第29話「終わりと始まり」
配信部屋の準備を終えた数日後。
梓は、ホテルで最後の夜勤を迎えていた。
バックヤードのロッカーを開ける。
いつもの位置に制服が掛かっている。少し色の褪せた紺色。袖口には、ほつれた縫い目を自分で直した跡が残っていた。
腕を通す。
ここ最近は、着るたびに残りの回数を数えていた。今夜はもう数えなくていい。
「胸に名札を留める。何も考えなくても、手はいつもの位置に動いた。」
鏡で襟の位置を直す。
いつもと同じ顔がそこにある。
*
日勤のスタッフから引き継ぎを受ける。
春に入ったばかりの子だった。名前を呼んだのも、まだ数えるほどしかない。
「302のお客様、明日の便が欠航になったみたいで。延泊されるかもって言ってました」
「はい、分かりました」
「じゃ、お疲れさまです」
それだけ言って上がっていった。
今日で梓が辞めることをこの子は知らない。伝える機会もなかった。
夜勤は人が居つかない。6年のあいだに何人が入って、何人が辞めていったのか、もう覚えていなかった。
*
「すみません、もう1泊できますか」
最初にカウンターへ来たのは、引き継ぎで聞いていた302号室の客だった。出張らしいスーツ姿で、手にしたスマートフォンを見ながら困った顔をしている。
「明日の便、飛ばなくなってしまって」
「かしこまりました。空室がございますので延泊で承ります」
端末を操作し、まず同じ部屋を継続して使えるか確認した。部屋を移らずに済めば、荷物をまとめてもらう必要もない。
誰に教わったわけでもなく、6年のあいだに身についた手順だった。
「同じお部屋のままで大丈夫です」
「あ、助かります。荷物広げっぱなしで」
男性が笑ってエレベーターの方へ消えていく。
その後に酔った2人組が入ってきた。片方が壁の絵を褒め始めて片方が引っ張っていく。エレベーターの扉が閉まるまで見送ってから伝票を整える。
電話が鳴る。先週泊まった客の忘れ物の問い合わせ。保管期限と受け取り方法を伝えて日誌に記録する。
どれも6年やってきたことだった。
考える前に手が動く。
*
やがて誰も来ない時間になる。
ロビーの照明が半分落ちている。外の車の音も間隔が空いてきた。
いつもならここからが自由な時間。
「――こんばんは」
小さく声に出してみる。
そこで止まった。
続きが出てこない。
もう1度やってみようとして、ふとマリナを思い浮かべた。
金色の瞳。深紅の長い髪。
今度は、マリナとして喋ってみる。
「今日ね、飛行機が飛ばなくなって、帰れなくなった人がいたの」
不思議と言葉が出てくる。
「困った顔をしてたけど、同じ部屋に泊まれますって伝えたら、ほっとした顔で笑ってた」
次に何を話すか考える必要もなかった。
「帰れなくなった夜でも、戻れる部屋があるだけで少し安心できるんだね」
梓は、誰もいないロビーへ微笑みかけた。
「だから、あなたにも帰れなくなった夜があったら、ここにおいで」
画面の向こうにいるはずの誰かへ語りかけるように、声を柔らかくする。
「私がちゃんと、おかえりって言うから」
言い終えてから、梓は瞬きをした。
役を作ろうとはしなかった。それでも声も言葉も、考える前に出てきた。
マリナは、ここで気まぐれに作ってきた名前のない役とは違う。
もうすぐ、この声で誰かを迎えることになる。
カウンターに手を置く。
磨いた木目が指の腹に触れる。
窓の外がうっすら白んでいた。
*
6時を過ぎると、チェックアウトの客が動き始める。
早い便に乗る客。朝食に降りてくる客。フロントの前を人が通るたびに顔を上げて声を出す。
「おはようございます」
いつもどおりの声が出た。
最後の日だからといって特別なことは何もない。それが少し不思議だった。
7時前に自動ドアが開く。
西村支配人が入ってきた。白髪をきれいに撫でつけ、いつもの濃い色のスーツを着ている。
「おはようございます」
「おはようございます。お疲れさまでした」
カウンターの内側に回って上着を掛ける。それから日誌を開いた。
「延泊が1件と忘れ物の問い合わせです。302号のお客様は明日の便が欠航とのことで1泊延長されました。振替便がまだ取れていないそうなので、さらに延びるかもしれないとおっしゃっていました」
「承知しました」
支配人が頷き、記録に目を通していく。
ペンの音。紙をめくる音。
いつもと同じ引き継ぎだった。
最後だからと手を止めることもない。支配人はそういうことをしない。
「以上です」
「ありがとうございます」
支配人が日誌を閉じる。
そこで梓は鞄に手を伸ばした。
持ってくるかどうか、家を出る直前まで迷った。額に入れようかとも思い、それはやめた。
クリアファイルを1枚、カウンターの上に置く。
「……あの、これ」
それだけしか言えなかった。
何のためにこれを渡すのか自分でもうまく説明できない。
「拝見してもよろしいですか」
「はい」
支配人が胸ポケットから眼鏡を取り出してかける。
中の紙を引き出した。
夜のフロント。磨かれた木目と据え置きの電話。奥の壁の時計。窓の外は暗い。
その内側に人が立っている。白髪を撫でつけた紳士が背筋を伸ばして立っている絵。
ずっと前に描いたものだった。渡す相手を思って描いたわけではない。ただその日描きたかったから描いた1枚。数千枚もあるうちの1枚だ。
支配人は何も言わずに見ていた。
時計の秒針の音が聞こえるくらい静かだった。
「……よく描けていらっしゃいますね」
感想としては薄い一言だった。
「あ、はい。ありがとうございます」
梓も間の抜けた返しをした。
支配人は紙の縁を指で挟むようにして持ち直し、折り目をつけないままファイルに戻した。
「お預かりします」
客の荷物を受け取る時と同じ言い方だった。
支配人はカウンターの内側にしゃがみ、自分の鞄を引き寄せた。書類の間に挟むのではなく、一番手前に立てて入れた。
それきり絵の話はしなかった。
*
ロッカーで制服を脱ぐ。
ハンガーに掛けて袖を伸ばす。返却用の袋に畳んで入れた。
名札を外す。
袋の口を結んでから、私服の襟を整えて出る。
通用口ではなく正面のロビーを通った。理由はない。
カウンターの内側に支配人が立っている。
絵と同じだった。
「6年間、お世話になりました」
深く頭を下げる。
「こちらこそ、助けていただきました」
支配人がゆっくり頭を下げ返した。
顔を上げる。
支配人は、いつもと変わらない穏やかな顔で梓を見ていた。
もっと何か伝えたかった。けれど、6年分の感謝を言葉にしようとすると、どれも軽く思えた。
梓はもう1度、頭を下げた。
「では、失礼します」
自動ドアの方へ歩く。
背中で声がした。
「――またのお越しをお待ちしております」
毎日客に言っている言葉だった。
従業員には言わない台詞だ。
梓は振り返らなかった。振り返ったら顔が崩れると分かっていたから。
「……はい」
それだけ返して外に出る。
*
7月の朝の光がまっすぐ落ちてきていた。
夜勤明けにいつも浴びる光。今日から浴びなくなる光。
駅までの道を歩く。
パン屋がシャッターを上げている。制服の学生が自転車で追い抜いていく。
6年間ずっとこの時間に通った道が、今日は少し明るく見えた。
ホームで電車を待つ。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
美咲からのメッセージだった。
『最後の夜勤、お疲れさまでした! これからはマリナに専念ですね。改めてよろしくお願いします!』
最後に絵文字が3つ並んでいた。
梓は短く返信を打った。
電車が入ってくる。
乗り込んで席に座り、目を閉じる。
マリナとしての配信は、まだ始まっていない。
それでも、6年間背負っていた何かを下ろしたように、身体は妙に軽かった。




