第24話「GOOD LUCK MY WAY」
Xにて、登場キャラクターのビジュアルを掲載しています。
興味がありましたら、プロフィールから覗いてみてください。
退所届の用紙は思っていたよりあっけないものだった。
A4の紙が一枚。氏名。所属年数。退所希望日。それから退所理由の欄。
その欄の前でしばらくペンが止まった。
――一身上の都合により。
結局そう書いた。
六年がこの七文字で終わるのが、なんだか少しおかしかった。
***
社長室に通されたのは午後の早い時間だった。
白川さんが隣に立っている。
退所届を両手で差し出した。
「お世話になりました」
社長がそれを受け取った。一度だけ内容に目を通した。
「……ああ」
短くそう言って、机の上に静かに置いた。
「六年、だったな」
「はい」
「正直に言うと、うちは君に何もしてやれなかった」
声は淡々としている。
「才能がなかったとは思わない。ただ、うちの規模では君を売り出す余力がなかった。それだけの話だ」
何と答えていいか分からなかった。
「恨んでくれても構わんよ」
「……いえ」
首を振る。
「六年間置いていただけただけで、十分です」
社長がしばらくアズサの顔を見ている。
それから小さく息を吐いて椅子の背にもたれる。
「――VTuber、だったか」
「はい」
「うまくいくといいな」
社交辞令にも本心にも聞こえる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
それで終わりだった。
六年在籍した事務所との別れは、拍子抜けするほどあっさりしていた。
***
エレベーターホールまで白川さんが見送りに来た。
二人ともしばらく何も言わない。
階数表示のランプがゆっくり降りてくる。
「アズサちゃん」
「はい」
「これ」
白川さんが鞄から小さな紙包みを取り出した。
「餞別ってわけじゃないんだけど」
受け取って中を開ける。
喉飴の缶だった。
声優なら誰でも知っている定番の缶。
「……白川さん」
「六年前ね。あなたが最初に事務所に来た日。緊張しすぎて声が全然出なくなっちゃって」
白川さんが少し笑う。
「あの時これ渡したの。覚えてる?」
缶を握りしめる。
覚えている。
初めての顔合わせ。緊張で声が震えて、まともに挨拶もできなかった。そんな自分に白川さんが何も言わずに差し出してくれた一粒。
あの日から六年が経った。
「……覚えてます」
「よかった」
白川さんが目を細めた。
「声を使う仕事なら、何をやっても喉は大事だから」
視界がじわりと滲む。
声を使う仕事なら。
声優じゃなくなっても。VTuberになっても。
この人はちゃんとそう言ってくれた。
「白川さん」
「うん」
「……六年間、本当にありがとうございました」
言葉はそれしか出てこない。
六年分をたった一言に詰め込むには無理があった。
「うん」
白川さんが頷く。
「ちゃんと聞いた」
エレベーターの扉が開く。
「頑張ってきなさい」
深く頭を下げて乗り込んだ。
扉が閉まる直前、白川さんが小さく手を振っているのが見えた。
その姿が遮られて消える。
喉飴の缶を胸に押し当てた。
六年の終わり。
こんなにも静かに訪れるものだった。
***
その日の夜。
いつも通り従業員用のロッカールームで、制服に着替えた。
六年間、袖を通し続けた制服。何度も洗濯されて、少し色褪せている。
鏡に映る自分を見て思う。
あと何回これを着るんだろう。
小さく息を吐いてフロントへ向かった。
引き継ぎを済ませる。日勤のスタッフが帰っていく。ロビーがいつもの静けさに包まれていく。
夜十時を過ぎた頃、西村が事務所から出てきた。
「中村さん。お疲れさまです」
「あ、支配人」
カウンターから出た。
言うなら今しかない。
鼓動が少しだけ速くなった。
「あの……お話が、あるんですけど」
「はい。どうされました」
西村がいつもの穏やかな顔で振り返った。
一度深く息を吸った。
「私、来月いっぱいで辞めさせていただきたくて」
言葉が静かなロビーに落ちた。
西村はしばらく動かなかった。
それからゆっくりと瞬きをする。
「……そうですか」
驚くでも慌てるでもなく、ただそう言った。
「急なことで、本当に申し訳ありません」
深く頭を下げる。
「来月分のシフトは最後まできっちり入らせていただきます。ご迷惑をおかけしますが」
「いえ」
西村が首を振った。
それから少し考えるように間を置く。
「中村さん。次のお仕事はもう決まっていらっしゃるんですね」
「……はい」
「準備やご挨拶で、いろいろとおありでしょう」
顔を上げた。
西村は穏やかな目でこちらを見ている。
「無理をして来月いっぱいまでうちに縛られることはありません」
「え……」
「今月までで結構です」
言葉を失った。
「で、でも、それだとシフトが。人手が足りなくなるんじゃ」
「なんとかいたしますよ」
あっさりしていた。
「六年もうちを支えてくださったんです。最後くらいはこちらに気を遣わせてください」
少しいたずらっぽく笑う。
「新しい門出を前に、うちのシフトのことで頭を悩ませていらしたら、申し訳ありませんから」
何も言えなかった。
予定が全部前にずれる。黒瀬さんに連絡しなければ。
そんなことを考えかけて、すぐにどうでもよくなった。
六年間、この人は何も聞かなかった。
声優をやっていることは知っていた。夜勤明けにレッスンへ向かうことも、オーディションの前日に休みを取ることも。それでも何も聞かなかった。
ただシフトを調整してくれた。ただ正社員にならないかと何度も声をかけてくれた。
この人はずっと見ていたのだ。
黙って、何も言わずに。
そして最後まで、自分のことよりアズサの門出を気遣っている。
「あの、支配人」
「はい」
「正社員のお話……お断りすることになります」
言いながら声が細くなる。
「すみません。まだ考えていますと申し上げたのに」
「あれは私が勝手に申し上げていたことです」
西村の表情は変わらない。
「お気になさらず」
それだけだった。
「――夢は、かないましたか」
ふいにそう聞かれた。
すぐには答えられなかった。
夢がかなったのか。
声優事務所を離れた。マリナという別の名前を背負って生きていく。二十歳で目指したものとは違う場所だ。
それでも。
「……まだ、わかりません」
アズサは一度、言葉を切った。
「でも、かなうかもしれない場所には、立てた気がします」
西村はその返事を聞いて、ゆっくりと頷いた。
「そうですか」
そして少しだけ笑った。
「それは、よかったです」
たった一言だった。
それだけの言葉だった。
なのに涙がこぼれた。
「……あ、すみません」
慌てて袖で拭う。
「いえ」
西村がカウンターの中の時計を見上げる。
「今月はまだ残っています。最後までよろしくお願いします」
「……はい」
それ以上は何も聞かれなかった。
西村はいつも通り事務所へ戻っていった。
その背中が扉の向こうへ消えると、ロビーにまた静けさが戻った。
アズサはカウンターの内側で、一人立ち尽くしていた。
窓の外を、タクシーが一台通り過ぎていく。
この景色を見るのも、あと少しだ。
六年、ここに立ち続けた。
誰も来ない夜には、これからのことを何度も考えた。
小さな声で台詞を繰り返したこともある。
客のいないロビーで、まだ演じたこともない役の姿を思い描いたこともある。
オーディションに落ちた夜も。
もう無理なのかもしれないと思った夜も。
それでも次の日になれば、またここに立っていた。
誰にも見られないところで積み重ねてきた時間。
それが何につながっているのか、ずっと分からなかった。
けれど。
無駄ではなかったのだと思う。
あの六年があったから、今の自分がいる。
そして今、その先にマリナがいる。
アズサはそっと、カウンターの木目に手を触れた。
「……ありがとう」
誰にともなく、そう呟く。
まだ夢がかなったわけじゃない。
これから何が待っているのかも分からない。
それでも。
自分で選んだ道なら、歩いていける気がした。




