第27話「足りませんか?」
「では、配信内容についてはこのくらいにしましょう」
黒瀬が資料を一枚めくった。
「続いて、配信環境についてです。新井」
「はい」
新井がノートパソコンを自分の方へ引き寄せる。
「中村さん、基本は自宅配信で考えてますよね?」
「はい」
「ほな、今のお部屋ってどんな感じです?」
「どんな感じ……」
「間取りと回線ですね。あとは、夜に声出しても問題なさそうか、その辺です」
梓は頭の中に自分の部屋を思い浮かべた。
「6畳のワンルームです。キッチンは廊下にあって……部屋にはベッドと机と、小さいクローゼットがあります」
「6畳かぁ……」
新井が少し考える。
「回線は光ですか?」
「多分……」
「そこもあとで確認しましょか」
梓は少し申し訳なくなった。
「すみません。全然分かってなくて」
「いやいや、普通そんなもんですよ」
新井が笑う。
「そこ調べるために俺がおるんで」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
「で、一番問題なんが音ですね」
新井が資料を画面に表示した。
部屋の中に置かれた、小さな箱のようなもの。
「これ、防音室です」
「防音室……」
「組み立て式ですね。工事して部屋そのものをいじるんやなくて、部屋ん中にもう1個、小さい部屋を置く感じです」
「こんなのがあるんですね」
「配信者とか宅録する人は結構使ってますよ。外に声が漏れにくなるし、逆に外の音も入りにくなるんで」
新井が別の写真へ切り替える。
「マリナは夜に配信することも多なると思うんで、これは入れたいですね」
「はい」
「ただ」
新井が梓を見る。
「1畳半くらい場所取ります」
「1畳半……」
梓は自分の部屋を思い浮かべた。
ベッド・机・ノートパソコン・ペンタブ・小さなクローゼット。そこに1畳半の防音室。
「……無理ですね」
「ですよねぇ」
新井が苦笑した。
「ベッドをなくしたら、入るかもしれへんけど」
「でも、それだと寝る場所が……」
「いやいや、ベッド捨てろいう話やないですって」
藤田が吹き出した。
「配信するために寝る場所なくなったら、本末転倒でしょ」
「せやから、引っ越しが一番現実的やと思います」
黒瀬が資料へ視線を落とした。
「中村さん」
「はい」
「転居は可能ですか?」
「引っ越しですか」
「現在の部屋では、今後必要になる設備を置くのは難しいでしょう」
「あ……はい。引っ越すこと自体は大丈夫です」
6年間住んだ部屋だった。
けれど、不思議と離れがたいとは思わなかった。
ホテルを辞めると決めたときと同じだった。
もう、次へ進むと決めている。
「荷物もそんなに多くないですし」
「では、転居を前提に進めましょう」
「はい」
「場所は吉祥寺周辺がいいと思います」
桐生が口を開いた。
「吉祥寺……」
「中村さん、今は西東京の方ですよね」
「はい」
「今の生活圏から大きく離れませんし、新宿まで一本です。今後レッスンや打ち合わせで来てもらう回数も増えますから」
「私は大丈夫です」
「ただ、防音室を置くなら、それなりに広さも必要ですね」
新井が言う。
「生活スペースと配信する部屋は分けたいですし」
「セキュリティも考えた方がいいですね」
藤田が続ける。
「オートロックは欲しいですね」
「できれば2階以上で」
「防音室の搬入考えたら、エレベーターも欲しいですね」
「回線も物件ごとに確認が必要です」
次々と条件が増えていく。
「家賃も結構しそうですね……」
梓が呟いた。
「そうですね」
桐生がスマートフォンを取り出した。
「吉祥寺で、その条件となると――」
「……配信する部屋、別に借りたらいいんじゃない?」
ぽつりと声が落ちた。
話が止まった。
全員が一斉に声のした方を見る。
神代が座っていた。
「……あ」
誰が最初だったのか分からない。
何人かが、ほとんど同時に同じ声を漏らした。
神代が不思議そうに周囲を見る。
「いや、中村さんが引っ越すんじゃなくて」
梓を見る。
「配信するための部屋を別に借りればよくないですか?」
「……それでええやん」
新井が言った。
「確かに……」
桐生もスマートフォンを持ったまま頷く。
藤田が苦笑した。
「なんで全員、中村さんを引っ越させる前提で考えてたんでしょう」
「俺に聞かれても困りますけど」
神代が言う。
黒瀬は少し考えてから口を開いた。
「NEST名義で、マリナ専用の配信拠点を借りるということですね」
「そうです」
「中村さんは現在の住居から通う」
「それでいいでしょう?」
「……確かに、その方が話は単純ですね」
「あの……」
梓が口を開いた。
「私、引っ越さなくていいんですか?」
「今の部屋、住む分には困ってないんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、そのままでいいんじゃないですか」
「……そうですね」
言われてみれば、その通りだった。
「配信用だけなら、1Kでもいけそうですね」
新井が言う。
「防音室とデスク、機材置いて――」
「機材置いて1Kか……」
神代が呟いた。
「2LDKでもいいんじゃないですか?」
また全員の視線が神代へ向いた。
「神代様」
「はい?」
「なぜ急に広くなったんですか」
「いや、スタッフのみんなも、その部屋に行くことあるんですかね?」
「俺は行くと思いますよ」
新井が答える。
「最初の設置もありますし、機材トラブルあったら現地で見た方が早いですから」
「私も必要なら行きます」
桐生も続ける。
「配信前後の打ち合わせで使うこともあるでしょうし」
「私もですね」
藤田が頷いた。
「スタッフが何人か集まることはあると思います」
「だったら、1Kじゃ狭くないですか?」
神代は何でもないことのように言った。
「リビングは打ち合わせに使って、1部屋を配信用にする。もう1部屋は仮眠室くらいにすればいいでしょう」
「仮眠室ですか?」
「配信って夜遅くなることもあるんでしょう?」
「ありますね」
「だったら、終わったあとに休める場所くらいあった方がいいじゃないですか」
桐生が少し考えた。
「……あると助かりますね」
「機材の調整で遅なることもありますし、俺も広い方が助かります」
「スタッフが集まるなら、リビングも広い方が使いやすいですね」
藤田も賛成した。
「じゃあ、リビング広めの2LDKでいいんじゃないですか?」
「神代様」
「何でですか……いいでしょ。NESTがお金出してるんだから!」
珍しく神代が食い下がった。
黒瀬は黙って新井を見る。
新井は普通に頷いた。
桐生も頷く。
藤田まで小さく頷いた。
「……皆さん、賛成なんですね」
「使い勝手がいい方がええですから」
「私も、その方がいいと思います」
「私もです」
黒瀬は一度、目を閉じた。
「……好きにしなさい」
「いいんですか?」
「NESTで契約されるのでしょう。こちらから必要な条件は出します。それ以上は、そちらで決めてください」
「じゃあ、使いやすいところにしましょう」
桐生が再びスマートフォンを操作し始めた。
「吉祥寺・2LDK・リビング広め……家賃30万円までで見てみますね」
「30万まで出したら、だいぶ選べるんちゃいます?」
新井が桐生の画面を覗き込む。
「駅からの距離も、ある程度選べそうですね」
藤田まで身を乗り出した。
いつの間にか、3人で物件を探し始めている。
神代もスマートフォンを取り出した。
「30万として、1年で360万……5年で1800万か」
ぽちぽちと画面を操作する。
「NEST名義の業務用拠点だから、家賃は経費で落とせるし……」
さらに指を動かす。
「機材、防音室、家賃、制作費……今年は経費増えるなぁ」
神代の口元が、わずかに緩んだ。
「……NESTの利益、だいぶ圧縮できるな」
「神代様」
「はい?」
「なぜ嬉しそうなんですか」
「いや、どうせ必要なものに使うなら、税金も少し安くなるなと思って」
「そうですか」
黒瀬はそれ以上何も言わなかった。
ただ、神代をしばらく見ていた。
「……前から一度、お聞きしておきたかったんですが」
「なんです?」
「マリナプロジェクトの総予算は、どの程度を想定されていますか」
「総予算ですか」
「はい」
神代は少し考えた。
「前に持ってた株をいくつか売った時に、8億5000万くらいになったんですよ」
その言葉に、新井が顔を上げた。
「そのうち5億はNexus Liveさんへの出資に回したから……」
神代は指先でテーブルを軽く叩いた。
「残り3億5000万でしょう」
少し考えてから、黒瀬を見る。
「だから、3億5000万くらいですかね」
会議室が静まり返った。
梓も思わず神代を見る。
桐生はスマートフォンを持ったまま固まり、藤田も言葉を失っていた。
「……3億?」
新井が、ようやく声を出した。
「3億5000万です」
「いや、そこ細かく訂正するとこちゃいますって!」
新井は神代をまじまじと見た。
「この人、ぶっとんどるわ……」
「神代さん」
梓も、さすがに黙っていられなかった。
「……それ、マリナ1人に、ですか?」
「そうですけど」
「3億5000万を……?」
「はい」
神代は周囲の反応を見回し、少し首を傾げた。
「足りませんか?」
「足りる足りないの話ではありません」
黒瀬が即座に返した。
「ライバー10人くらいデビューさせられますよ!」
藤田が思わず声を上げた。
「10人も?」
「できますよ。それだけあれば!」
神代は少し考えた。
「じゃあ、別のことにも使えますね」
「……そこなんですか?」
「だって、マリナに全部使う必要はないんでしょう?」
「それは、そうですけど……」
梓はまだ数字の大きさに頭が追いついていなかった。
「神代さん。それって……マリナのために用意したお金なんですよね?」
「用意したっていうか……株売っただけですけど」
「……株を」
「はい」
あまりにも普通に答えるので、梓にはそれ以上何も言えなかった。
新井が小さく呟いた。
「……金の桁がおかしいねん」
神代は腕を組んで少し考えた。
「でも、3億5000万あれば10人くらいデビューできるんでしょう?」
「規模にもよりますけど、それくらい大きな予算ですよ」
藤田が答える。
「じゃあ、マリナ1人には意外に掛からないんですね」
「意外に、というか……」
藤田が苦笑する。
「普通は3億5000万も用意しません」
「だったら」
神代は桐生たちを見る。
「配信環境とか、皆さんが使う場所にはちゃんと投資しましょうよ」
桐生が顔を上げる。
「削る必要のないところまで狭くすることないでしょう。長く使うなら、使い勝手がいい方がいいですし」
「……まあ」
黒瀬が小さく息を吐いた。
「必要性があるのであれば、私も反対はしません」
「じゃあ、さっきの2LDKで」
「間取りは、すでにその条件で探すことになっています」
「あ、そうでしたね」
新井が小さく笑った。
黒瀬は資料へ視線を戻した。
「では、改めて確認します」
神代を見る。
「3億5000万円を上限と考えてよろしいですか?」
「上限……」
神代は少し考えた。
足りなければ、他の持ち株をいくつか整理すればいい。
そう考えたが、口には出さなかった。
「……まあ、とりあえずは」
「その『とりあえず』が非常に気になるのですが」
「でも、3億5000万あれば足りるんでしょう?」
「十分です」
「じゃあ、大丈夫ですよ」
神代はあっさり頷いた。
黒瀬は数秒黙ってから、資料へ視線を戻した。
「分かりました。ひとまず3億5000万円を現在の予算枠として扱います」
「はい」
「ただし、予算があることと、使うことは別です」
「それは分かってますよ」
「必要性はこちらで精査します」
「お願いします。俺じゃ、その辺は判断つかないんで」
「……承知しました」
黒瀬が資料を一枚めくった。
「では、配信拠点については、桐生が条件に合う物件を絞り込み、内見の日程を調整してください」
「分かりました」
「新井は必要な配信機材と防音室を選定し、手配を進めてください」
「了解です」
「併せて、候補物件ごとの回線状況も確認し、桐生と共有するように」
「分かりました」
「費用は一度弊社で支払い、NESTへ請求します」
「はい。それでお願いします」
神代は頷いてから、黒瀬へ付け加えた。
「見積書だけ、俺の方にも送ってくださいね」
「承知しました」
黒瀬が手元の資料を閉じた。
「では、本日の議題は以上です」
会議室の空気が、少しだけ緩んだ。
「第一回マリナプロジェクト制作会議は、これで終了します」
「お疲れさまでした」
いくつもの声が重なった。
梓も頭を下げる。
「お疲れさまでした」
引っ越すことになると思っていた。
けれど、自分の生活は何も変わらない。
代わりに、吉祥寺にマリナのための場所ができる。
誰にも遠慮せず、声を出せる場所。
これからマリナが声を届けていくための場所だった。




