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売れない声優の私が、なぜか大富豪に見初められました。  作者: つきしろえにし
第二章 VTuber・マリナ、始動。
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第32話「READY STEADY GO」

大変お待たせしました!

ついにマリナ、デビューです!


Xの方には、今回の一場面をイメージした画像も投稿しています。

プロフィール欄から見られますので、よければそちらもご覧ください!

初配信まで、あと30分。


 NEST東京オフィスには、梓のほかに神代、桐生、藤田、新井が集まっていた。


 この日のために福岡から戻ってきた神代が買ってきたお土産、博多通りもんを、梓は1つずつ包装から取り出して食べていた。


 もっと落ち着かないものだと思っていた。


 何度も時計を確認し、喉の調子を気にする。そんな自分を想像していたのに、思っていたほど緊張していなかった。


「中村さん、あと20分くらいなんで、そろそろ防音室で待機しといてもらっていいです?」


 パソコンの前にいた新井から声をかけられ、梓は最後のひと口を飲み込んだ。


「はい」


 梓が立ち上がると、神代が声をかけた。


「梓ちゃん」


「はい?」


「……マリナを、よろしくお願いします」


 梓は一瞬だけ目を丸くした。


 神代は少し照れたように笑う。


「頑張ってって言おうと思ったんだけど」


 一度、言葉を切った。


「デビューするまで、もう十分頑張ってきたからね」


 そして、いつもの調子で笑った。


「だから、今日は楽しんできて」


 梓は少しだけ黙ってから、頷いた。


「はい」


 それから、ほんの少し笑う。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 神代と、桐生、藤田、新井の三人のスタッフに見送られ、梓は防音室へ入った。


 扉を閉めると、外の音が遠くなった。


 椅子に腰を下ろし、目の前のモニターを見る。


 モニターには配信開始までの待機画面が映っている。その向こうでは、すでに視聴者たちが待っていた。


 オーディションの時とは違う。


 今度は本当に、この姿で人前に出るのだ。


 梓は自分の胸に手を当てた。


 鼓動は少し速い。それでも、怖いほどではなかった。


(……なんでだろ)


 ふと、防音室の扉を見る。


 このすぐ向こうに、桐生も、藤田も、新井もいる。


 そして、神代も。


(……みんながいるからかな)


 今までのオーディションは、1人だった。


 選ばれるのも、落とされるのも、自分1人。


 けれど今日は違う。


 マリナは、自分1人でここまで来たわけではない。


 やがて、モニターに表示された時刻が配信開始予定の時間に変わった。


 梓は静かに息を吸った。


 配信開始のボタンを押す。


 待機画面が切り替わった。


 画面の中で、紅い髪が揺れる。


 金色の瞳が開いた。


「こんばんは。マリナです」


 一気にコメントが流れ始めた。


@kei_night:きたあああああ

@草餅侍:待ってた!!

@blueframe:広告見て来ました!

@lowkey_r:声いいな

@姉属性過激派:良い声すぎる!!

@quiet_room:声ひっく! 好き


 想像していたより、ずっと速い。


 けれど、不思議と慌てなかった。


「来てくれてありがとう」


 梓は少し笑う。


「そして……おかえり。今日もお疲れ様」


 ほんの一瞬、コメントが止まった。


 次の瞬間、コメント欄がものすごい勢いで流れ始めた。


@grass_09:!?!?!?

@納期は来月:待って

@bluecoffee:声良すぎる

@404listener:これはずるいwwww

@草餅侍:ただいまあああああ

@nightowl_73:毎日帰ってきます

@低音主食:その声で言われるのやばい

@姉属性過激派:踏んでください

@after5man:ここ家にしていい?


 梓の視線がコメントを追う。


 「踏んでください」は、見なかったことにした。


 その次に流れたコメントを読み上げる。


「ここ家にしていい?」


「いいよ。ここは私の部屋だから、ゆっくりしていって」


@after5man:やったああああ

@riku_404:住民票移します

@moonlit_22:wwwwww


 けれど、梓は少しだけ戸惑っていた。


 ほんの短い言葉に、これまで何度もやってきたように感情を乗せただけだった。


 それだけで、こんなにも喜んでもらえる。


「……ふふ」


@草餅侍:笑った

@lowkey_r:今の笑い声好き

@低音主食:声が強い

@rainy_24:良い声すぎるwww


「いい声? うれしい……」


 またコメントが加速する。


 梓は自然に笑っていた。


「じゃあ、改めて自己紹介しようかな」


 画面にプロフィールを表示する。


「名前はマリナ。20歳。誕生日は7月11日。身長は167センチ。血液型はA型」


@mono_113:167いいね

@姉属性過激派:お姉さん感ある

@quiet_room:20歳!


「仕事はフリーランスのデザイナーをしてる」


@bluecoffee:絵描く人?

@loop_line:依頼できる?


「絵は描くよ。だから、そのうちイラスト配信もやりたいと思ってる」


 少し考えてから続ける。


「でも、ここではみんなと仲良くなるのが目的だからね。仕事は仕事、配信は配信で」


@loop_line:クライアントにはなれなかった

@nightowl_73:距離近くしてくれるの嬉しい

@草餅侍:仲良くしてください!


「うん。よろしくね」


 自己紹介を終え、梓は画面の中のマリナへ目を向けた。


「せっかくだから、もう少しちゃんと見てもらおうかな」


 高い位置で結ばれた、深紅のロングポニーテール。


「まずは、この髪」


 梓が顔をゆっくり左右へ振る。


 その動きに合わせてポニーテールが揺れ、少し遅れて毛先がついてきた。顔を正面へ戻しても、髪だけがわずかに余韻を残して揺れている。


@blueframe:髪すげえ

@草餅侍:めっちゃ髪サラサラwww

@nightowl_73:動き自然すぎる

@mono_113:毛先まで動いてるのすご


「結構動くでしょ?」


 少し顔を近づける。


「目は金色」


 画面いっぱいに、切れ長の黄金色の瞳が映る。


@quiet_room:目きれい

@lowkey_r:顔が良い

@404listener:アップ助かる


 梓は少しだけ笑い、そのまま首元へ人差し指を添えた。


「それから、これ」


 黒いチョーカーの中央には、金色の眼を模した意匠。瞳を囲むように短い光条が並び、左右には細い矢のような装飾が伸びている。どこか古代エジプトの護符を思わせる、少し神秘的なデザインだった。


 それを見せるように少しだけ顎を上げると、自然と首筋が伸びた。


 金色の瞳がカメラを見下ろすような形になり、画面の中のマリナがほんの少し艶っぽく見える。


@cipher_08:チョーカーのデザインかっこよ

@sunset404:なんか古代エジプトっぽい

@姉属性過激派:その顔で踏まれたい

@mono_113:急に色っぽい

@kuro_neko77:チョーカーかわいい

@草餅侍:第3の目www

@blueframe:ドMがいて草


 1つだけ、見なかったことにした。


「これは『静観の眼』。お気に入りのチョーカー」


@riku_404:ビーム出そうw


 梓はそのコメントに目を止めた。


「ビームは……出ないかな?」


@納期は来月:かな?www

@blueframe:可能性残すな

@quiet_room:そのうち出そう


 思わず少し笑う。


「まあ、この眼から君たちを観察していくよ」


@lowkey_r:監視されるw

@草餅侍:喜んで観察されます

@nightowl_73:第3の目に見られてる

@404listener:観察対象になりました


「じゃあ、もう少し引いてみようか」


 画面の中のマリナが少しずつ小さくなり、上半身から腰まわりまでが映る。


 黒のキャミソールに、肩からラフに羽織ったベージュのシャツ。その下にはデニム。


「こんな感じ」


 梓は軽く身体を左右へ動かしてみる。


 身体の動きに合わせて、長い髪が少し遅れてついてくる。肩から落ちたシャツも揺れ、上半身の細かな動きまで自然にマリナへ反映されていた。


@kuro_neko77:髪だけじゃなくて服も動くのか

@blueframe:シャツの動き細かい

@草餅侍:物理演算すご

@nightowl_73:胸も揺れてね?


 梓の動きが、ぴたりと止まった。


(見るだろうな……大きいし……)


「……どこ見てるの?」


 すぐにコメントが返ってくる。


@grass_09:胸

@納期は来月:おっぱい

@姉属性過激派:それは仕方ない

@lowkey_r:いや見るでしょ

@ayaneru1024:美人すぎてたまらんばい

@blueframe:正直者しかおらんw

@quiet_room:堂々と言うなw


 遠慮がない。


 初配信なのに、ずいぶん好き勝手に言ってくる。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 流れていく文字を眺め、マリナがほんの少しだけ眉を上げる。


「……まあ、仕方ないならしょうがないか」


@草餅侍:許されたw

@riku_404:許可出たぞ

@moonlit_22:寛容で草

@低音主食:そこ流すんかい

@after5man:初配信でその返しできるの強い


 梓は瞬きをした。


 今の言葉も、ほとんど考えていなかった。


 自分自身に同じことを言われていたら、たぶん困っていたと思う。


 笑って誤魔化すか、どう返せばいいのか考えて少し黙っていたかもしれない。


 なのに、マリナとしてここにいると、するりと言葉が出てくる。


(……すごいな、私)


 ふと、そう思った。


 そして、モニターの中で自分とまったく同じ表情をしているマリナを見る。


(いや。私とマリナ、か)


「ふふっ」


 思わず笑いがこぼれた。


 画面の中のマリナも、同じように目を細める。


@草餅侍:笑ったww

@kei_night:なんで今www

@納期は来月:急にどうしたw

@姉属性過激派:今の笑い方好き

@ayaneru1024:思わずこぼれた笑い最高によか フーッ!! フーッ!!

@milkcoffee_7:最後の人どうしたw

@404listener:猫おる?


「あ」


 そこまで拾われるとは思っていなかった。


 少しだけ恥ずかしくなり、梓は視線を逸らす。


「いや、なんでもないよ。気にしないで」


@kei_night:いや気になるわw

@quiet_room:ごまかしたw

@loop_line:その笑いもう1回ください


「もう1回は無理」


 また、考えるより先に言葉が出た。


@loop_line:即拒否されたw

@草餅侍:草

@blueframe:この距離感好きだわ


 コメントを追っていると、今度はマリナの服装へ話題が移っていく。


@loop_line:キャミソール最高

@mono_113:このラフな衣装好き

@納期は来月:シャツ肩から落としてるのいいな

@bluecoffee:VTuberっぽくない衣装だね


「そう?」


 梓は改めて、画面の中のマリナを見る。


 黒のキャミソールに、ベージュのシャツ。デニム。


 確かに、派手な装飾のついた衣装ではない。


 初めて三面図を見たときから、この飾らないマリナの姿が、梓はずっと好きだった。


「私は結構好きだけど」


 少しだけ口元を緩める。


「ふふっ。そのうち、そうなるかもよ?」


@姉属性過激派:新衣装匂わせ!?

@riku_404:そのうち!?

@nightowl_73:期待していいんですか

@草餅侍:今のも好きだぞ


 流れていくコメントを眺めながら、マリナが少しだけ首を傾けた。


「まあ、今はこの姿の私で楽しんで?」


@姉属性過激派:楽しみます

@低音主食:言い方がずるい

@blueframe:急に強い

@草餅侍:今のままで十分です

@after5man:初配信で距離の詰め方うまくない?


 また、コメントの流れが速くなる。


 梓はそれを追いながら、自然と笑っていた。


 配信なんて、今日が初めてだ。


 上手くできているのかも、まだ分からない。


 それでも、マリナとしてなら、もう少しこの人たちと喋っていたい。


 そんなことを思っている自分がいた。


 その後もしばらく、コメントを拾いながら雑談を続けた。


@milkcoffee_7:アリアちゃんの方がタイプw


 そんなコメントも流れてくる。


「そっか。じゃあ、アリアちゃんのデビューもちゃんと見に行ってあげてね」


@lowkey_r:強いw

@quiet_room:優しい

@草餅侍:両方見るわ


 しばらくして、同じ話題のコメントが何度も流れるようになった。


@riku_404:ファンネーム決めよう

@blueframe:名前欲しい

@loop_line:クライアント


「クライアントはさっき違うって言ったばかりだからね」


@loop_line:却下されたw

@404listener:じゃあ何にする?

@Nestの住人:マリナという船に乗るということで……マリナーズで!!

@quiet_room:さっきおかえりって言ってくれた

@nightowl_73:ここが帰ってくる場所みたい

@草餅侍:帰ってくる人たちでリターナーズは?

@mono_113:英語より古い響きの方がよくない? レヴェナントとか

@blueframe:レヴェナント?

@404listener:意味調べた

@404listener:レヴェナント(revenant)=死からよみがえった者、亡霊、帰ってきた人

@納期は来月:深すぎて怖いwwww

@nightowl_73:おかえりから死者蘇生まで行くなww

@quiet_room:急に世界観重くなったw


「……死者はちょっと怖いけど」


 梓も思わず笑った。


「でも、レヴェナントって響きは好き。じゃあ、それでいいか」


@riku_404:語感で決めたw

@blueframe:まあかっこいい

@草餅侍:俺たちの総称はレヴェナンツになるな


「レヴェナンツ……」


 もう一度、声に出してみる。


「うん。いいね」


 画面の中で、マリナが少し笑った。


「じゃあ今日から、君たち一人ひとりがレヴェナント。みんなまとめて、レヴェナンツだね」


@草餅侍:決まったあああ

@riku_404:レヴェナンツ!!

@低音主食:今日からレヴェナントです

@nightowl_73:ただいまマリナ

@姉属性過激派:レヴェナントになりました


 画面の中で、マリナが柔らかく微笑んだ。


「おかえり。レヴェナンツのみんな、これからよろしくね」


 その後も質問は途切れなかった。


@after5man:街頭ビジョンなんで最後だったの?

@bluecoffee:レイナの次でびっくりしたw


「なんで最後だったか?」


 梓は首を傾げる。


「社長の方針じゃないかな? 知らないけど」


@riku_404:知らないの草

@lowkey_r:本人知らんのかw


「私が決めたわけじゃないからね、そこは分からない」


@moonlit_22:Pってどんな人?


「プロデューサー?」


 梓は少し考えた。


「面白い人だよ」


@草餅侍:ざっくりwww

@納期は来月:もっとないんか


「ちょっと変わってるけど、信頼してるよ」


 その後もコメントを拾いながら雑談を続けているうちに、気づけば予定していた配信時間は終わりに近づいていた。


「……そろそろ時間だね」


@kei_night:もう!?

@quiet_room:はやい

@草餅侍:延長!!

@blueframe:まだいける


「次はね、イラスト配信やろうと思ってる」


@loop_line:見る

@mono_113:楽しみ!

@nightowl_73:絵見たい


「今日は初配信に来てくれてありがとう。思ってたより、ずっと楽しかった」


 コメントが流れ続ける。


「じゃあ、次の配信でまた会おうね」


 梓は少しだけ笑った。


「イラスト配信、見に来てね。レヴェナンツのみんな」


@草餅侍:絶対行く

@低音主食:おつマリナ!

@blueframe:またねー!


「またね」


 配信終了のボタンを押す。


 画面が切り替わった。


「…………終わった」


 梓は椅子の背にもたれる。


 そこで初めて、肺に溜め込んでいた息を大きく吐き出した。


 少しだけ余韻に浸ってから立ち上がり、防音室の扉を開ける。


「お疲れさまでした」


「お疲れさま、梓ちゃん」


 桐生が笑顔で迎える。


「初配信、無事終了ですね」


 藤田も笑っていた。


「中村さん、お疲れさまです」


 新井がパソコンの画面を確認しながら声をかけてくる。


 神代は何も言わず、画面を見ていた。


「どうでした?」


 梓が尋ねる。


「うん。よかったよ」


 神代が答えた。


「それより、これ見て」


 神代に示された画面をのぞき込む。


 表示されていた数字を見て、梓は目を疑った。


「……え?」


 もう1度見る。


「……2万5千?」


 そこに表示されていたのは、チャンネル登録者数だった。


 2万5千人。


「俺の想定は超えたかな。2万人くらいだと思ってたけど」


 神代が言う。


「……想定してたんですか?」


 藤田が少し意外そうに聞き返した。


「してたよ~。藤田さん、俺が何も考えてないと思ってるの?」


 神代が心外そうに眉を寄せる。


 藤田は一瞬だけ言葉に詰まり、わずかに視線を逸らした。


「……少し思ってました」


「えっ」


 神代の肩が、目に見えて落ちた。


「その辺、神代さんよう分からんとこですよね。何も考えてへんように見えるのに、こういうところはちゃんと考えてますし」


「新井くんまで!?」


 梓が思わず吹き出す。隣では桐生も肩を揺らして笑っていた。


 梓には、2万5千という人数の大きさがうまく実感できなかった。


「2万5千人って……どれくらいなんでしょう」


「福岡ドームが半分ちょい埋まるくらいだよ」


「いや、私たち福岡ドーム分からないですから」


 藤田が冷静に突っ込んだ。


「あ、そっか」


「基準が地元すぎるんですよ」


 新井が笑う。


 その新井が、画面を見ながら少し表情を変えた。


「……これ、Nexus Live始まって以来の最高記録ちゃいます?」


「初配信時の登録者?」


「はい。デビュー時点で2万5千って、俺聞いたことないですよ」


「ちょっと待って」


 藤田が自分のノートパソコンを操作する。


 しばらくデータを確認したあと、顔を上げた。


「うん。そうだよ」


「マジですか」


「少なくとも、私が確認できる範囲では最も多い」


「……最高記録」


 梓は、もう1度数字を見る。


 まだ、自分のこととは思えない。


 神代が小さく息を吐いた。


 その表情が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。


 そのまま、画面に表示された別の数字へ目を向ける。


「最大同接、3800か。かなり来たね」


 梓には、その数字がどれほどのものなのかも分からなかった。


「それって、多いんですか?」


「多いよ。うちくらいの規模の事務所なら、初配信で3800はかなり強い数字」


 桐生がすぐに答えた。


「大手の大型デビューならもっと集まることもあるけど、新人の初配信で最初から数千人来るのは簡単じゃないから。これはかなり成功してる方」


「……そんなに」


 梓は改めて、3800という数字を見つめた。


 ただ、大きな会場を満員にしても入りきらないほどの人が、ついさっきまで自分を見ていた。


 そう考えた途端、3800という数字が急に現実味を帯びた。


「……ちょっと待ってください」


 視界がふらりと揺れ、梓はその場へしゃがみ込んだ。


「大丈夫? 梓ちゃん」


 神代の声に、梓は小さく頷く。


「大丈夫です」


 駆け寄ってきた桐生に身体を支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。


「収録なら、何人に聞かれるかなんて考えたこともなかったんです」


 梓はもう1度、画面に表示された数字を見る。


「3800人が、あの時間に私の声を聞いてたんですよね……」


「そうだね」


 神代が答えた。


「……今になって、怖くなってきました」


「配信中はあんなに落ち着いとったのに」


「コメントしか見てませんでした……」


「それでいいんじゃない?」


 神代が言った。


「配信中に人数を気にしたって、いいことないでしょ。目の前のコメントを見て、来てくれた人と話せてたなら、それで十分だよ」


 梓は桐生に身体を支えられたまま、小さく頷いた。


「まあ、登録者が増えたのは広告の効果も大きいと思う」


 神代が画面に表示された数字を指す。


「最初に見つけてもらうところまでは、こっちでできるからね。でも、その人たちが次も見に来てくれるかどうかは、マリナと梓ちゃん次第でしょ?」


「……はい」


「まずは2万5千人。いいスタートを切れたんだし、今日は祝おう」


「ですね」


 桐生が梓からゆっくり手を離した。


 初配信は終わった。


 けれど、マリナの活動は今、始まったばかりだった。


「じゃあ」


 藤田がノートパソコンを閉じる。


「初配信終了祝いに、何か取りません?」


「この時間だと、今から頼めるの……ピザ屋くらいですけど」


「ピザでいいじゃん」


 神代がすぐに答えた。


「じゃあ俺が出すから、好きなの頼んで」


「ほんとですか?」


「今日は初配信のお祝いなんだから。遠慮しなくていいよ」


「じゃあ遠慮なく」


 藤田がスマートフォンを取り出す。


「そうだ、新井君」


 神代が新井へ声をかけた。


「はい?」


「お酒買いに行こうよ」


「ええですよ」


 神代は立ち上がりながら、残る3人を見た。


「みんな飲めます? お酒」


「私はレモンサワー系でお願いします」


 藤田が答える。


「私はハイボールで」


 桐生が続く。


 最後に神代が梓を見る。


「梓ちゃんは?」


「梅酒のソーダ系がいいです」


 新井が笑う。


「男梅サワーですか?」


「あれ酸っぱいから嫌いです」


 梓が即答した。


「飲んだことあるんですね」


「ありますよ」


 神代と新井がコンビニへ向かい、しばらくして大量の酒とつまみを抱えて戻ってきた。


「……多くないですか?」


 梓が袋の中を見る。


「お祝いだから」


「それで全部通す気ですね」


 藤田が笑う。


 少しすると、インターホンが鳴った。


「ピザじゃない?」


 桐生が立ち上がろうとしたが、神代が先に腰を上げた。


「俺行くよ」


 神代は玄関でいくつもの箱を受け取った。


 配達員が帰ろうとしたところで、神代が呼び止めた。


「あ、領収書お願いします」


「ピザにまで!?」


 藤田の声が飛んだ。


 神代が振り返る。


「だって初配信の打ち上げでしょ?」


「そうですけど……」


「じゃあいいじゃん」


「そういう問題なんですか?」


 神代は気にした様子もなく領収書を受け取った。


 テーブルにピザと酒を並べ、それぞれが飲み物を手にした。


「じゃあ、改めて」


 神代がグラスを掲げる。


「マリナの初配信成功を祝って」


「カンパーイ!」


 缶とグラスが触れ合い、軽い音を立てた。


 梓も梅酒ソーダをひと口飲み、ピザへ手を伸ばした。


「そういや中村さん」


 新井がピザを片手に言った。


「コメント拾うん、上手かったですね」


「そうですか?」


「はい。流れ速かったのに、話広げやすいのちゃんと拾ってましたし。変なんも、拾うときと流すとき分けてましたしね」


「変なの?」


 神代が聞く。


「最初の『踏んでください』は完全に流したのに、途中の胸の話は拾うたでしょ」


「ああ……」


 梓は少しだけ視線を泳がせた。


「あれは、なんとなくです」


「なんとなく?」


「はい。あのときは……返せそうだなって思って」


 自分で言ってから、少し考える。


「マリナなら、ああ返すかなって」


 新井が笑った。


「それでええんちゃいます? 全部拾う必要なんてないですし」


「そうだね」


 神代も頷く。


「嫌なのは流して、返せそうなら返す。マリナの空気に合うなら、それが一番でしょ」


 藤田が神代をじっと見る。


「……神代さん、プロデューサーっぽいこと言ってる」


「俺、プロデューサーなんだけど」


「そうでしたね」


「忘れないでよ」


 新井が吹き出した。


「普段が普段やからですよ」


「新井君までひどくない?」


 笑いが起きる。


 少しして、神代が梓を見る。


「そういえば梓ちゃん」


「はい?」


「俺のコメント、流れたでしょ」


「……コメント?」


「マリナーズ」


「あ」


 梓は思い出した。


 ――マリナという船に乗るということで……マリナーズで!!


「あれ、神代さんだったんですか?」


「そうだよ。結構いいと思ったんだけどなあ」


「コメントが速くて、拾えませんでした」


「拾ってほしかった……」


 神代が少し肩を落とす。


「でも、マリナーズってことは船乗りですよね」


 藤田が口を挟んだ。


「そうそう。マリナという船に乗る人たち」


「ほんなら神代さん、船長なんちゃいます?」


 新井が言う。


「俺、船長?」


「企画の責任者ですし」


「いや」


 桐生が首を傾げた。


「船長はマリナじゃない?」


「あ、それもそうか」


「じゃあ神代さんは……」


 藤田が少し考える。


「船主?」


 一瞬、間が空いた。


「金出してる人やし、ぴったりっすね」


 新井が即座に乗っかる。


「船主……」


 神代は妙に納得したように頷いた。


「なんか急に金持ちっぽくなったな」


 梓が吹き出す。


「実際そうじゃないですか」


「梓ちゃんまで!?」


「神代さん、ほかにもコメントしてたんですか?」


「してたよ」


「どれです?」


「ほら、好きな食べ物はって聞かれたとき。『通りもん』って書いたの俺」


「それも神代さんだったんですか!?」


「せっかく買ってきたから」


「何の宣伝ですか」


 また笑いが起きた。


 神代も笑いながらハイボールを口にする。


「でもさ」


 ふと、その声が少しだけ静かになった。


「作る側に回ってみるとさ。リスナーでいられるって、結構幸せなことなんだなって思うよ」


「……幸せ、ですか?」


「うん。好きな配信見て、コメントしてさ。拾ってもらえたら嬉しくて、次の配信を楽しみに待つ」


 神代は手元のグラスを見る。


「今まで、そんなこと考えたこともなかったけどね」


 梓は黙って聞いていた。


「……なんてね」


 神代が顔を上げる。


「ちょっとくさかったかな」


「自分で言うんですか」


 梓が笑った。


「神代さん、配信って前から見てはったんですか?」


 新井が尋ねる。


「見てたよ」


「誰見てたんです?」


「天城レイナさんはよく見てたよ。あの子面白いよね。なんでもできて」


「ああ、レイナさん」


「ゲームもできるし、歌えるし、喋れるし。見てて飽きないんだよね」


「まあ、うちのエースですから」


 藤田が答える。


「なんでもできる人って、見てて面白いんだよね」


 そう言って、神代がふと梓を見る。


「……なんで私を見るんですか?」


「いや、別に」


「絶対なんかありますよね」


 神代は笑ってごまかすように、ピザへ手を伸ばした。


「スパチャも、めっちゃしてたよ」


「めっちゃ?」


 梓が聞き返す。


「うん。結構投げてた」


「神代さん、それリスナーっていうか太客ちゃいます?」


 新井が笑う。


「好きな配信にお金払って何が悪いのよ」


「誰も悪いとは言うてませんって」


 そこで神代は、ふと思いついたように梓を見た。


「じゃあマリナにもめっちゃ投げよ!!」


「やめてください!」


 梓が即座に止めた。


「なんで?」


「神代さん、もう十分お金出してるじゃないですか!」


「それとスパチャは別でしょ。俺はリスナーとして投げたいの」


「神代さん、ほんま親ばかやな」


 新井が笑う。


「いいじゃん、親ばかで」


 神代はまるで気にした様子もなく、ピザを1枚取った。


「子は可愛いものよ、新井君」


「完全に親目線やないですか」


 また笑い声が上がる。


 梓も笑いながら、梅酒ソーダを口にした。


 その後も、今日の配信や流れてきたコメント、次のイラスト配信の話はなかなか尽きなかった。


 梓はふと、部屋の奥にある防音室へ目を向けた。


 ほんの少し前まで、あの中で1人、画面の向こうへ話しかけていた。


 声優として6年間、届いているのかどうかも分からないまま、それでも声を出し続けてきた。


 今日、その声を聞いて笑ってくれた人がいた。喜んでくれた人がいた。次も来ると言ってくれた人がいた。


 画面の向こうには、また帰ってきてくれるレヴェナンツがいる。


 そして扉を開ければ、一緒に笑ってくれる人たちがいる。


 マリナとしての最初の1日は、こうして終わった。

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