「新井さん、そういえばアリアちゃんのところも兼任してるんですか?」


「兼任してませんよ」


 新井は不思議そうに眉を上げた。


「あのときは、西山さんを担当してる機材班の人が休みやったんで、俺が代わりに行っただけです」


「え?」


 梓の口元から笑みが消えた。先ほどまでのからかう気分も、一瞬でどこかへ飛んでいく。


「アリアちゃん、新井さんが担当だって言ってましたよ。新人2人の担当だって」


「え?」


 今度は新井が目を瞬かせた。


「しかも、何かあったらすぐに駆けつけるって言ったんでしょ?」


「言いましたけど……『俺が空いてたら』すぐに駆けつけますよ、って言いましたよ」


 新井は戸惑いながらも、当日のやり取りを思い返す。


「それに、何かあったら西山さんの担当マネージャーの奈緒ちゃんか、担当の機材班の人に連絡してくださいねって」


「「……え?」」


 梓と新井の声が重なった。互いの顔を見つめたまま、どちらも次の言葉が出てこない。


 梓は電話で聞いたアリアの言葉を、新井は当日の自分の説明を、それぞれ頭の中でたどり直していた。


「西山さん、めっちゃ天然なんすか?」


「そんなことはないと思いますけど……」


 梓が困惑しながら答えると、新井は記憶を確かめるように視線を上げた。


「いや、黒瀬さんも最初に俺を紹介するとき、『本日の配信技術と機材を担当する新井です』って言ってましたし……」


 新井は納得がいかない様子で首を傾げる。


「西山さんの担当とは、一言も言ってなかったですよ」


「……アリアちゃん、聞きたいところだけ聞いてたのかもしれませんね」


 梓には、その“聞きたいところ”が何だったのか、なんとなく分かってしまった。


「俺が担当やったら、なんかええことあるんすか?」


「……」


 純粋に疑問を抱いているらしい新井の顔を、梓はしばらく見つめた。アリアの気持ちだけでなく、新井の鈍さも相当なものらしい。


(アリアちゃん、大丈夫かな。色々と……)

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