第28話「HOME」
配信拠点の方針を決めた会議から、数週間が過ぎた。
神代は、リビングの大きな窓の前に立っていた。
部屋は7階建ての最上階にある。東から南東にかけて視界が開け、吉祥寺の街並みを遠くまで見渡すことができた。
その先では、建物の間から細長い塔が頭を出していた。
「……やっぱ見えるな」
東京スカイツリー。
昨日、防音室の搬入に合わせて黒瀬と室内を確認した際にも見つけていた。
吉祥寺から見えるとは思っていなかったので、神代もその時は素直に感動した。
もっとも、その感動を分かち合った相手は黒瀬だったが。
スマートフォンが鳴った。
画面には桐生の名前が表示されている。
「はい」
『神代さん、着きました。今マンションの前です』
「あ、もう着いた?」
『はい。何号室でしたっけ?』
「最上階。7階の703号室。角部屋だよ」
『了解でーす。今上がります』
通話が切れる。
配信室から、新井が顔だけを出した。
「来ました?」
「うん。今、下だって」
「ほな、俺はこっち進めときますわ」
「お願い」
新井はすぐに部屋の奥へ戻っていった。
配信室として使う洋室には、すでに防音室が据えられている。
昨日、専門業者に組み立ててもらったものだ。
今日はその中へデスクやPC、音響機器を入れ、実際に配信できる環境まで仕上げる予定になっている。
ほどなくしてチャイムが鳴った。
「はーい」
神代が玄関を開ける。
「おはようございます」
最初に入ってきた梓が頭を下げる。
「おはようございまーす」
その後ろから桐生が軽く手を上げ、藤田も続いた。
「おはようございます」
「おはよう。どうぞ。まだ段ボールだらけだけど」
三人が靴を脱ぎ、リビングへ入る。
「……広い」
梓が室内を見回した。
家具はまだほとんど配置されておらず、壁際には昨日搬入された段ボールが積み上がっている。
「ここで打ち合わせもするんですよね?」
藤田が言う。
「そのつもり。テーブルとか置いて、何人か集まれるようにして――」
「あっ」
梓が窓際へ歩いていった。
「どうしたの?」
「神代さん、あれ」
窓の向こうを指さす。
「スカイツリーですよね?」
「そうそう」
「え、どこ?」
桐生も窓へ寄る。
「あ、本当だ!」
藤田もその横へ並んだ。
「ほんとだ。見える」
梓は窓の外を眺めたまま、少し身を乗り出した。
「すごい……吉祥寺から見えるんですね。結構ちゃんと見えます」
桐生も窓の向こうへ目を凝らす。
「夜、ライトアップされたらもっと分かりやすそう。いいなあ、ここ」
三人が窓際で盛り上がっているのを、神代は少し離れたところから眺めた。
「いやあ、やっぱこの反応だよな」
桐生が振り返る。
「神代さんは昨日見たんですよね?」
「見た見た。俺も最初は結構感動したよ」
「じゃあ同じじゃないですか」
「いや、違うんだよ」
「何がです?」
神代は配信室へ顔を向けた。
「新井君」
「はい?」
また顔だけ出した新井へ、神代が手招きする。
「いや、そう思わない? 新井君」
「何がです?」
「スカイツリー見える。『おお、すげえ』って感動する」
「まあ、しますね」
「で、横見たら黒瀬さん」
「……」
「『あぁ~……』ってなるでしょ?」
新井が一瞬黙った。
「……まあ、言いたいことは分かりますけど」
「でしょ?」
「でも本人おらんところで言うことちゃいますって!」
桐生が吹き出した。
「黒瀬さん、完全にとばっちりじゃないですか」
「いや、黒瀬さんが悪いわけじゃないよ」
「当たり前ですよ」
桐生が笑いながら返した。
「でもまあ、確かにおじさん二人でスカイツリー見て『すごいですね』ってやってても、絵としてはちょっと地味だから、その気持ちはわかりますけど」
その横で、藤田が窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……でも、その組み合わせはそれはそれで」
桐生がゆっくり藤田を見る。
「藤田さん?」
「何?」
「今、なんか想像した?」
「してない」
「間あったよ」
「なかったです」
「何の話?」
神代が首を傾げる。
「神代さんは知らなくていいです」
「なんで?」
「いいから」
藤田は窓から離れ、段ボールの方へ向かった。
神代は少し気になったものの、時計を見る。
「まあいいや。じゃあ、さっさと始めましょう。早く終わらせよう」
「はーい」
桐生が軽く返事をする。
「新井君、今日は組み立てと機材チェックまで?」
「そうですね。デスク組んで、PCとモニター、音響つないで、トラッキングまで一通り確認します。回線も見ときたいですね」
「今日中に使える状態にはなる?」
「なんも問題なかったらいけますよ」
「じゃあ配信関係は新井君に任せよう」
「了解です」
神代が防音室を指す。
「この防音室自体は、昨日業者さんに組んでもらってるから。今日は新井君が中身を作る感じだね」
「これが防音室なんですね」
梓が扉の向こうを覗き込む。
「思ってたより、ちゃんと部屋ですね」
「箱はできてるんで」
新井が答える。
「今日はここに全部入れていきます」
「じゃあ梓ちゃんと桐生さん、藤田さんは、段ボール開けてもらっていいです? 配信関係のやつは新井君に渡してあげて」
「分かりました」
桐生が段ボールの山を見て、軽く腕まくりする。
「了解でーす」
藤田も頷いた。
「はい」
「あ、梓ちゃん」
「はい?」
「仮眠室のレイアウトも考えといて」
「私が決めていいんですか?」
「一番使う可能性あるの、梓ちゃんでしょ? 桐生さんと藤田さんにも聞きながら、使いやすいようにしていいよ」
「分かりました」
「じゃ、始めましょうか」
それぞれが動き始める。
新井は配信室へ。
梓たちは段ボールの山へ向かった。
神代も何も言わず、リビングの隅に置いていた細長い箱の前にしゃがみ込む。
箱を開け、中から取り出したのは、自分で買ってきたプロジェクターだった。
会議をするなら、大きな画面で資料を見られた方が便利だろう。
そう思って昨日、勝手に買ってきた。
もちろん、黒瀬には言っていない。
神代が説明書を広げたところで。
「神代さーん」
配信室から声が飛んできた。
「はい?」
「ちょっと手伝ってください」
「俺?」
「デスク組むんで。一人やとちょっと持ちにくいんですよ」
神代は手元のプロジェクターを見る。
「……はいはい」
配信室へ入ると、床に大きな天板と脚、フレームが並べられていた。
「神代さん、そっち持ってください」
「これ?」
「そうです。ちょい上げてもらって」
「はい」
「もうちょいこっち」
「こっち?」
「逆です逆」
「あ、こっちね」
「そうそう。そこで止めてください」
神代は言われるまま天板を支える。
新井が反対側で位置を合わせ、ボルトを締め始めた。
(……俺、一番偉い立場だよな?)
ふと、そんなことを思った。
このプロジェクトの発起人。
エグゼクティブプロデューサー。
この部屋を借りているNESTの代表。
今やっていることは、天板を押さえる係。
「神代さん、もうちょい上げてもらえます?」
「はい」
口には出さなかった。
しばらくして、最後のボルトを締め終えた新井がデスクを軽く揺らす。
「よし。大丈夫ですね」
「終わり?」
「はい。神代さん、もういいですよ。あとは俺がやりますから」
「分かった」
「ありがとうございました」
「いえいえ」
神代が出ていこうとすると、新井が大きな箱へ目をやった。
「……あれ?」
「何?」
「この椅子」
箱に書かれたメーカー名を見て、新井の目が少し大きくなる。
「これ、めっちゃいいやつじゃないっすか」
「黒瀬さんに頼んで、椅子だけは俺に選ばせてもらったのよ」
「神代さんが選んだんですか?」
「長時間座るんでしょ? だったら、腰が痛くならないやつの方がいいかなと思って」
新井がもう一度、箱に書かれたメーカー名を見る。
「……値段、知ってます?」
「知ってるよ」
「知った上で、これ選んだんですか?」
「梓ちゃんにもマリナにも、『腰が痛い』なんて言わせたくないじゃん」
「言うてるん、同じ人ですけどね」
「じゃあ、2人分だと思えば安いね」
「その計算は絶対おかしいですって!」
「でも、いい椅子を最初に買えば、買い替えなくて済むでしょ」
新井はしばらく神代を見つめた。
「……金持ちの節約、よう分かりませんわ」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「じゃあ、組み立ては任せたよ」
「はいはい。大事に組み立てさせてもらいます」
配信室を出た神代は、さっきの場所へ戻った。
梓たちは相変わらず段ボールを開け続けている。
神代はプロジェクターを箱から取り出した。
まだ会議用のテーブルはない。
「……これでいいか」
大きめの段ボールを一つ引き寄せ、その上へ本体を置く。
電源をつなぎ、壁との距離を確認してリモコンのボタンを押した。
小さな駆動音が響く。
何もなかった白い壁に、四角い光が浮かび上がった。
「お」
角度を調整する。
台形補正をかける。
試しに保存していた資料を開くと、壁いっぱいにマリナの三面図が映し出された。
「おお……」
いつもモニターで見ているマリナが、リビングの壁に大きく立っている。
「これ、結構いいな」
「……神代さん?」
背後から声がした。
振り返ると、段ボールを抱えた藤田が立っていた。
「何してるんですか?」
「プロジェクターのテスト」
「それ、購入備品に入ってませんでしたよね?」
「入ってないよ」
「……黒瀬さん、知ってるんですか?」
「知らないよ」
「知らないんですか?」
「うん」
藤田が黙った。
桐生も近づいてくる。
「何です? これ」
「プロジェクター」
「また勝手に買ったんですか?」
「俺がね」
「また怒られますよー」
「大丈夫だって。黒瀬さんは昨日確認に来たし、あとは俺たちに任せるでしょ。統括が何度もここまで見に来るとは思えないし」
「私も、もう来ないとは思いますけど……見つかったら怒られると思いますよ」
藤田が呆れた顔をする。
「だって、NESTの部屋だからいいでしょ。NESTで借りて、俺が買ったんだよ?」
「まあ……それはそうですけど」
「会議する時、使わないの?」
「え?」
「これ」
神代が壁を指した。
「資料、大きく映せるよ。使わないなら持って帰るけど」
「いや、使いますよ」
藤田が即答すると、神代がにやりとする。
「使うんじゃん」
「それと勝手に買ったことは別です」
神代は少し考える。
「じゃあ、代わりにホワイトボードにする?」
「……それは困ります」
「ほら」
「脅し方が地味なんですよ」
桐生が笑った。
「でも、普通に便利そうじゃないですか?」
「でしょ?」
「新衣装とか広告の案も、これならみんなで見やすそうですね」
梓も壁いっぱいのマリナを見上げる。
「私も、こっちの方が見やすいと思います」
「ほら、梓ちゃんも言ってる」
「多数決にしないでください」
藤田は小さく息を吐いた。
「もういいんじゃないですか?」
桐生が笑いながら言う。
「まあ、黒瀬さんも確認は済ませてますしね」
藤田が桐生へ目を向ける。
「桐生さんまでそっち行かないでください」
神代は満足そうにリモコンを置いた。
* * *
段ボールの数がかなり減った頃。
梓たちは、もう一つの洋室へ入っていた。
「仮眠室、どうしましょうか」
梓が部屋の広さを見ながら聞く。
「ベッドは二つでいいんじゃない?」
桐生が答える。
「私たち三人が同時に泊まることって、そんなないでしょ」
「私がここに泊まる日は、かなり限られると思います」
藤田も頷いた。
そこへ、配信室から出てきた新井が会話を聞きつける。
「ちょっと待ってください」
桐生が振り返る。
「何?」
「俺が遅なった時は、どうするんです?」
神代がリビングの方を指さした。
「新井君はリビングのソファー」
「なんで俺だけソファーなんですか」
「女子が寝る部屋に、新井君も寝るわけにいかないでしょ」
「……それはそうですけど」
「だから、寝心地のいいソファーを選んどいたよ」
「最初から俺が寝る前提で選んだんですか?」
「遅くまで機材触ることになるなら、一番可能性あるの新井君でしょ」
「妙なところで気ぃ利きますね……」
桐生が吹き出した。
「あと」
神代は仮眠室のドアを見る。
「ここ、鍵つけとこう」
新井が神代を見る。
「それは俺も賛成です。変に疑われるん嫌ですし」
「そうそう。新井君、見た目チャラいからね」
「余計な一言ですって!」
桐生が笑う。
「まあ、チャラそうではある」
「桐生さんまで!?」
笑い声が部屋に広がった。
「冗談冗談」
神代は笑って手を振った。
「でも、誰が使うにしても鍵はあった方がいいでしょう。寝る部屋なんだから」
藤田が頷く。
「その方が安心ですね」
神代が仮眠室を見回す。
「誰かが寝てるところに、間違えて入るのも嫌でしょ?」
「まあ、それはそうですね」
新井も、今度は素直に頷いた。
* * *
それから数時間。
積まれていた段ボールはほとんど片づき、リビングにもようやく部屋らしさが生まれていた。
「新井くーん、終わった?」
リビングから神代が声をかける。
「はい。あらかた終わりましたよ」
防音室から新井の声が返ってきた。
「細かい調整はまだありますけど、今日やる分はこんなもんです」
「了解」
少しして。
「中村さーん、ちょっと来てください」
「はい!」
梓は手にしていた空き箱を置き、配信室へ向かった。
防音室の扉を開ける。
「……わ」
思わず声が漏れた。
数時間前まで何もなかった室内に、大きなデスクが据えられている。
二枚のモニター。
PC。
マイク。
オーディオ機器。
カメラ。
何本もあったはずのケーブルは綺麗にまとめられ、デスクの周囲はすっきりしていた。
「できたんですか?」
「とりあえず、使える状態までは」
新井が椅子を軽く叩く。
「まず中村さん、座ってください」
「はい」
梓が腰を下ろした。
「……あ」
「ええでしょ?」
「すごく楽です」
「それ、めっちゃええ椅子ですよ」
「そうなんですか?」
「めっちゃええやつです」
「神代さんが、中村さんの腰が痛くならんようにって選んだらしいですわ」
「神代さんが?」
「あと、マリナの」
「マリナの?」
「『2人分やと思えば安い』言うてました」
「……同じ人なんですけど」
「俺もそう言うたんですけどね」
新井が苦笑する。
「あの人、ぶっ飛んでますけど、ええ人ですよ」
梓は背もたれに身体を預け、ほんの少し笑った。
「はい。知ってます」
新井が椅子の横へ回る。
「どんだけええ椅子でも身体に合ってなかったら意味ないんで。中村さん用に合わせますね」
「お願いします」
「まず高さ。足、床につきます?」
梓が足元を見る。
「少し浮いてます」
「ほな、このレバー。下げてみてください」
言われた通りに操作する。
「あ、下がった」
「足の裏がちゃんとついて、膝が無理に上がらんくらいで」
「このくらいですか?」
「そうですね。それでいきましょ」
新井は続けて肘掛けを指す。
「こっちも高さ変えられます。腕置いた時に肩が上がらん位置にしてください。長時間やると、こういう細かいとこが地味に効いてくるんで」
「なるほど……」
「背もたれも調整できますけど、そこは使いながら好きな位置探してください」
「はい」
「で、こっからPC周りですね」
新井がメインモニターを指した。
「基本、中村さんが見るんはこっちです。配信ソフトとマリナのトラッキング」
「はい」
「もう一枚はコメントとか資料とか。ゲームやる時は配置変えますけど、その辺は配信ごとにこっちで作ります」
「二つ同時に見るんですか?」
「ずっと両方見んで大丈夫ですよ」
新井が笑う。
「最初から全部やれ言うても無理なんで。慣れるまでは見る場所もある程度決めときます」
「よかった……」
「あとカメラはここ。座る位置が大きくズレんかったら、基本大丈夫です」
「はい」
「マイクはこの位置ですね。近づきすぎると声張った時に割れるんで、だいたいこの辺」
新井がマイクの位置を示す。
「音量とか細かい調整は、最初は触らんでいいです」
「触らない方がいいですか?」
「分からんうちは、その方が安全です。設定は俺が作っとくんで、中村さんは配信始める時に必要なとこだけ覚えてください」
「分かりました」
それから、新井は配信ソフトの立ち上げ方やマイクの確認方法、トラッキングソフトの基本的な操作を一つずつ説明していった。
一通りの説明が終わる。
「まあ、最初に覚えてもらうんはこんなもんですね」
「……結構ありますね」
「一気に全部覚えんでええですよ。実際に触りながらの方が早いんで」
「はい」
「分からんかったら、その都度俺に聞いてください」
「ありがとうございます」
梓は改めてデスクの上を見回した。
二枚のモニター。
キーボード。
マウス。
マイク。
その先には、これからマリナを映し出す画面がある。
そこで、ふと思い出した。
「あの、新井さん」
「はい?」
「ペンタブって、どこに置いたらいいですか?」
「ペンタブ?」
「はい。絵を描く時に使うので」
「ああ、そっか。中村さん、イラスト配信もしますもんね」
新井がデスクを見る。
「板タブです?」
「はい」
「大きさどれくらいです?」
梓が両手で幅を示した。
「このくらいです」
「ほな、普段はここ空けといて」
新井がキーボードの手前を指す。
「絵描く時だけキーボードを奥にやって、ここに置くんが一番使いやすいと思います」
「置きっぱなしじゃない方がいいですか?」
「雑談とかゲームする時は邪魔になると思うんで。横に収納できる場所作っときましょか」
「いいんですか?」
「その方が楽でしょ。毎回どっかから持ってくるん面倒ですし」
新井はデスクの脇を確認する。
「ここに立てて置けるラックあればいけますね」
「じゃあ、そうしたいです」
「了解です。ペンタブ、今使ってるやつ持ってきてもらえます?」
「はい。家にあります」
「型番も分かったら送っといてください。ドライバとか先に確認しとくんで」
「分かりました」
梓はデスクの空いた場所を見る。
ここに、自分のペンタブを置く。
何年も使い続けてきた、自分の道具を。
「新井くーん」
またリビングから神代の声がした。
「はい?」
「終わったなら、こっち来て。梓ちゃんもねー」
「なんです?」
新井が防音室を出る。
梓もその後を追った。
リビングでは、神代がスマートフォンを手にしていた。
「この部屋の鍵、渡しとこうと思って」
「鍵?」
梓が聞き返す。
「スマートロックの合鍵。梓ちゃんには、常時使える権限を渡しておくね」
「あ、はい」
「桐生さんにも常時。あと管理権限もつけとく」
桐生が顔を上げた。
「管理権限?」
「俺が福岡にいる時、新井君とか藤田さんが来るたびに、福岡から出てくるわけにもいかないからね」
「ああ、確かに」
「だから桐生さんから、必要な時だけ使える鍵を発行できるようにしとく」
「なるほど。じゃあ普段は私が管理すればいいんですね」
「そういうこと」
神代は少し考えてから付け加えた。
「あと、俺がここに来る時も、一応桐生さんに連絡入れるから」
「神代さんがですか?」
「うん。俺が借りてる部屋ではあるけど、普段使うのは梓ちゃんたちでしょ」
神代は少し肩をすくめる。
「女性がメインで使ってる部屋に、俺が勝手に入るのもなんかね」
美咲が少しだけ目を丸くしたあと、笑った。
「そこはちゃんとしてるんですね」
「そこ“は”って何?」
神代が新井と藤田を見る。
「新井君と藤田さんは、来る時だけでいいよね?」
「俺はそれで大丈夫ですよ。毎日来るわけちゃいますし」
「私も必要な時だけで大丈夫です」
「じゃ、それで」
神代がスマートフォンを操作する。
「俺も持ってるけど、たぶん一番使わないだろうけどね」
桐生が笑う。
「NESTの部屋なのにですか?」
「普段、福岡だからね」
梓のスマートフォンに通知が届いた。
画面の案内に従って登録すると、この部屋の鍵が追加される。
「できました」
「あと、これだけは本当に気をつけてね」
神代の声が少しだけ真面目になる。
全員が神代を見る。
「鍵の権限はもちろん、この場所がマリナの配信拠点だってことも外には出さない」
「それはそうですね」
藤田が頷く。
「住所とか部屋番号も含めて」
「はい」
梓も頷いた。
「配信に住所特定につながるもん映さんようにせんとですね」
新井が窓の方を見る。
「窓の外とか、伝票とか、そういうのも」
「そうそう。そこは本当に気をつけよう」
神代も頷いた。
「あと、ここ外から見てもマリナの名前は一切出してないからね。表札もNESTだけ」
「その方がいいですね。配信拠点だと分かるものは出さない方がいいです」
藤田が言う。
「機材の追加搬入やメンテナンスで業者さんが来ても、普通の事務所にしか見えへんようにしといた方がええですね」
新井も同意した。
「でしょ?」
神代が少し得意げに胸を張る。
「そこはちゃんと考えてるよ」
桐生が笑う。
「たまにはちゃんとしてますね」
「たまにはって何?」
桐生はプロジェクターへちらりと目をやった。
「普段を振り返ってください」
「ちゃんとしてるでしょ、俺」
「プロジェクター」
「……あれは便利だからいいの」
神代はそう言ってから、何か思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ」
「まだ何かあるんですか?」
藤田の声にわずかな警戒が混じる。
「あるよ」
神代は玄関の方へ向かうと、壁際に置いていた細長い包みを持って戻ってきた。
「これ」
包みを外す。
中から出てきたのは、小さなプレートだった。
『合同会社 NEST 東京オフィス』
「……」
全員の視線が集まった。
最初に口を開いたのは新井だった。
「そういうの作るんは早いですね」
「いいでしょ?」
新井はプレートを眺めながら頷く。
「いや、ええと思いますけど」
桐生がプレートを覗き込む。
「いつ東京オフィスになったんです?」
「これ作った時かな」
「プレートが先なんですか?」
「形から入るの大事でしょ」
「そういう問題ですか?」
藤田はプレートを見ながら、小さく息を吐いた。
「……まあ、外向けにはちょうどいいですね」
「でしょ?」
「そこは認めます」
「そこだけ?」
また、部屋に笑い声が広がった。
梓はその少し後ろから、神代が手にしたプレートを眺めていた。
『NEST 東京オフィス』
朝ここへ来た時には、まだ段ボールが積み上がっているだけの部屋だった。
それが今では、リビングには人が集まれる場所ができ、防音室の中にはPCやモニター、マイクが並んでいる。
自分に合わせた椅子がある。
家にあるペンタブも、ここへ持ってくることになった。
そして今、自分のスマートフォンには、この部屋の鍵まで入っている。
一つ決まるたびに。
一つ形になるたびに。
まだどこか現実味の薄かったものが、少しずつ本物になっていく。
ここから、自分はマリナとして配信する。
梓は、もう一度部屋の中を見回した。
「……本当に、始まるんだ」
口にしたその言葉は、以前より少しだけ楽しみに近い響きをしていた。




