第26話「選ばなかった道」
「では、モデルの確認はこのくらいにしましょう」
黒瀬が資料を1枚めくった。
「次に、デビュー後の配信内容についてです」
モニターには、まだマリナが映っている。
今度は動きを止め、こちらを見つめたままだった。
「まずは雑談を中心に、ゲーム配信、視聴者から届いたメッセージを扱う企画。このあたりを基本として考えています」
「はい」
「最初から企画を詰め込みすぎる必要はありません。まずは中村さん自身が、配信というものに慣れることが重要です」
藤田が資料を見ながら口を開いた。
「ただ、早いうちに1つか2つ、中村さんだからできるものは見つけておきたいですね」
「私だから、ですか?」
「はい」
藤田が頷く。
「雑談もゲームも、やっている人はたくさんいますから。もちろんマリナのキャラクターや中村さんの声そのものが強みにはなりますけど、それとは別に何かあると大きいです」
自分だからできること。
梓は考えてみる。
演技。
声。
それ以外。
何かあっただろうか。
「歌はどうですか?」
新井が言った。
「歌……ですか」
「歌枠は定番ですしね」
「歌は……人並みだと思います」
「中村さんの人並みは、信用してええんですかね」
「え?」
「いえ、なんでもないです」
新井が笑う。
「ゲームはどうですか?」
藤田が聞く。
「ゲームはしますけど、それほど上手くは……」
「ジャンルは何ですか?」
「RPGやシミュレーション系を少しやります」
「なるほど」
藤田がメモを取る。
その横で、神代が1枚の書類を見ていた。
オーディションの応募用紙だった。
「あ」
突然、神代が声を上げる。
「そういえば中村さん」
「はい?」
「特技のところに、イラストと書いていましたよね」
心臓が小さく跳ねた。
「あ……はい」
「今も描いているんですか?」
「……描いています」
「どのくらい描いているんですか?」
「どのくらい……」
答えに困る。
「ほぼ毎日、少しずつ」
「毎日ですか?」
「あ、でも大したものじゃないです!」
思わず声が大きくなった。
「寝る前に少し描いているだけです。誰かに見せたりしているわけではなくて……」
神代の目が明らかに変わった。
嫌な予感がした。
「それ、配信で活かせるんじゃないですか?」
「え?」
神代が黒瀬を見る。
「だって、マリナってフリーランスのデザイナーって設定ですよね」
「そうですね」
「中村さん本人が本当に絵を描けるなら、設定と中身が繋がるじゃないですか」
「なるほど」
藤田も反応した。
「それは確かに強いですね」
「そうでしょう?」
神代が嬉しそうに身を乗り出す。
「イラスト配信とかできるじゃないですか。リスナーと喋りながら描くとか」
梓は少しだけ身を縮めた。
「いや、そんな、人に見せられるようなものでは……」
「そこです」
黒瀬が口を挟んだ。
神代の勢いが止まる。
「イラストが描けること自体は、確かに強みになる可能性があります」
「ですよね」
「ただし、クオリティ次第です」
黒瀬は梓を見る。
「厳しい言い方になりますが、『描ける』と『配信で見せられる』の間には差があります」
「……はい」
「マリナの特技として前面に出すのであれば、実際のものを確認してから判断すべきでしょう」
「では、話は簡単じゃないですか」
神代が言った。
「見せてもらえばいいんじゃないですか」
「え?」
「中村さんの絵です」
「い、今ですか?」
「今、見せてもらえるものはないですか?」
「持ってきては……」
言いかけて止まる。
紙で持ち歩いているわけではない。
でも、データなら。
「あの」
「はい?」
「クラウドに保存してあるので……」
全員の視線が集まった。
「今でも、見ようと思えば見られますけど」
「本当ですか?」
案の定、神代の顔が明るくなる。
「それなら、見せてもらいましょう」
「えっ」
「新井さん、モニターに映せますか?」
「映せますよ」
新井が即答した。
「共有リンクを送ってもらえれば、そこのモニターに映せますよ」
「モニターに?」
梓は前方の大画面を見る。
ついさっきまでマリナが映っていた画面。
あそこに。
自分の絵を。
「スマートフォンで見るくらいでは……」
「細かいところが見えないじゃないですか」
神代が当然のように言った。
「……」
逃げ道が消えた。
「中村さん」
黒瀬が声をかける。
「無理に見せる必要はありませんよ」
「あ……」
少しだけ救われる。
けれど。
ここで隠すのも違う気がした。
マリナを専属でやると決めた。
自分に使えるものがあるのなら、ちゃんと見てもらうべきだ。
「……大丈夫です」
スマートフォンを取り出す。
「見てください」
クラウドを開く。
何年分もの絵が入ったフォルダ。
その中から、比較的新しいものをいくつか選んだ。
「この辺なら……」
「ほな、リンクを送ってもらえますか」
「はい」
新井に教えられたアドレスへ共有リンクを送る。
数秒後。
「来ました」
新井がノートパソコンを操作する。
モニターが切り替わった。
「……っ」
1枚目のイラストが、会議室の大画面いっぱいに表示された。
梓は思わず顔を覆いそうになった。
オリジナルの女の子。
少しデフォルメの効いた、明るい表情のキャラクター。
自分の部屋の小さなモニターで見ていた絵が、何倍もの大きさになっている。
「大きい……」
「そら、モニターですから」
「そういう意味ではなくて……」
新井が笑う。
次の絵へ切り替わる。
少し大人びた女性。
その次。
夕暮れの街並み。
誰もいない夜道。
窓から差し込む朝の光。
誰も喋らない。
梓には、その沈黙が恐ろしかった。
(……何か言って)
無言が1番怖い。
自分の1番無防備な部分を、会議室の大画面にさらしているような気分だった。
「……これ」
最初に口を開いたのは矢野だった。
「新井さん、少し前のキャラクターの絵に戻してもらえますか?」
「はい」
画面が切り替わる。
矢野が椅子から少し身を乗り出した。
「……これ、かなりレベルが高いですよ」
「え……」
梓は思わず聞き返した。
「お世辞ではありません」
「少し拡大してもらえますか?」
「この辺ですか?」
「はい。髪のところをお願いします」
画像が大きくなる。
次の瞬間。
「線に迷いがないんです。特に、この髪ですね。描き慣れていないと、これだけ毛束を重ねたときに流れが途中でぶつかったり、前後関係が曖昧になったりするんです。でも、この絵は分け目から毛先まで、頭の丸みに沿ってきちんと繋がっています」
さっきまで語尾が消えそうなほど小さな声で喋っていた人とは思えなかった。
「手もそうです。指の付け根が緩い弧を描いているでしょう。手の骨格を理解している人の線です」
一息だった。
会議室が静かになる。
矢野だけが気づいていない。
「……これ、独学ですか?」
今度は梓の方をまっすぐ見た。
目が合っている。
「あ……はい。ほとんど独学です」
「少しは習ったことがあるんですか?」
「小さい頃から自己流で描いています。きちんと習ったのは、専門学校の選択授業で基礎を少しだけです」
「声優の専門学校ですか?」
「はい。イラストの選択授業もあったので、興味があって取ってみたんです」
「なるほど……」
矢野が画面を見直す。
「基礎を少し学んだだけで、その後は自己流でここまで描けるようになったんですか?」
「はい」
「……これはもう、半分くらい持って生まれたものですね」
「え?」
「線の感覚です」
矢野はあっさり言った。
「もちろん粗いところはあります。でも、その粗さを補って余るくらい線に力がある。こういうものは、教わったからといって簡単に身につくものではありません」
その言葉に、どう反応すればいいのか分からなかった。
「……あの」
梓は思わず口を挟む。
「粗いところは、どこですか?」
「あ、いや、それは」
矢野が慌てたように手を振った。
「悪い意味ではありません。直すとすれば、肩から腕にかけての繋がりです。この腕の付け根、肩甲骨の動きをあまり意識せずに描いていますよね。静止画ならほとんど気にならないんですけど、動かす前提だと破綻しやすくて。Live2Dでは、腕を上げる変形をつけたときに肩の線が――」
そこで矢野の口が止まった。
ようやく、部屋が静かになっていることに気づいたらしい。
「……すみません」
急に声が小さくなる。
「今のLive2Dの話は、1枚絵にはほとんど関係ありません」
新井が吹き出した。
「矢野さん、急にめっちゃ喋りますね」
「……すみません」
「なんで謝るんですか」
藤田も笑いながらモニターを見る。
「でも、これだけ描けるなら本当に使えそうですね」
「新井さん、風景の方お願いします」
「はい、分かりました」
夕暮れの街並みに切り替わる。
矢野はまた画面を見る。
「こちらもいいですね」
「本当ですか?」
「はい。背景も描けるんですね」
「以前、背景ばかり描いていた時期がありまして」
「なるほど」
矢野が小さく頷く。
「光の置き方が上手いです。あと、空気感があります」
「空気感……」
「ただ綺麗に描いているだけではなくて、時間帯が分かるというか。きちんと温度があります」
藤田も身を乗り出した。
「この夕暮れ、そのまま配信のサムネにしても映えません?」
「あ、それ俺も思いましたわ」
新井が頷く。
「中村さん、これ絶対出した方がええですよ」
次々に飛んでくる言葉を、梓は呆然と聞いていた。
レベルが高い。
線に力がある。
持って生まれたもの。
どれも、自分の絵に向けられるとは思っていなかった言葉だった。
6年間、絵はあくまで選ばなかった道だった。
声優を選んだあとも、ただ好きだから描き続けてきた。
仕事になるとも思わなかった。
誰かに認めてもらうためでもなかった。
それを今、プロの現場にいる人たちが真剣に見ている。
「……ちなみに」
矢野が梓を見る。
「何を使って描いているんですか?」
「機材ですか?」
「はい」
「専門学校に入る前に買ったペンタブを、まだ使っています」
「そのモデルを、今もですか?」
「はい。ずっと使っているので、手に馴染んでいるんです」
矢野の目の色が変わりかけた。
そのとき。
黒瀬が資料をめくる音がした。
矢野の口が閉じる。
何かが始まりかけていた気がしたが、梓には何だったのか分からなかった。
* * *
その賑やかなやり取りから少し離れて、神代が1枚の風景画を見ていた。
「……あの、中村さん。これ」
「はい?」
新井が画面を切り替える。
そこに映ったのは、ホテルのカウンターを描いた1枚だった。
人はいない。
磨かれた木目。
据え置きの電話。
奥の壁に掛かった時計。
窓の外は夜だった。
神代はしばらく画面を見ていた。
「この絵、少し寂しいですね」
梓の肩が小さく跳ねた。
(……暗い絵だと思われた)
「でも、不思議と落ち着きます」
神代は画面から目を離さない。
「誰もいないのに、ここなら1人でいても大丈夫だと思える。そんな絵です」
梓は顔を上げた。
神代はまだ絵を見ている。
お世辞を言っているようには見えなかった。
あの時間が好きだった。
誰にも言ったことはない。
誰も来ない夜のロビーに、1人で立つ。
伝票を整理しながら、昼間に聞いた台詞の言い回しを頭の中で転がす。
もらったことのない役の声を、小さく試す。
オーディションのことを考える。
描きかけの絵の続きを考える。
誰も聞いていないから、どこまでも自由だった。
寂しくないのかと聞かれれば、寂しかった。
それでも梓は、あの時間が好きだった。
6年間。
ずっと。
ただ好きで描いた絵だ。
神代が感じ取ったものが、自分の思っていたものと本当に同じなのかは分からない。
それでも。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
* * *
その一方で、黒瀬は1枚1枚を無言で見ていた。
神代とも。
矢野とも。
藤田や新井とも違う。
感想を口にすることなく、ただ画面を見ている。
「どうですか、黒瀬さん」
矢野が水を向けた。
黒瀬はすぐには答えなかった。
もう1度、何枚かの絵を確認する。
それから静かに口を開いた。
「技術的には、まだ粗い部分があります」
梓は少しだけ身構えた。
「プロのイラストレーターと比べれば、詰めの甘いところはいくつもあります。デッサンの狂いも、正直ゼロではありません」
「……はい」
淡々とした指摘だった。
けれど。
「ただ」
黒瀬が画面を見る。
「線に迷いがありません」
梓は瞬きをした。
さっき矢野が言ったのと、同じ言葉だった。
「配信で見せるのは、完成した絵だけではありません」
黒瀬が続ける。
「描いている過程そのものです」
資料の上にペンを置く。
「何を描くか考える。線を引く。直す。色を選ぶ。迷う。その過程を、視聴者と一緒に見せていく」
黒瀬が梓をまっすぐ見る。
「中村さんの場合、その過程を見せるだけの技術は十分にあると思います」
「……」
「その意味では、武器になります」
息を呑んだ。
さっきまで、
『描ける』と『配信で見せられる』の間には差がある。
そうはっきり言っていた人が。
武器になると言った。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
黒瀬は小さく頷く。
「では、イラスト制作の配信を活動の柱の1つとして正式に組み込みましょう」
資料へ何かを書き加える。
「雑談。ゲーム実況。そして、イラスト」
ペン先が止まった。
「まずは、この3本を軸に進めます」
「はい……!」
梓は深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
顔を上げる。
モニターには、まだ自分の絵が映っていた。
声優になる前から描いていた。
声優を選んでからも、6年間ずっと描き続けた。
選ばなかったはずの道。
仕事にもならず、誰にも見せず、それでも手放さなかったもの。
それが今。
思いがけない形で、マリナへと繋がろうとしている。
声も。
演技も。
絵も。
今まで自分の中で別々だったものが、1つずつ同じ場所へ集まっていく。
6年間積み重ねてきたものを、全部持っていく。
あの日、自分でそう決めた。
その意味が。
少しずつ、形になり始めていた。




